メスキルヒの森

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メスキルヒの森 3

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メスキルヒ・ホーフガルテン(ハイデガー思索の森)↑ 

 

 すべてがコンピューター化した現在、二進法的思考原理は、0か1という二元の組み合わせであり、スピリチュアリティのない限られた世界が大きな価値を形成している。そして毎日、テレビゲームに興じる機械的な動作と生活感のない感性に嬉々とする子ども達が増殖されている。その影響の一つとして、今日のなんとも異常で非人間的な、つまり残虐で無感情としかいいようのない犯罪が日常的に出現してきたことなどにも垣間見られるのではないだろうか。
 また,とどまるところを知らない機械技術の進歩の追っかけあいは、振り込め詐欺やネット犯罪などを生み、犯罪すら合理主義万能の時代となってしまっている。 
実存哲学の源流とされるニーチエの「生の哲学」は、西洋の伝統的な合理主義への反抗として顯われたが、それが理性的思考=自我という近代主義の大きな流れに棹さした意味はその後に大きな警鐘として鳴り続いている。
 近代的合理主義の物心二元論をもたらしたデカルト的思考に反して、意志の一元論をいうニーチェは非合理主義的であることにおいて実存哲学的である。実存哲学は、伝統的な合理主義に対する疑問から生まれたからである。
 合理主義は理性の哲学であり、デカルトやカントにおいて自然を数学的、計量的、幾何学的ととらえ、そして認識論的主観にとらえる理性に重心を置く。ガリレオは、「自然というこの書物は数学のことばで書かれており、そのアルファベットは三角形、円、その他の幾何学的図形であり、これらの助けなしには、そのたった一つのことばさえ理解できず、われわれはただ暗い迷路をさ迷うだけである」といった。
 この数学的科学的自然観こそ合理主義者のいう人間理性のなせる技であり、理性の絶対性以外のなにものでもないという一つの信仰である。東洋の考えてきたこと、たとえば弘法大師空海のいう宇宙のことば、真言とは対極にある。
 
 科学の進歩の結果、地球の温暖化が心配されている。確かに、実感として年々暖かいという実感がある。今世紀末には4度上昇するという報道がある。
 地球温暖化の科学的根拠を審議する「気候変動による政府間パネル(IPCC)第一作業部会」会合が、2007年2月1日にバリで開かれ、以下のような報告書を承認した。
 報告書では、温暖化は確実に進み、人間活動による温室効果ガス排出が要因である可能性がかなり高いことを確認。21世紀末には、循環型社会を実現すれば約1.8度、化石燃料に依存し高度経済成長した場合だと約4度と、幅はあるが気温上昇は避けられないと予測した。(朝日新聞2007.2.2夕刊)
 1度上昇すればアンデス山脈の小氷河が消滅して、5千万人に水供給不足が生じて、珊瑚の80%が白化する。
 2度上昇すればホッキョクグマが死滅し、グリーンランドの氷が溶け始める。
 3度上昇すれば、低地の海岸地域で2億人近くの人が洪水の被害に遭う。
 4度上昇すれば、北極のツンドラが消滅、アフリカは水が無くなる。
 5度上昇すれば、ヒマラヤの巨大氷河が消え、ニューヨークや東京は高潮で水浸し。
 これ以外、5度以上では何が起きるか憶測不能とのことである(朝日新聞より)。

 人間は、やがて死んでいく存在であるが、多くの人たちは自分が死の直前にならないと「死」の恐怖はしょせんは他人事にすぎない。地球の生死に関わることとて、同じような感覚である。結局地球の生死が目の前に来るまで、いまのままで突っ走るに違いない。将来のこととして地球上の人間は無責任である。
 今生きている人間にとっては関係のないことだろうが、こういう意識は今日の異常な事件や世相の背景ともなっている。人間本意を招いた合理主義という西洋の考え方の行きすぎはこれからも止められないのだろうか。地球の歴史からすれば、また氷河期がくるだけなのだということなのだろうか。

 イラクではいまだ毎日大勢の人が死んでいる。なにが原因でどういう理屈でたくさんの死人がでるのか。それが誤った宗教的幻想に取り憑かれたものによるのか、あるいはどこか見えざる欲望による誘導なのか、いずれにしても世界では死を賭した争いが各地で繰り広げられている。死に臨んでは、自らの現存在の神秘を云々するどころではなく、人間の死は虫けら同然にあっけないのである。それとも、死の近くにある彼らは、真の現存在を噛みしめる生き方に恵まれているとでも言うのだろうか。人間の意志によって決定された有限の生に、恵まれた生であるなどということなどあろうはずもない。(ハイデガーの現存在分析には、ナチスに加担せしめるような解釈も可能ではあるが、それは後期の思想に於いて修正されている)
 イスラエル・パレスチナの長きにわたる争いも然りである。イスラエルでは、軍事と経済と国民が一体になっていてその堅い共同体が彼我なく機能している。徹底的な反撃と報復が国是である。同胞が殺されたなら、徹底的に相手に報復する。テロがテロを呼ぶ中で、自らの国を守るために自爆テロと砲撃がエスカレートするばかりである。国民はそれに全く疑問を持たないどころかそれぞれの正当性の主張に対してすさまじい熱気である。
 こういった地域では、宗教対立が何年もの間続いている。そこへ西側諸国の利権や思惑が入り込んでことをより複雑化させてしまっているのである。しかし、科学進歩のベースにある「聖書」のもつ原理、つまり人間は神の下にあってそれぞれの信仰を守るためには他者を認めない、という歴史に裏打ちされた文化はなかなか東洋人には消化できないところである。神という絶対的存在によって人間が存在するあり方は、神の名の下に他者を抑圧してきたキリスト教的世界観である。
 西洋の思想は、周りの世界と自分とは違う、自分と世界とは独立して存在しているとして考えてきた。自分が世界を客体として、つまり主客の関係として、他者つまり自然や異教徒を排斥し征服し支配することが正統と考えられてきた。
 この点について、ハイデガーが世界内存在の現存在として従来の西洋哲学の構造の枠では考えなかったことは、敬虔なキリスト教徒の家に生まれたにしては特異なことである。
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メスキルヒの森 2

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写真 メスキルヒの中心部あたり 
 

 人間は日常において、さまざまな煩悩や苦しみの中にあります。思い通りにならない人生を生きています。不条理とは、思い通りにならないという「苦」であって、仏教でいうところの、生、老、病、死の四苦はもとより、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦など思い通りにならない苦です。
 そして、「死」は究極の不条理で、だからこそ生きる意味について考え込むのです。
 人は、様々な「苦」のなかにあって、「生きる意味」を求め、「生きる意味」を知りたがっています。人生は生きるに値するものなのか、自殺はなぜしてはいけないのか、いったい人生の目的とは何なのか。
 そして不条理は、目的が崩れ去り、自己の存在と存在者の間にあるギャップにハタと気がついたときに訪れるのです。こうして、不条理は人生に意義を見いだすことを問うてくるのです。
 
 マルティン・ハイデガーは、実存的存在を生きるために日常の背後に「死」ということを見つめました。ジャンポール・サルトルは、「人間は自由の罪」に処せられているといい、そしてアルベール・カミユは、「自殺」という死そのものによって人生の意味を考えました。
 いずれにしても、現存在としての人間とこの世界との関わり方について見つめ、存在の在り方について深く哲学したのでした。
 現存在については、東洋に於いて、なかでも弘法大師空海の思想もまた現存在の存在性と存在相を徹底的に考え実践する思想です。
 しかし、伝統的西洋哲学は形而上学的にも論理學的にも「存在」についての「思索」は深めたかもしれませんが、実践哲学としての方向性を示し得たとはいえません。
 そもそも人間存在の在り方については、「人間」そのものの存在だけを考えるのではなくて、一切の存在者の存在を抜きにしてはとうてい考えられないものなのです。この観点に於いて、おおざっぱには西洋的か東洋的かと区別せられるところです。西洋実存哲学が直面した不条理は、ヒューマニズムの不条理といえます。ヒューマニズムは、まさに西洋そのものです。
 一般的には、不条理とは、自己の欲望と現実とのギャップのことをいいます。
 例えば身近には、自己評価と他人の評価のギャップ、自分はもっと自由に生きたいと望んでいるのに現実は毎日飽きるばかりの仕事の繰り返し、なぜ自分は埋没していなくてはならないのか。これらのギャップも日常における「苦」でありましょう。
 アルベール・カミユは、『不条理な論証』 にて「起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れていく月火水木金土、・・・」と不条理の起源を指摘します。人はこういう日常にうんざりしていて同じような明日になるのを拒んでいるのに、しかしながら、人は明日になれば、翌明日こそと明日を願っているという不条理です。
  「およそ世にあるのは、肉の欲(libido sentiendi 感覚のリビドー)、目の欲(libido sciendi 知のリビド ー)、生の驕り(libido dominandi 支配のリビドー)である。これら三つの河が潤しているというより、燃え立っている地上とは、なんたる不幸であろう」(パスカル『パンセ』断章458)
 このように「欲」は忌避するものとして論じられてはいますが、西洋の哲学はその「欲」についてキリスト教的理解の範疇に終始してきました。そして、欲望と深い関係にある不条理は、不条理として不条理の域を超えるものには至らなかったのです。人間理性による世界認識の方法では、超越的視座に至らなかったと言うことです。
 理性による近代合理主義は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に象徴的ですが、世界を疑う自己の自信は、それこそが傲慢とさえ言える不条理の根源であるのです。
 西洋哲学は、この理性の是非との戦いの歴史であったともいえます。現代にあってようやく、その理性はアテにならない疑うべきものであるかもしれないと理解されていますが、それにもかかわらず現象はこの理性の方向性を変えられないでいます。いつまでも合理主義的不条理がつきまとっています。
 地球の温暖化が身近に議論されはじめてはいますが、今後温暖化を食い止めることができるのかははなはだ疑問であり、むしろ加速しているのではないかとさえ思えます。この不条理の根底は、明らかに近代合理主義の根っこにあるキリスト教精神が持つ自然観がまだまだ根強いからだと思われます。
 
 不条理は、人間の主観と客観の相違である限りにおいては解決できない問題です。我々自身が、自分の目を通して見ている世界と、他者から見た自分との相違は如何ようにもしがたいのです。
 よくよく考えてみれば、なにごとも自分中心に物事を見ている自分は、しかしながら他者からみれば取るに足らない存在です。大宇宙の永遠の相の中では芥子粒のような存在でしかなく、悠久の時間の流れの中ではほんの瞬きすらできない短い人生です。
 サルトル曰く、我々は「投げ出された存在」なのです。そういう人間が、日常に於いてそういった情況を忘れたかのように自分と他者を区別することに忙しく立ち回っているのです。「オレが、オレが、わたしは、わたしは」というつまらぬ自意識の過剰と不条理。
 それでもそこに、ハイデガーのいう本来的な自己があるとするならその本来性は隠蔽され続けているといえます。誰でも時として、それを明け広げてみたいと潜在意識が働きます。
 
 日常にあって、時として理性的人間の人生など無意味なのではないかと考えてしまう瞬間があります。「オレがオレが、わたしはわたしは」ということの虚しさ。自分の存在とはどういうことなのか。自他の不条理が霞んでしまう本来的な自己に気づく瞬間があります。実は誰でもわかっているのです。しかし、すぐ忘れて「オレがオレが、わたしはわたしは」となってしまいます。
 人間の「存在」について、「ある」とはどういうことなのかについて深く考えた人がハイデガーです。存在者とは何かと問うたときそもそも「ある」とはどういうことなのか、という存在論的分析はこれまで伝統的に西洋が考えてきた精神に大きな影響を与えました。神による存在の伝統から、人間自身の実存への思考です。
 近代合理主義社会にあっては主観と客観の区別が際だっています。そしてそれ故の複雑な不条理に人々は苦悩しています。そういう現象面においてどのように方便を使っていけばよいのか、人々の安心はどのようにしてえられるのでしょうか。
 主観と客観によるところではない、人間が本来持っているなにものかより湧き出るもの、つまり所与から超越したいという衝動に対して、仏教思想が持っている可能性とハイデガーの現存在の可能性は、それぞれに迎合できる部分を持っていそうに思えます。西洋で生まれたハイデガ−が東洋と言語ゲーム(ウイトゲンシュタイン)ができるのではないかと思えます。
 ハイデガー曰く、人間は現象社会の中で頽落している存在である。その不条理な日常現象世界から超越した本来の自己にたち出でよと。そういう可能態としての「生」への衝動というものを仏教はまたどう捉えているのか、興味深いところです。
 とくに昨今、仏教は葬式仏教と揶揄されますが、ハイデガーのいうところの「死」に対する深い自覚と決意についてはどのように考えてきたのでしょうか。
 「ある」とはどういうことなのか、もっとあるべき姿で生きようという決意と頽落した日常との落差、それに伴う不条理、その辺りのことを確認することは仏教界の目覚めに通じると思われます。
 端から西洋VS東洋という図式は意味のないことです。西洋と東洋の思索の接点を考えることは、今日の合理主義万能時代にあっては意義あることなのです。
 
 
 
 

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写真 メスキルヒの郊外を歩く


 僕たちは毎日、一応様々な目的を持って生きています。

 そうすることによって自分の存在を意味づけながら、その時々の結果に満足したり落胆

したりの繰り返しで生きているのが現実です。

 身近なものや出来事を気にかけ気を配って忙しく生きています。あれやこれやと自分の

ことや世の中のことに気遣いながら生きているのです。そういう毎日を過ごしています。

退屈なときもあります。どこかに不安を感じながらも、それでも日常生活はあたりまえに

流れています。しかし、しばしば、えも言われぬ不条理に突き当たり、戸惑い、そして不

安になります。
 
 つまり忙しい毎日が突然にして空虚なものなのではないかと思える瞬間が訪れる時があ

るのです。

 たとえば、死に瀕するような病気をしたとき、それなりに没頭して過ごしてきた毎日

について得体の知れない疑問に取り憑かれます。毎日の健康な日々を失ったとき、毎日の

目的と思っていたものが何だったのかと空虚になる瞬間です。社会的地位といわれるもの

やお金などに躍起となっていたことがすべて空しくなる時です。

目的と思っていたものの意味を失うときです。日常と思っていたものが、非日常になる瞬

間です。
 
 病気によって死と直面することによってこれまでに築き上げてきた自分の存在の意味に

ついて、毎日当たり前に何気なく過ごしてきたやり方に疑問が生ずるのです。

 死に瀕したとき、自分の存在とは何だったのか、虚空を見つめながら自分の存在の意味

が空しく思えるのです。そのとき、これまでの日常の生活が根底から揺らいで、自分がこ

うして存在しているとは何なのか、自分の存在がなくなってしまうとはどういうことなの

かという不安と空虚な中で誰もが自問自答するのです。

 先の戦争で、明日にも神風特攻隊として命を投げ打つという瞬間から図らずも生還した

人の覚悟を聞くにつけ、その後の人生観はそれまでの人生に対して何かしら超越したもの

が感じられるのをどう捉えればよいのだろうか。死に直面した人間の存在への意味はどの

ように変わったのだろうか。そこにはなにかがあるようです。
 
 いつの時代からか、人間は自分の存在とは何なのか、という不安を根底に持っていま

す。そして存在していることの意味とは何かと漠然とは気づいているようです。しかし忙

しい日常にあってはそれはほとんど顔を見せません。
 
 人間は、死は確実にやってくると知っているのだが、それでいて日常生活では死のこと

などすっかり忘れています。死はその顔を見せることなく、日常生活にあってはほとんど

無縁です。でもあらゆる現象は生きて、また死んでいるのです。
 

 何かの拍子に、親兄弟や親しい友人の死や痛ましい事故死の報道に接したとき

など、ふと自分の「存在」について思います。そして「死」が大きなエポックであること

に気づいて、はたと生きることの意味に躓くことがあるのです。しかしすぐに忘れます。
 
 これと似たことがあります。サラリーマンの定年退職です。学校を卒業していわゆる

社会人として朝から晩まで決まった時間を決まった規則の中で、会社の利潤のために働い

てきた。何十年も。その原動力は、肩書きでありそれに伴う経済的豊かさへの可能性で

す。これは立派な目標です。それはそれで健全なことであり、会社のルールを守った上で

自分を認めてもらうということは大きな生き甲斐です。

 でも、定年退職を機にしてそれらのものは全部意味をなさなくなります。それまでの肩

書きはなくなり、経済的保証も少なくなり、そしてなにより毎日の目標がなくなるので

す。一つの「死」なのです。当たり前のことですが、明日の定年を前にしても、明日の午

後、会社をあとにする瞬間まで理解のしにくいことなのです。わかっているのですがわか

らない。死は当たり前のことと、いつかはやってくるということとわかっていても、実は

よくわかっていないのとよく似ています。

 かように日常はその原因に関わらずいつかは断絶します。毎日何かが断絶しています。

死んでまた生きての繰り返しです。因果は思い通りにならないものなのです。そういう死

をどのように捉えればいいのでしょうか、人間が生きているとはどういうことなのでしょ

うか。

 楽しいときはそれほどでもないのですが、悲しい心の時には、より悲しく心に響いてき

ます。なぜ生きているんだろうか、と。

 メスキルヒのホーフガルテンの森の奥深く、ベンチに座りながらその悲しみと対面して

いたのです。

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