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さて、ハイデガーのいう現存在分析に於いては、現存在の日常形態は大多数の人と同じだろうかと気にしたり、人とは違った在り方になっているのではないかと気にかける存在形態であるといい、そして、平均的なただの人としてそれぞれ先生や銀行員や大工さんとして日常の中で忙しく立ち回ることに没頭しようとしている存在であるという。 |
メスキルヒの森
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世界内存在・ゾルゲ・不安・死 |
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明治以後、日本は欧米に門戸を開き、欧米の価値観を受け入れ倣うことによって急速な近代化を遂げてきた。長い鎖国から目覚めたにしては驚異的な発展をなしとげ、その後今日に至るまで東洋の奇跡の国として今や西側先進諸国にならんでいる。 |
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・空海とハイデガーの現存在
一般的に、東洋から見た西洋的な考え方には、主客の視点、つまりこの世の現象への執着として見える側面がある。一方西洋から見た東洋は、現実離れした「理想郷」的で神秘的で非合理的な世界と見られがちである。 仏教が内包する「空」は、世間から逃れることによって世間を超越しようとするが、西洋では自己の中に自己の可能性と実現を求めるということもその背景にあるかもしれない。「空」が持つ現実性の否定や歴史性の否定という一面と西洋の理性とは対峙する関係である。 諸宗諸派仏教もどれもがその根底に於いて、「空」の処理についてそれぞれに異なった解釈に至っている。それが諸宗諸派の所以の一つとなっている。この点、空海の『般若心経秘鍵』は「空」ということを突き抜けた境位をあらわしている。 密教は現象世界におけるいかなる現象にも普遍的原理の妥当することを見いだしていて、空を経て空を突き抜けた「現実」肯定に立つ。しかし当然それは、西洋の理性的合理主義を意味するものではない。 ハイデガーもまた、従来の西洋哲学的な存在の概念に限界を見て、「存在するもの」の存在たらしめている「存在」とは何かについてその意味を問うた。存在一般の意味を、人間の存在構造でもって解明しようとした。日常という「現実」の中にその問いを据えたのである。はたして、密教と彼との「現実」についての捉え方はどのように違うのか、同じなのか、この考察は合理主義社会の弊害が云々される時代にあってそれなりに意味のあることだと思われる。西洋人であるハイデガーが、人間中心主義に距離を置いて、「存在」そのもの意味を問うたことは「大いなるものの存在」への問いでもあるからである。 いま日本の現実を見るとき、かって経験したことのない様々に困難な歴史的情況にある。日々報道されるような現実、地球環境問題、倫理教育、凶悪犯罪、善悪の問題など、すべてにわたって混乱を来している。仏教は、とりわけ密教の現象への視座を考察することによって、現在の不条理情況に陥った現代的意味について精神的に再構築できる可能性を秘めていると思われる。 そこでここに、密教が持つ世界観、世界に対する知的システムを考え、あわせて西洋の実存思想(ハイデガー)はどのように考えたか、そこには洋の東西を問わない人間に共通する「本来性」をどのように把捉すればよいのか。こういう観点から無秩序になった合理主義社会再生への実践を模索し一考察するものである。 (写真 メスキルヒ・マルティン教会の塔) |
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豊かさは、家族がファーストフード店で食事を済ませることではない。ファーストフード店は貧しさの象徴かもしれません。豊かさは、子供にテレビゲーム機やソフトを買い与えることではない。そして、豊かさは、鉛筆を最後の根っこまで使わないということではない。 家庭でのしつけ不足、わが子への虐待、子による親への暴力、給食費を払わない親の出現、教師を教師として敬わない風潮、いったいどうなっているのだろうか。 ファーストフード店の安直な食事で済まさず、親の手料理で食事を共にすることが子供の教育にとってどれほどに大切なことか、テレビゲームに興じるのを是認するより読書や音楽、絵画のすすめがどれほど情操的か、モノが溢れていてももったいないというモノの大切さを知ることがなにより環境的であるか、そういう現状に対していま何が欠けて何が求められているのだろうか。 子供の欲望を満たすことと、親の手抜きが一致することによって、不思議な親子関係が生じている。欲望も手抜きも抑制されるべきものが相互の助長関係になっている。 何が豊かさなのか、という価値観を喪失している現状ではひたすら安直な考え方だけで物事が進んでいくのは道理である。価値観が多様化している時代というより、多様化は価値の喪失となっているのである。 これはもはや日本人や家族の体質そのもので、困ったことに「本質化」しつつある。枝葉末節の議論に終始しているときではないのである。 歴史的にこの「本質」を辿って分析し評論することはできるかもしれない。 戦後の貧しい時代の貧しさ故の連帯感、そして所得倍増と高度成長期の企業戦士の出現。バブル発生、そして崩壊といったふうに。そしてその後の失われた十数年の間に、それまでの急激な経済発展、利益追求によって豊かさを享受した日本人は自信を喪失し、それとともに伝統的精神や文化が無気力に流されて本来の居場所を見失ったのである。 と、しかしそのように歴史の流れを嘆くことはそれほど意味のあることではない。日本人が持ち合わせていた文化や秩序を押し流してしまったものの正体は何かという観点からすれば遺失した現象への回顧にしかすぎない。ふたたび遺失したものへの欲望が見え隠れする。大切なものは失った現象ではなく、ハイデガーがいうであろう日本人の現存在なのである。ハイデガー流に言えば存在忘却ということである。 時間は、未来から過去へと一直線上に流れているのではない。過去を客観的に嘆くのではなく、過去はハイデガーのいう現存在の点滅の中に時熟(sich zeitigen)しているはずなのである。食い散らかされた過去を生むばかりで、その過去が現在に再燃焼することがない。故にハイデガーは時熟といういい方で、過去も未来も現在に於いて不二であるという。 理性による近代合理主義は、世界を疑う自己の自信過剰、それは「自分勝手」という現象として今日的本質として居座るようになった。主観による現存在の破壊である。 近代合理主義の根底にあるキリスト教の精神が持つ自然観が日本をも席巻したが、その合理主義は宗教の持つ「大いなるものへの畏怖」という部分を欠落させた人間主義の傲慢さだけを日本にも伝播したのである。その意味では、西洋の元初的宗教性あるいは存在思想を欠落したままの西洋合理主義の受容である。 宗教を認めない中国でも「拝金主義」の嵐が吹き荒れているが、構造的には似通ったものがある。やはり同じ合理主義でも、元初キリスト教倫理の残る西欧に比べて似て非なるところは、宗教性のもつ節度や節操というエッセンスを欠いているところにある。倫理感が薄いのである。「偽」を生む風土にもなる。 節度や節操は元来日本の文化の特徴的なところである。日本には、神道や仏教や儒教の精神等々伝統的な文化や精神があったはずだが、西欧合理主義の無節操な取り入れにより外来種に駆逐された日本種の動植物のような危機に瀕している。純日本種が絶えないように精神文化の環境保護こそが必要になっているのではないだろうか。 このような現況にあってこそ、日本の伝統的思想、精神、文化を今一度見直し取り戻すことが、つまり西欧一辺倒の価値観に「躾け」を施すことが日本には可能である。西欧的価値観を誤った方向に解釈して独自の解釈をした日本、魂の抜けた人々、家族たちの方向感なき彷徨を今一度東洋の叡智で立ち直らせることは喫緊の課題だと思えるのである。 こういう社会現象にあるいま、あらためて「いかに生きるか」が問われるのである。不安というものがあるとするならば、その不安はどこからやってくるのか、どうすれば取り除くことができるのか。われわれの現存在の存在の仕方とはどういうことなのか。実存をどう捉えればよいのか。そういう根源的な思索を確認する必要がある。 空海は、存在の実相を「不可得」としたが、ハイデガーは存在の神秘性にこだわった。そして空海は、存在は不可得ではあるが、そこから菩提心という「生」の息吹を因とし大悲でもって行為の実践的主体性の中に社会性を見いだしたが、ハイデガーはあくまで人間存在を彼の言う性起的「生」(注1)に求め、現実社会のニヒリズムを見つめ続けた。 「救いは、われわれがあらかじめ危険を全体に於いて見て取るところで、・・・つまり危うくするものの威力(社会構造的ニヒリズム)をことさら経験し、それをそのように現に在るものとして承認するところで、 ・・・はじめて授けられる」(注2) いずれにしても「存在」ということについての深い直感と洞察より始まっているのである。 注1・ ハイデガー後期の根本たる「エルアイクニス Ereignis 」は、 川原栄峯教授が「性起」と訳し今やほとんど一般的に使用されて いるようである。しかし、「如来性起」という仏教的ニュアンスを もつところから渡辺二郎教授の「呼び求める促し」あるいは長谷 川西涯教授の「コト(事、言、珠、異)」(Michael Gelven 長谷川西涯訳『ハイデッガー 存在と時間 注解』ちくま学芸文 庫477頁)などという解釈もなされている。また「存在の閃光」 「存在の雷雨(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社 現代新書266頁)などともいわれる。 注2・ ハイデガー全集13『思惟への経験から』創文社 メスキルヒの村はずれ↑ |



