コペンのイングリッド

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

その日も、朝早くから宗教画を求めて歩き回ろうと意を決していました。

まずはギルランダイオ。

その前に、ホテルの近くのカフェーで目覚ましコーヒー。

しかし、イタリアには圧倒される。宗教画の氾濫です。この数日、頭の中が

宗教画で何が何だか分からない始末です。

それでも、とぼとぼ、うろうろ、フラフラと、薄暗い路地を通り抜け、

このあたりかなぁと探し歩いて、お目当てのものとご対面したときは

うれしい気持ちになります。
イメージ 1


この方角のはずだと見当をつけて路地に入り込みました。

すれ違う住人が、ジロリと見つめます。

チャオと声を掛けると、その目つきが突然柔らかくなり、チャオと返事が

帰ってくる。

サンタ・トリニタ教会は、すぐに見つかりました。
イメージ 2


フィレンツェのゴシック様式だということです。

入り口では、ショートパンツやノースリーブの入場をチェックする人が居て

そんな人は入場を断られていました。こういうチェックはどこにでもちょくち

ょくあります。厳格で毅然としています。

日本人の若い女性二人が断られていました。新宿や渋谷で見かけるあの格好

の女の子達です。

日本人がそのように断られているのを何度か見たことがあります。

日本人は何かを失っているような気がしています。

時と場所や慣習や礼儀、道徳。

その点、キリスト教的道徳や節操がある西洋人となにもない日本人ははっきり

と違います。

 ギルランダイオのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」「牧者礼拝」

は美しく輝いていました。

聖フランチェスコは大好きな聖人です。
さいわい列車はすぐにありました。

険しい表情のイングリッドにかける言葉がありませんでした。

旅先での思わぬ展開に僕は、なるようになるさと流れに身を任せました。

 人生は行きっぱなし。

 旅がおもしろいのは行きっ放しじゃなくてはならない。やがてもとの日常に

戻れるという安心感のある旅行は旅じゃない。そのように言うと、行きっ放し

の旅ができるなんて羨ましい。だれでもそうしたい、と言う声が聞こえそうだ

がそれがまたそんなもんじゃないのです。

 イングリッドがか細い声で、僕を見上げました。

「ごめんなさいね、きょうはヘルシングーアをたっぷり案内しようと思って

いたのに、できなくて。夜はわたしの家でシャンパンも用意していたのよ。本

当にごめんなさいね」

「何を言っているんだい。シャンパンはいつでも飲める。それより今はお父さ

んのことがいちばん大切なんだ。不思議な気がするよ、きみとこうして列車

の中で向かい合っていることが。旅は非日常だね。まさに」

「父はだめかもしれないわ。電話ではとても深刻な様子だった」

 そう言って彼女は涙を浮かべていました。ふたたび僕はかけるべき言葉を見

失いました。窓の外は来たときの景色の反復。でも、太陽が高く昇っていて、

その光は冷たくよそよそしく輝いていました。
イメージ 1
 
                (↑ヘルシングーアの裏通り)
 
 しばらく沈黙が続きました。彼女から何か言ってくれないとこの沈黙は

コペンハーゲンまで仕方がないかな、と覚悟を決めていました。

「人はいつかは死ぬのよね。父だって、わたしだって、テッセンだって。何の

ために生まれてきて、何のために生きて居るんだろう」

 イングリッドが窓の外の遠くを見つめて呟きました。

「誰だって人の生死に臨んだときには、そんな風に考えるものなんだよ。とく

に人の死を目の当たりにしたとき、、生きる意味について考えてしまうものな

んだよ。人生は旅さ。それは行きっ放しの旅なのだ。明日の予定がたってい

ない旅なんだ。

 だから過去には戻れない。旅行なら出発地が終着地であって、はじめから

行き着くところが分かっている。戻ることができるという安心がある。しかし

人生の終着地は出発地ではないんだ。だから人間はそういう不安に生きてい

て、その不安が誰かの死に出くわしたときに突然顔を出すんだよ。そのくせ普

段はそんな不安のことなどすっかり忘れているんだね。だから、あまり考えな

いで今はお父さんのことを祈るしかないんじゃないかな」

 車掌の検札が来ました。ヘルシングーアに向かっているときの同じ女性の車

掌さんでした。その車掌さんが満面の笑みで僕に話しかけました。でもデンマ

ーク語なのでわからなくて僕が何かを言おうとすると、イングリッドが英語で

すかさず通訳してくれました。

「もう帰るの?」だって。

「ああ、人魚姫を迎えに来ただけなんだ」

とイングリッドに通訳を頼みました。

 デンマーク語でなんと通訳してくれたのか分からないけれど、車掌さんの

表情からは僕のジョークが伝わったようには見えませんでした。デンマークの

英雄、アンデルセンでシャレたつもりだったのに。

「あなたの夢の話しだけれど、・・・」

彼女は気を紛らわそうとして話題を提供してくれました。

「ああ、言ってよ、何を言ってくれてもかまわないから」

「居場所のない不安感なの。生きている意味を見失ったとき、心が膨張して

許容量を超える。そして破裂しそうになって、また縮む。その繰り返しの中で

焦燥感がアクのように湧いて出て、そして訳の分からないパニックに陥る。

いろいろなケースがあると思うけれど、パニック症候群かもしれないわ。あな

たがそうだとは言わないけれど、その傾向にあることは確かだと思う」

「居場所がない・・・」
 
僕は、言われてみてまったく居場所がないことに気がついたのです。

 自分の得意分野の話しで少しは気が紛れたのか彼女は続けて言いました。

存在を求めて

ハイデガーやヤスパースなど、無神論であるかないかに関係なく、「存在」を

ある種の「神」のように超越的に捉えたようです。存在論はいずれにせよこう

いう帰結になりそうに思います。

しかしサルトルは、「存在」は「神」なんかじゃない、として冷たく放り投げ

ました。

ハイデガーとサルトルの狭間を行ったり来たりです。


「存在」を見た?

と聞かれて「見た」と言った瞬間、いかがわしい宗教と同じレベルになります

が、といってもう少し近づきたい、という気持ちもあって、こうなるとむしろ

すなおにお経を唱えたり聖書の言葉を復唱している人が羨ましいです。

 
ウィトゲンシュタイン曰く、
「神秘的なのは世界が如何にあるかではなく、世界が〈ある〉ということであ

る」(6.44)

 ウィトゲンシュタインとハイデガーは同じ年に生まれています。

ライプニッツ曰く
「なぜなにもないのではなく、何かが存在するのか」

そういうわけで、無神論である仏教、とりわけ密教を勉強したりもしました。

「ある」の神秘を忘れた現代人や畏れなくなった科学の世の中に再び「畏れ

る」ことの大切さを取り戻すべきだと思い至りました。

 キリスト教世界は、「神の存在」の証明の歴史です。

 仏教は神の存在を言いません。

 仏教的なものはついつい小乗的になりがちですし、「神の存在」を存在者と

してみる姿勢にも少し納得いき難しですし、しかしまさに「現存在が存在する

限りに於いて存在は〈ある〉」(SZ212)ようですし・・・・・。

信じると言うこと

 信仰しているものがある人は羨ましい

 「いかに生きるのか」「どのように生きたらいいのか」

とひとは悩み迷う動物でしょう。

「生きる」に対して、アレコレいくつもの方便が用意されていますが、

どれもイマイチ、うーん、と納得がいかない。

そんな時、「信じられるもの」「信じるよりどころ」のある人は

羨ましいと思います。

 「ある」、自分がいまここに「ある」ということさえ、その根拠について

書かれたものがあって、それをそうだと信じていきていければいいなと思いま

す。

 
 でも反面、信じる人たちは、心のどこかに「不安」を抱いて居るんじゃ

ないかと疑ってみたくなります。

 それは、自分の都合のいいように信じて居るんじゃないかという

不安です。他者の自由な意見に耳を貸すことなく、コーランや聖書の一節を呈

示することによって誤魔化して生きて居るんじゃないかという不安です。

 ライオンの衣を借りるなんとかのように、聖書の言葉を借りてまことしやか

に生きてしまって居るんじゃないかという不安です。困ったときの聖書頼みと

言うわけです。聖書の言葉とて、その読み手の都合次第によっていろいろで

す。キリスト教とて右から左まで、イスラム教とて原理主義まで、それぞれ本

当の神の言葉は利用されているかもしれません。教条は、解釈を産みます。

 解釈によって正しい生き方が生み出されるとすると、正しい生き方とは何な

のでしょうか。そういう後ろめたさにつきまとわれているんじゃないかと言う

わけです。

 
どうすればいいのでしょうか。

 「真理」や「正解」などほんとうはないのではないか。
 
 そういうことを追い求めるよりも、真理や正解が無いと言うことを、そうい

う無を認識するという「超越」的な境位を考えたらどうなのか、それは結構安

易ことではありませんが、一つの境位です。

 いずれにしても悩みは尽きません。

はじめに言葉があった

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。新約聖書 ヨハネによる福音書1章1節」

 言葉について、言葉と世界について、言葉とは何なのでしょうか。世界とは

何なのでしょうか。

 聖書は「初めに言葉があった」とします。

 そうであってもなかっても、言葉とは何なのでしょうか。
 
 一つ言えることは、アリストテレスの『オルガノン』は、キリスト教の40

0年も前に書かれています。

 
 ところで、思考とは、命題で表されます。ですから思考は、言語と重なりま

す。

 世界と言語がぴったりと重なり合うとすると、命題は、世界に命題と対応す

る出来事があるから真であったり、偽であったりすることになります。

 真であるとはそれが成立していると言うことで、偽とはそれが成立していな

い、つまり無意味であると言うことになります。

 そうすると、言語はわたしの思考ということであって、世界はわたしの頭

の中にある、ことになります。

 と、そのように考えた人が居ます。

 




 

 

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

過去の記事一覧

ZuiZan
ZuiZan
非公開 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事