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北欧の豊かな国デンマーク。この国の首都コペンハーゲンのはずれ、そこにアシステンス教会墓地があります。
ここにあるキルケゴールの墓地に行こうと思ったのは、彼が昔から気になる哲学者で、機会があれば彼の地に立って彼を偲んで見たかったからです。それと、あれもこれも、あれかこれか、と生きてきた自分の人生を中断させたからでした。
「あれかこれか」と選択し、自らを実現していると思いながら自由を謳歌するうちに、誰しも自己満足で自分中心的な生き方に気づきます。
気づいたときに、キルケゴールは、その時に人は絶望に陥ると言います。
わたくしも、そのとき少なからぬ絶望の中にあって、自分の本当の生き方はキルケゴールの言う「祈る」ことのみにて得られるんじゃないかという気がしていました。
人生が己の意志に関係なく、コロコロとあらぬ方向へ転がっているのを感じていました。
そんなとき何かのよりどころを探るものなのでしょう。
キルケゴールの時代、スキャンダルを大きく誇張して暴き立てる大衆ジャーナリズムが生まれたそうです。人による意地の悪い都合は、噂という真実の敵によって人々を平準化しようとする。人は無責任にも、実に簡単に憶測をおもしろおかしく真実にしてしまう。目に見えない手によって、コロコロと転がされるのが人生なのでしょうか。
とはいっても、私も含めてみんなが自分中心と打算。人を恨んでも仕方がない。
どうすればいいのでしょうか。
そんな中から抜け出すには、自分の信念も生き方も虚偽であると気づくことだとキルケゴールは言います。
あれかこれかと自分自身が生きているようでもそれでは絶望に陥るばかり。
そして、キルケゴールは次の段階として、他者としての神のみぞ自分を救ってくれると言います。
現代の日本人に「神」などと言うと、何を言っているんだ、この人おかしいんじゃない、と訝しく思われるのがおちです。
でも日本は、世界中で、信仰というものについて全く縁のない数少ない国です。
欧米では、この時代にあっても「信仰」は重大な問題です。欧米の映画を見ても、ほとんどがキリスト教の問題がベースにあって絶対に切り離すことはできません。
インドでもそうですし、イスラム諸国でもそうです。
わたくしは、ご多分に漏れず戦後教育の無神論者ですが、目に見えない手によってコロコロと転がる人生についてキルケゴールの生き方を考えてみたいと思ってコペンハーゲンにまでやってきました。
そして、キルケゴールの墓を前にして、「いま自分が在る」とはどういうことなのか、という「在る」という根本的なことについて躓いてしまいました。「在る」から転がるのか?
転がるとは、過去から未来へという時間を生みます。じゃあ、現在とはどういう状態なのか。現在はどの状態を言うのでしょうか。
過去から未来へ転がっているというのは虚妄じゃないのか。そういう当たり前の時間経過は常識ですが、そうじゃないんじゃないか、と思えます。
時間が流れている?
いや、時間が流れていると考えるから転がっていると考えて、侘びしいんじゃないか。
そんな錯覚から目を覚まさないといけない。
そんなことを考えながらキルケゴールの墓地を探しました。
なかなか見つからなくて、まれにしか出会わない散歩の人をつかまえてキルケゴールの墓地はどこでしょうかと聞きました。でも、誰も知らないと言います。何人目かの人がやっと「ああ、philosopher だね」という理解者に出会いました。
やっと見つけた墓地の前で、いま「ある」ということに思い至ることによって、何かが開けるんじゃないかという希望がわいてくるのを感じました。
絶望にあったとして、それでもいま自分はどのように在るのかを考えること、未来や過去にとらわれず、今を見つめること、そんな答えを与えてくれた気がしました。
広大なアシステンス教会墓地のなかを半日さまよってよかったのだと思いました。
そしていつしか、信仰心とはほど遠い自分の旅は、ドイツの哲人、ハイデガーを求めつつありました。
ドイツのメスキルヒの野の道、ハンデガーの思索の森に行ってみよう!
(写真)
上 ・ アシステンス教会墓地を行く筆者
中上・ バスに乗って行きました
中 ・ 墓地近くの街中の筆者
中下・ 買い物をする市民
下 ・ キルケゴールのお墓
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