メスキルヒの森

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メスキルヒの森 8

 さて、ハイデガーのいう現存在分析に於いては、現存在の日常形態は大多数の人と同じだろうかと気にしたり、人とは違った在り方になっているのではないかと気にかける存在形態であるといい、そして、平均的なただの人としてそれぞれ先生や銀行員や大工さんとして日常の中で忙しく立ち回ることに没頭しようとしている存在であるという。
 ハイデガーは、こういう現存在がいかなるものかと考えることがとにもなおさず存在の意味を問うことであるという。存在の意味を問うということは、「存在・ある」を何が可能にしているかと問うことである。デカルトやカントのように、客観的に普遍妥当なものの確実性を理性について言うより以前に、人間がまず我が在るとして存在していると考えるのである。人間は自分の存在そのものが一番の関心事であって、できるだけ立派な人間であろうと思うように常に自分が最大の関心事である。我思うゆえに我有り、ではなく我在るゆえに我思うなのである。世界内存在の内存在たる現存在はまた、人間は本来あるべき在り方になろうとする存在でもある。
 世界の内にあるとは、これまた地理的物理的空間の中にあるとか、なにかの入れ物の中にただ単に入っているということではない。何かの内にある個体ということではなく、全体となる可能性の存在だということである。世界が我々に開かれていると考えるのである。世界内存在の内存在とは、世界に対するそのような存在なのである。そういう意味では、梵我一如である。
 そしてハイデガーは、現存在自体は「開け、明るみ」であると呼んでいる。「明け、明るみ」は「開示性」といわれ、現存在には覆いをはぎ取り本来あるべき在り方、明るみにもたらそうとする運動があるという。つまり事物が開かれてきた人間と世界の関係性の在り方であり、この運動がハイデガーの時間性の問題でもある。この時間性は空海の云う即身成仏の即とでも言えようか。
 この内存在は既に「現」に投げ入れられてそれに先だつ存在についてはハイデガーも言及していない。自分がここにいるということは、いつのまにか無意識のうちにすでにここにいるのである。そして、その投げ出された自分の可能性によって世界が開けているのである。現存在の可能性によって開かれた個々の物の可能性とそれらが帰趨する意味関連全体が開かれているのである。ハイデガーは、この被投的企投の中において、時間への還元による純然たる現在(本来あるべき在り方)に導こうとするのである。 
 
 現存在は被投的企投であって、人それぞれの役柄として日常に頽落しているものである。しかしながら、本来あろうとする在り方、実存が顕現するときがある。本来あるべき在り方になろうとするときがある。
 それは、平和な日常(頽落)を送っていても、その日常が崩れたときである。
 言わずと知れた死である。死はその究極である。
 毎日毎日、平均的な人として過ごしてきた自己が、今まで直面したことのない日常に出くわしたときに何かが顕れる。日常が消え去り、自己の単独化の到来はそれまでの気配りが何であったのか、と自分の存在の意味を問う契機となるのである。自己自身の内なる実存の問題がここにある。
 現存在は、世の中の習慣に迎合しており、伝統から物事を解釈し、世間での人生観や世界観に添っていこうとしている。空談や好奇心、井戸端会議に明け暮れる現存在の頽落な日々が過ぎている。しかしそういう日常を「不安」という気分が揺さぶる。有限の存在と時間に怖れるのである。
 だからハイデガーは、現存在について気分というものに重点を置き、「不安」という気分を分析した。ちなみに、気分と言うことでは、『形而上学の根本諸概念』において「退屈」という気分も分析しているが、「死」の不安という極端で未経験の気分より、日常の中で今まさに経験している「退屈」という気分のほうがより現実肯定的であるように思われる。
 そこでこの不安からの脱出についてハイデガーは現存在の超越的可能態を思索するが、ここは信仰という問題に深く関わるかと思われるところである。
 

メスキルヒの森 7

世界内存在・ゾルゲ・不安・死
 
 人間自身の実存を考えるにあたって、ハイデガーの世界内存在の現存在の存在という概念を改めて見ることとする。
 世界とは、デカルトの言う地理的物理的空間のことではない。認識主体としての自己と世界という対立軸のことではない。世界が現存在の意志に先だってそこに開かれていて、そこに道具連関的な世界との関係がある。人間が主観的な意味づけをするというのではなく、知らぬ間に意識せずに空気のように道具連関の中に投げ出されているのである。現存在の「現」は、「そこに」という意味があり、そこに隠れ無くあるという意味である。そして、現存在は明確な認識などされることなどなく、「現」に投げ入れられているのである。ハイデガーのいう世界内存在の現存在の存在は、身近なものや手元にある道具に気を配っている存在であって、世の中にそぐわない存在となっていないかどうかを気にかける存在ということである。そして、人は先生や医者や大工や銀行員としてその役柄に没頭しているのである。それぞれの役柄の在り方をしており、その中に本来性・非本来性があって、そういうことをすべて含んだ中に人間は在るとして、「世界内存在」と呼ぶ。
 そしてこういう世界内存在の現存在を、時間性・歴史性へと還元することが、存在の意味への問いとなるのである。

 大乗仏教は一般的には一切の存在者のその存在理由については無頓着である。その答えは無いという前提である。そして、その存在の無に対しては、大乗は衆生の無明をいい、そういう衆生は「苦」の中にあるとする。この「苦」の解脱と涅槃を教えるところである。
 ハイデガーの世界もまた、現存在に先立つものとして現存在の存在理由については問うていない。現存在は既に投げ出されているのである。それから、現存在の有り様について、「世界内存在」という概念の展開の中で、現存在の非本来性を導き出していくのである。
 大乗仏教が、一切の存在者が根源的な存在理由を持たないままに、現実の諸条件に生起している事実つまり縁起を悟ることを説くが、それはハイデガーの現存在分析の「頽落」に至る展開にきわめてよく似ている。ハイデガー曰く、現存在は常に自分の在りように関心を寄せていて苦慮する存在である。それは、他者の存在にも関心が向けられる。他者との区別や差別に苦慮する日常にあって気遣い、憂慮、苦慮する存在(ゾルゲ)である。これは、他者によって自分を見失っていることに他ならないということである。そういう現存在は、他者と区別の付かない、他者となんら変わりのない、他者と同じようなただの「ひと」(das man)(注8)でしかなく、自分自身でない非本来的な自分を生きていることになる。ハイデガーは、こういう非本来的な実存を「頽落」(注9)と呼んでいる。
 この点については、大乗仏教がいう一切の存在者が因縁によって生起するが故に、そこには実体が無くすなわち空・無であり、因果関係によって世界と存在者の存在を把握するという認識につながるようである。そしてこれは、道具連関の世界内存在=ゾルゲのようである。ハイデガーもまた、そこでは現実性のみならず可能性という二つが不二に絡み合っているという。つまり、彼の言葉、被投的企投という言葉で語られる。自分中心的に見えるが、二元論ではないようにみえる。

 しかしながら存在者の因果論的認識は、所詮主体と客体という二元論的把握であり、それは言語による論理的な把握方法である。言葉による因果論的認識、つまり主客の論理的把握である。
 空海はより一歩進んでいて、このような認識方法にあらず、その因果関係を超越したところに仏の智慧を見るのである。その実践を用意していて、三密瑜伽行によってその境位を得、悟りの境位から一切の存在者を見ることを可能としているのである。
 弘法大師空海曰く「それ仏法遙かにあらず。心中にして即ち近し。真如外にあらず、身を棄てて何くんか求めん」(注10)
 凡夫はみんな客体を想定し、外に真如を求めてしまうものであると言われている。まさに因果論を超えた視座である。

 注8 das Man 非本来的自己。つまり社会における役柄上のひと、誰も
    がなれるだろう一般的な人、教師、医者、銀行員、床屋、国会議員
    、僧侶、漁師など誰でもなりえただろう普通一般的な配役として
    の人。他人の顔になれる人。
 
 注9 古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社現代新書103頁
   「「Verfallen」は、耽落・溺れる・吸収されるを意味する。堕落とか
    頽落とかいった道徳や宗教の意味はない。読書に耽るとか財産を没
    収されるといったときに使う」。しかし本稿では、 一般的に使用
    頻度の多いと思われる「頽落」を使用する。

 注10 『般若心経秘鍵』「夫佛法非遙心中即近。真如非外弃身何求」

メスキルヒの森 6

 明治以後、日本は欧米に門戸を開き、欧米の価値観を受け入れ倣うことによって急速な近代化を遂げてきた。長い鎖国から目覚めたにしては驚異的な発展をなしとげ、その後今日に至るまで東洋の奇跡の国として今や西側先進諸国にならんでいる。
 しかし、一方で良きにつけ悪しきにつけめくらめっぽうに西洋方式を取り込んだのはいいが、それによって足下に拠って立っていた日本人のそれまでのアイデンティティが忘れ去られることにもなり、文字通り二階に上がって梯子を外された状態である。
 今日の様々な異常な社会現象、環境問題、そして宗教、思想を考えるに当たって、我々が受け入れてきた西洋方式、その考え方や合理主義の本質を改めて振り返っておく必要があると思われる。外された梯子の回復が必要なら、そのためにも西洋と東洋の境界線をわきまえておくことが無節操な現状への警鐘になるものと思われる。
 いくら先進国に名を連ねていても、その精神的中身はといえば本来の日本の伝統や精神、文化が蝕まれて空洞化した状態となっているとすれば問題である。日本の文化や精神を欠落させて、グローバリズムという物まねとご都合主義の合理主義は経済全体を豊かにはするかもしれないが、個々の人々の心はそれに反比例して荒廃するばかりである。だから精神の空洞化と経済的格差の拡大が止まるとは思えないのである。
 
 西洋社会の基盤であるキリスト教は、魂の救済、神の愛を説き、キリストは人間を不条理から解放してくれるのだという信仰でその歴史を刻んできた。不条理から解放してくれるかどうかはさておき、そういう宗教としての反面、キリスト教はその歴史において社会規範そのものとして、西洋の政治、経済、農業、工業などの日々の営みの中に深く関わってきた。西洋は、なにもかもがキリスト教を軸として成り立ってきた。
 だから西洋においてキリスト教を否定することは、過去現在を問わず社会構造の価値観にかかわることでとてつもなく大きな問題である。
 西洋は、神の前の人間として社会全体が組み立てられてきたのであるが、それとは対照的に仏教はまさに個人の心のあり様を考えてきた宗教である。仏教は、キリスト教の根底にある人間中心主義とそれによる合理主義の立場をとってはこなかった。この違いは、日本文化と西洋文化との大きな違いといえよう。
 今日、西洋化追随の市場原理主義、科学と資本万能の考え方の精神は、キリスト教的人間主義である。問題は、日本人が合理主義の根底にあるキリスト教精神文化を理解することなくそのプラグマティックな面のみを受容していることにある。キリスト教の精神や文化の背景を知らずして、合理主義がすべての物差しの神様になっているということである。明治以後日本人は、日本の伝統、文化、精神を古いもの、西洋的でないとして軽視をしてきた。改めてそのあたりの境界を確認することは今後の日本人のアイデンティティの回復にとっては大いに必要なことと思われるのである。

 19世紀になって、キリスト教の国におけるニーチェのルサンチマンの発見は、はじめて反キリスト社会体制的な考えの出現といえるだろう。ルサンチマンという経験に立ってのキリスト教否定が生まれたが、日本ではルサンチマンの経験を経ずしてその自然観だけを実用的に受容したのである。ニーチェのこの時代にあって個々の人間の実在、現存在について考えたことは確かに無神論的実存哲学者の先駆者であったといえる。だから日本にあっては実存についての苦悩が欠落してきたといえる。
 人間の実存については様々な哲学者が思考したが、実存の内容については、あくまで神を前提とした神の御前の存在であったり、本質に先立つ存在であったり、超越の世界の存在であったりだが、やはり人間の本質が実存にあると考えるならそれは神を前提としない我々一人一人の問題であろう。この点においてニーチェは勇気あるエポックを築いたのである。
 彼は、実存を人間の存在の問題と考える限りにおいて、そしてその在り方について、神の前の平等から脱自存在としての可能性について考えた。まさに実存哲学者である。
 実存は、所与から脱することを考えることであり、仏教的には発菩提心に通じるところである。ニーチェが、魂をルサンチマンから解放することを宣言した意味は大きいものがある。
 一般的に、とくに初期の仏教に於いては社会を考えない個人の心の有り様を追求するという意味では虚無的であると思われている。初期の仏教の影響からか、同様にニーチェはキリスト教的社会体制を否定した。しかしながら、既存のキリスト教とその社会を否定したことと、あくまで個人の悟りに埋没した初期の仏教とは動機に於いて大きな違いがある。ニーチェは既存の体制の欺瞞に満足しないで生きる力としての新しい社会性を模索したが、仏教者は社会性ということにおいては、大乗の今日にあっても積極的であるようには見え難い。
 人間は、持って生まれて社会的に「生きようとする」なにかを備えている。生物的に自分を社会的に保存しようとする本能を有し、自己の保存のための精神的な向上を望む。お腹が減っては食事を求め、喉が渇いては水を求めるように社会的な慣習の中では自分を如何に適合させていくべきかと考える。ニーチェは、人間は本来そのようにできているのだと考える。生滅の「生」を見つめた哲学である。
 国や民族による習慣の違いによって社会規範は違っても、それぞれの中で人間は自己を保存して成長していこうとするものである。そういう自発的な順応力、向上心を具備している。しかしながらそれはすこぶる自然で健康的なことである。人はみな、自らの肉体の審美化や感性の解放を求めていて、そしてそのことは自己の存在を確信する瞬間でもある、とニーチェはいう。人間は本来そのままで、自然の原理の中で、自然と一体となり解放感にひたるよろこびを知っているのものであると言う。実存する人間の「生」の哲学として、神の前に平等であることに疑問を呈したのである。
 しかしこの「生の哲学」は一つのヒューマニズムである。このことについては、ハイデガーの現存在の分析に通じるところがある。ニーチェの「生きる力」の背景は畢竟、ヒューマニズムの一つであって、ハイデガーの現存在における人間そのものより立ち出でるという発想につながっていく。「人間の在り方、現存在自身は、とりわけ、他の存在するものよりも優れています」(注7)
 いかに神に疑問を呈したところで、神と人間と自然の序列の枠組みそのものは変わらない。今に至るまで、神は西洋の土壌より生まれ育った西洋人のDNAであることはいかようにもしがたいものがある。ニーチェはそんな神を捨て、人間の実存に目を向けたのである。
 ニーチエは、「人間をしてあるものを真実と確信せしめるものは何か」と問われて、それは人間の「衝動」「有用性」「欲求」つまり「力への意志」であるという。その力が世界を一つの秩序として切り取り、「世界」は「力」に呼応して自分の「存在性」を顕現するという。客観的存在それ自体はそもそも存在するものではなく、ただ解釈があるのであって、その解釈を可能にしているものが「力への意志」というわけである。
 
 ハイデガーは一歩踏み込んで「世界」の解釈を認識の一形態ではなく、あくまで現存在のうちに存在了解する存在であるとし、つまり現存在は存在者が存在することを了解しているとする。あくまで存在そのものから出発した。
 ハイデガーは、『存在と時間』の中で、人間を神や自然から了解しようとするのではなく、人間を自己自身の存在から了解しようとしたのである。人間自身の実存を問題として、自己自身の中に生きる根源を見つめたのである。ちなみにこれに対して、キルケゴールは、神なくして自己はなく、自己を超えた神に対する信仰心が自己をつくるとする。神との対面に躓き神を畏怖しながら自己はいつまでも神の前にひざまずく存在であるとした。
 いずれにしても、西洋キリスト教社会における神をどう捉えるかではなく、自己はどういう存在なのか、「ある」とはどういう意味を持つのかを考えることは、今日的な日本の情況についてなにかしらの意義を持つのではないかと考えられるところである。ハイデガーは存在に神を見た。なんの神もなく、ただ頽落(後述)の中で享楽するばかりの現存在にある日本人は、いかに実存に覚醒するかということを考えてみる必要がある。
 そして空海の考えた存在の不可得という境位も又まさに実存的であると言えるのである。

   注7 ハイデガー著、桑木務訳『存在と時間 上』岩波文庫、第4
      節 「存在の問いの存在的優位、34頁」
      
      ハイデガー全集2『有と時』第4節「有・の・問のオンティッ
      シュな優位」20頁(現有それ自身は、その他の「ある」もの
      から際だった卓抜した有り方をしている)

メスキルヒの森 5

・空海とハイデガーの現存在
 一般的に、東洋から見た西洋的な考え方には、主客の視点、つまりこの世の現象への執着として見える側面がある。一方西洋から見た東洋は、現実離れした「理想郷」的で神秘的で非合理的な世界と見られがちである。
 仏教が内包する「空」は、世間から逃れることによって世間を超越しようとするが、西洋では自己の中に自己の可能性と実現を求めるということもその背景にあるかもしれない。「空」が持つ現実性の否定や歴史性の否定という一面と西洋の理性とは対峙する関係である。
 諸宗諸派仏教もどれもがその根底に於いて、「空」の処理についてそれぞれに異なった解釈に至っている。それが諸宗諸派の所以の一つとなっている。この点、空海の『般若心経秘鍵』は「空」ということを突き抜けた境位をあらわしている。
 密教は現象世界におけるいかなる現象にも普遍的原理の妥当することを見いだしていて、空を経て空を突き抜けた「現実」肯定に立つ。しかし当然それは、西洋の理性的合理主義を意味するものではない。
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 ハイデガーもまた、従来の西洋哲学的な存在の概念に限界を見て、「存在するもの」の存在たらしめている「存在」とは何かについてその意味を問うた。存在一般の意味を、人間の存在構造でもって解明しようとした。日常という「現実」の中にその問いを据えたのである。はたして、密教と彼との「現実」についての捉え方はどのように違うのか、同じなのか、この考察は合理主義社会の弊害が云々される時代にあってそれなりに意味のあることだと思われる。西洋人であるハイデガーが、人間中心主義に距離を置いて、「存在」そのもの意味を問うたことは「大いなるものの存在」への問いでもあるからである。
 いま日本の現実を見るとき、かって経験したことのない様々に困難な歴史的情況にある。日々報道されるような現実、地球環境問題、倫理教育、凶悪犯罪、善悪の問題など、すべてにわたって混乱を来している。仏教は、とりわけ密教の現象への視座を考察することによって、現在の不条理情況に陥った現代的意味について精神的に再構築できる可能性を秘めていると思われる。
 そこでここに、密教が持つ世界観、世界に対する知的システムを考え、あわせて西洋の実存思想(ハイデガー)はどのように考えたか、そこには洋の東西を問わない人間に共通する「本来性」をどのように把捉すればよいのか。こういう観点から無秩序になった合理主義社会再生への実践を模索し一考察するものである。
               (写真 メスキルヒ・マルティン教会の塔)

メスキルヒの森 4

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 豊かさは、家族がファーストフード店で食事を済ませることではない。ファーストフード店は貧しさの象徴かもしれません。豊かさは、子供にテレビゲーム機やソフトを買い与えることではない。そして、豊かさは、鉛筆を最後の根っこまで使わないということではない。
 家庭でのしつけ不足、わが子への虐待、子による親への暴力、給食費を払わない親の出現、教師を教師として敬わない風潮、いったいどうなっているのだろうか。
 ファーストフード店の安直な食事で済まさず、親の手料理で食事を共にすることが子供の教育にとってどれほどに大切なことか、テレビゲームに興じるのを是認するより読書や音楽、絵画のすすめがどれほど情操的か、モノが溢れていてももったいないというモノの大切さを知ることがなにより環境的であるか、そういう現状に対していま何が欠けて何が求められているのだろうか。
 子供の欲望を満たすことと、親の手抜きが一致することによって、不思議な親子関係が生じている。欲望も手抜きも抑制されるべきものが相互の助長関係になっている。
 何が豊かさなのか、という価値観を喪失している現状ではひたすら安直な考え方だけで物事が進んでいくのは道理である。価値観が多様化している時代というより、多様化は価値の喪失となっているのである。
 これはもはや日本人や家族の体質そのもので、困ったことに「本質化」しつつある。枝葉末節の議論に終始しているときではないのである。
 歴史的にこの「本質」を辿って分析し評論することはできるかもしれない。
 戦後の貧しい時代の貧しさ故の連帯感、そして所得倍増と高度成長期の企業戦士の出現。バブル発生、そして崩壊といったふうに。そしてその後の失われた十数年の間に、それまでの急激な経済発展、利益追求によって豊かさを享受した日本人は自信を喪失し、それとともに伝統的精神や文化が無気力に流されて本来の居場所を見失ったのである。
 と、しかしそのように歴史の流れを嘆くことはそれほど意味のあることではない。日本人が持ち合わせていた文化や秩序を押し流してしまったものの正体は何かという観点からすれば遺失した現象への回顧にしかすぎない。ふたたび遺失したものへの欲望が見え隠れする。大切なものは失った現象ではなく、ハイデガーがいうであろう日本人の現存在なのである。ハイデガー流に言えば存在忘却ということである。
 時間は、未来から過去へと一直線上に流れているのではない。過去を客観的に嘆くのではなく、過去はハイデガーのいう現存在の点滅の中に時熟(sich zeitigen)しているはずなのである。食い散らかされた過去を生むばかりで、その過去が現在に再燃焼することがない。故にハイデガーは時熟といういい方で、過去も未来も現在に於いて不二であるという。
 理性による近代合理主義は、世界を疑う自己の自信過剰、それは「自分勝手」という現象として今日的本質として居座るようになった。主観による現存在の破壊である。
 近代合理主義の根底にあるキリスト教の精神が持つ自然観が日本をも席巻したが、その合理主義は宗教の持つ「大いなるものへの畏怖」という部分を欠落させた人間主義の傲慢さだけを日本にも伝播したのである。その意味では、西洋の元初的宗教性あるいは存在思想を欠落したままの西洋合理主義の受容である。
 宗教を認めない中国でも「拝金主義」の嵐が吹き荒れているが、構造的には似通ったものがある。やはり同じ合理主義でも、元初キリスト教倫理の残る西欧に比べて似て非なるところは、宗教性のもつ節度や節操というエッセンスを欠いているところにある。倫理感が薄いのである。「偽」を生む風土にもなる。
 節度や節操は元来日本の文化の特徴的なところである。日本には、神道や仏教や儒教の精神等々伝統的な文化や精神があったはずだが、西欧合理主義の無節操な取り入れにより外来種に駆逐された日本種の動植物のような危機に瀕している。純日本種が絶えないように精神文化の環境保護こそが必要になっているのではないだろうか。
 このような現況にあってこそ、日本の伝統的思想、精神、文化を今一度見直し取り戻すことが、つまり西欧一辺倒の価値観に「躾け」を施すことが日本には可能である。西欧的価値観を誤った方向に解釈して独自の解釈をした日本、魂の抜けた人々、家族たちの方向感なき彷徨を今一度東洋の叡智で立ち直らせることは喫緊の課題だと思えるのである。
 こういう社会現象にあるいま、あらためて「いかに生きるか」が問われるのである。不安というものがあるとするならば、その不安はどこからやってくるのか、どうすれば取り除くことができるのか。われわれの現存在の存在の仕方とはどういうことなのか。実存をどう捉えればよいのか。そういう根源的な思索を確認する必要がある。
 空海は、存在の実相を「不可得」としたが、ハイデガーは存在の神秘性にこだわった。そして空海は、存在は不可得ではあるが、そこから菩提心という「生」の息吹を因とし大悲でもって行為の実践的主体性の中に社会性を見いだしたが、ハイデガーはあくまで人間存在を彼の言う性起的「生」(注1)に求め、現実社会のニヒリズムを見つめ続けた。
  「救いは、われわれがあらかじめ危険を全体に於いて見て取るところで、・・・つまり危うくするものの威力(社会構造的ニヒリズム)をことさら経験し、それをそのように現に在るものとして承認するところで、  ・・・はじめて授けられる」(注2)
 いずれにしても「存在」ということについての深い直感と洞察より始まっているのである。 
 

 注1・ ハイデガー後期の根本たる「エルアイクニス Ereignis 」は、
     川原栄峯教授が「性起」と訳し今やほとんど一般的に使用されて
     いるようである。しかし、「如来性起」という仏教的ニュアンスを
     もつところから渡辺二郎教授の「呼び求める促し」あるいは長谷
     川西涯教授の「コト(事、言、珠、異)」(Michael Gelven
     長谷川西涯訳『ハイデッガー 存在と時間 注解』ちくま学芸文
     庫477頁)などという解釈もなされている。また「存在の閃光」
     「存在の雷雨(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社
     現代新書266頁)などともいわれる。

 注2・ ハイデガー全集13『思惟への経験から』創文社

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