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「人が死ぬにはいくつもの理由がある。でも、生きる理由はなかなか見あたら ないものなのね。死ぬ理由を探して生きているようなもの。人はみな、生き る理由についてはそれほど考えていないものなのよ」 イングリッドが何を見るともなく窓の外に目をやって小さな声でそう呟きま した。そして続けました。 「人は今を見つめないで夢ばかり見ている。今を見ないで将来はあり得ない。 人は、なぜか、すぐに今を捨ててしまう。人は今に不満だらけ。人は生きる意 味をあまり考えないで不満を考えることに忙しい。今を断ち切ったその瞬間に 未来は消え果てて途方に暮れる。永遠なものに憧れて何かを見失うのよ。あな たの見たその夢はそれ故の苦痛と叫びなのね。何があったかは知らないけれ ど、あなたの炎が再び勢いを取り戻すには今生きていることの瞬間を見つめる ことじゃないかしら」 その時、ジュディットが食事を運んできてくれました。ちょっと見た目は チキン。タンドリーチキンのように見えました。どうぞ召し上がれ、と言うジ ュディットはいかにも人柄の良さそうな笑顔に満ちあふれていました。 全体的に小柄でスリム、鼻筋はツンと通って尖っていて顔は小さい。背筋が すっとしていて動作が静か。肌の色が黒褐色でこんなに素敵な女性にはなかな か出会わないだろうなと思いました。 店にはヴェートーヴェンの「田園」の出だし、チェロとヴィオラのFの音の 始まりが懐かしく流れていました。さっきからはシューヴェルト「未完成」。 オーボエとクラリネットがユニゾンで始まったのが耳に残っています。そして 今は第二楽章のはじまり、チェロがオブリガートをつけているところです。 僕は、自分の見た別の夢の話をしようかと思って迷いました。でも、やめて おきました。似たような内容だからです。いずれにしても、僕は夢の底に あるものを僕自身はっきりと理解できています。 ことをわたしは行う。いまやそれは芽生えている)という言葉がイザヤ書にあ る。わたしはいつもこの言葉を思い出している。ひとは過去に捕らわれすぎて 今がどうなのかわからなくなるのよね」 イングリッドの言葉は静かに響いてきます。僕は素直な気持ちになろうと 思いつつ、でもなにも話せませんでした。でも、イングリットになら話せるか もしれない。 突然、ラ・カンパネラのメロディが流れました。イングリッドの携帯電話 だとすぐに分かりました。 彼女は、慌てて電話を取り出し、深刻そうな顔をしてなにやらボソボソと 応答しました。デンマーク語のようで僕には内容はよく聞き取れません。で も、表情と話し方からその電話の内容について思い当たりました。 「コペンハーゲンの病院からの電話。すぐにコペンハーゲンに行かなくちゃ、 ごめんなさいテッセン、・・・」 「お父さんの具合が悪いんだね。僕もコペンハーゲンのホテルに帰るよ。一緒 に行こう!」 彼女が立ち上がり、それを見てどうしたの?と、ジュディットが飛んできま した。僕はジュディットにお礼を言ってイングリッドの後に続きました。 駅へ向かう彼女の急ぎ足が、彼女の今の気持ちを表しているかのように 困惑のリズムを刻んでいました。 |
コペンのイングリッド
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イングリッドが人差し指を立てて改まったふうに間をおいて言いました。 「あなたは仏教徒?」 「いや、僕は仏教徒ではない。またキリスト教徒でもイスラム教徒でもユダヤ 教徒でもヒンドゥー教徒でもない」 と、おどけたように答えました。 「じゃあ、何なの?」 「なにもなし、何の宗教も持っていない」 彼女は両手を広げて大げさに信じられないとばかりに頷きました。そして続 けました。 「わたしの父はユダヤ人で、母はユダヤ人のハーフ。だから私はスリー・クウ ォーターよ。でもユダヤ教徒じゃないわ。父はプロテスタント、母はカトリッ ク。わたしはカトリックでしつけられた。ここのジュディットはフランス生ま れのユダヤ人よ。やっぱりカトリック」 僕にはなじみのない話しで日本じゃあこんな自己紹介の話題はないので どう答えていいのかわかりません。 「あなたの国じゃあ、みんなが仏教徒なんでしょう?なぜあなたは仏教徒じゃ ないの?お父さんも、お母さんもそうなの?」 「うーん、仏教徒が多いけれど、まあ葬式の時くらいかな、仏教のお世話に なるのはね」 僕は窓の外の青空の色が気になっていました。 それは終身刑の囚人が、刑務所の小さな窓から見える四角い空のように思え ました。 心の不安というようなものは、だいたいにおいて時間が解決してくれます。 人には、時間とともに何事も都合よく忘れることができるという特技があり ます。 時間の経過とともに新しい歴史が生まれて不安は消え去り安心が生ま れる。そしてまた不安に襲われ、また時間が経って忘れ去る。 だから時間は経過するが新しい歴史を生まない囚人には過去の反芻しかな い。忘れ去るることができない。苦痛。唯一四角い空の移り変わりだけが歴史 を生むのです。でも、よく考えてみればどちらだって同じかもしれない。 忘れきれない過去にいつまでも捕らわれていると言うことは、未来が閉ざさ れているということで、それは囚人と変わるところがないということです。僕 は窓の外に囚人の空を見ていました。 目の前のイングリッドの話しは心理学に移っています。 「へぇ、そうなんだ、それじゃあ学生じゃなくて研究者なんだ。じゃあ心理学 博士をめざしているってわけだね?」 僕は気を取り直して彼女に向き直りました。 「まあ一応ってとこね」 「じゃ、恥ずかしいけれど最近見た僕の夢について分析してくれる?」 「ははは、心理学っていうとすぐ夢につながるのよね。まあいいわ、言ってみ て」 「とってもわかりやすい夢で、僕にもこの夢がどんな意味なのかが分かってい るんだけどね」 「いいから、早く言ってみて」 彼女は専門分野の人間らしく身を乗り出したその自信がすてきに見えまし た。その鳶色の瞳に僕が映っていました。 「子供の頃、水を張った洗面器に顔を浸けて、いつまで息が続くか、なんてこ とをやったことがあるだろう?その夢なんだ。ただ、息が苦しくなって顔をあ げようとしたら、誰かが冗談で頭を後ろから押しつけた。冗談だろうと頭を上 げようとするとそれ以上の力が加わる。もう一度頭を上げようとしたが本気の 力が加わる。洗面器の底に鼻が押しつけられてつぶれそう。凄い力だ。まさ か、ウソだろう!?と言うまもなく苦しさ余ってゴボゴボと息を吐き出したら 口から鼻からどっと水が入り込んでくる。く、くるしい!もがけどもどうにも ならない。顔中が鬱血していくのが分かる。グググ、助けてくれぇーっ!死 ぬ!一気にパニックに襲われる。と、そのとき目が覚めた。ベッドの上で荒い 息をしている自分がいた。夢の中で溺れて窒息死するところだった」 そんな話を聞いて彼女の目が曇りました。そして彼女は、思わず両手で僕の 右手を握りしめました。僕はなぜそんな夢の話しをし出したのか、彼女が心理 学の研究者と聞いたかからなのか、それに救いをかこつけて甘える僕の気持ち は否定できません。
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海岸縁を、来た道をまた引き返すように彼女の後をついて行きました。 相変わらず海は青く空も青く、風は澄んでいます。思いもかけない成り行き にいろんな想像を巡らそうとしました。 でも僕は、今ある情況とは全く結びつかない感慨に耽ってしまいました。 彼女への関心より、僕のことについてです。僕は、今までなにをしてきたん だろうか?僕はこれからなにをするんだろうか?どこへいこうとしているのだ ろうか。いま、なぜここに僕が居るんだろう?そんな変なことについてです。 これまでからその種の不安な衝動に襲われるのには慣れていても、いざその不 安が襲ってくると呼吸が早くなってしまいます。 頭を振って、深呼吸をしてそして彼女の目を見つめました。そんなふうに正 面から彼女を見つめるなんて、なにか僕の意思表示のようにとられそうだと思 いましたが、今は格好をつけている場合ではないのです。僕の狂いそうな頭を 正常に戻さなければなりません。このまま放っておくと、きっと大声を出して 頭の中の「衝動」を追い払わないといけなくなるのがわかっているのです。実 際、わぁぁっと、叫び狂って部屋の中を野獣のように回り続けたことが何度か あるのです。 彼女は、助けを求めるような僕の目を見て少し頬が染まりました。 「ああ、そこを右に折れて町の中に入ると少しは賑やかになるわ。この町の メインストリート、セント・アン通りよ。そこにジュディットの店があるの」 彼女は、そう説明して続けました。 「時間はあるの?」 「えっ?」 「デンマークでの時間のことよ」 「・・・、ああ、・・・、あるよ。いくらでも」 「じゃあ、しばらくここに居る?」 「・・・、うん」 ほどなくお目当てのレストランに着きました。 ジュディットの好奇心の目で迎えられました。 「きのう知り合った日本人よ。名前は、・・・、えっと、聞いていなかったわ よね」 と言って彼女はとまどいながら笑いました。 「言っていなかったかな?ふーん、僕の名前は、テッセン。唐木鉄煽といいま す。よろしく」 「テッセン?いい名前ね」 彼女はビールでいいか、と聞いて僕が頷きました。テーブルについてふたり が向かい合わせになったとき、僕はなんとなく恥ずかしい気持ちで動揺する のがわかりました。きのうはただのパッセンジャーだったのに、きょうはまる でデンマーク人みたい。 ーー われわれはつねに永遠というものを、理解できない観念、何か途方もなく大きなもの、として考えています。それならなぜ大きなものでならないのか?そこでいきなり、そうしたものの代わりに、ちっぽけな一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいなすすだらけの部屋で、どこを見ても蜘蛛ばかり、これが永遠だとしたら。わたしはね、ときどきそんなようなものがちらつくんです ーー 彼女がまたドストエフスキーを語って言いました。 「ヘルシングーアは田舎の風呂場なのよ」 それを聞いて僕はなにか閃きました。田舎の風呂場、そうなんだ。僕は所詮 理解できない大きなものに、身の程知らずの挑戦をしていたのかもしれない。 僕は気持ちが大らかに、安心な日溜まりを見つけた気がしました。少し元気が 出ました。 「僕も田舎の風呂場で暮らせたらいいなあ」 「暮らせばいいじゃない。簡単よ」 という彼女の冗談とともにグラスをカチッとあてました。僕はヘルシングーア での生活を空想しました。 「テッセン!食べ物はなんでもいい?」 「ああ、なんでもいいよ。ところで、なんでヘルシングーアが田舎の風呂場な んだい?」 僕は、念のため確認しました。 「人はだれでもヘルシングーアに生きて行けばいいのよ。もちろん地図上のヘ ルシングーアじゃなくてよ。わたしはここがとっても気に入っている。それ以 上大きなものはなにもいらないわ」 僕はいい人に出会った、そう思いました。
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イングリッドに促されてお城の中へ向かいました。いくつかの部屋を通り抜
け、お城の中にある古いチャペルに行き着きました。床の模様がフェルメールの絵を連想させ、ここは16世紀のものなのかもしれないと見渡しました。 彼女ははじめからこの場所へ案内しようと思っていたようです。 彼女は祭壇の前で手を合わせ少し膝を曲げました。こんにちは、と挨拶をし ているように見えました。 「ここへはよく来るのかい?」 「ええ、毎週来るわ。静かなところよ」 「何のお祈りをするの?」 と僕は言って、実にバカな問いをしたものだとすぐに話題を変えようとしまし た。 「カトリック?」と僕は聞き直しました。 「父親はカトリック、母親はプロテスタント」 「それで?」 「わたしはイエス様」 「??」
この地で日本人にとって、キリスト教ほど分かりにくいものはない。それ
は、西洋の人たちが仏教が分からないのと同じことです。だから、彼女にそれ以上の質問はしないことにしました。彼女たちにとっては、なにせ生まれたと きからの日常がキリスト教なのですから。いくら聞いても、みそ汁の味を言葉 で彼女に理解させるようなものです。そもそも日本人の大多数は「信じる」と いう信仰心についてすら理解できないことなのです。 でも、僕は「信じる」ということに前々からとても興味を持っています。 ヘルシングーアに着いてからはじめて会話らしい会話をしました。 「お父さんの具合はどうなの?」 「ええ、あまりよくないわ。でも、わたしにはどうすることもできないわ」 「かなりよくない?」 「ええ、とても」 これもそれ以上聞く気になりませんでした。というより、申し訳ないけれど あまり親身な気持ちが湧きませんでした。薄情かもしれませんが、だれでもそ うなのだろうと思っています。彼女だって、ふと愛する人が居なくなることを 想像することがあるに違いありません。だからましてや僕にそれ以上のものが ありうるはずがないのです。人がいつかは死ぬ以上、いつ、どのようにして死 ぬかと云うことはあまりたいした問題ではありません。 祭壇の背後の窓から逆行で彼女の表情はよく見えないが、その髪の毛はキラ キラと太陽光線に輝いています。僕は太陽と髪の毛の美しさに憧れました。 僕にとってははこの情景は非日常的なもので、彼女にとっては普段のことで す。この場で違うものがあるとすれば僕が東洋人であると言うことくらいで す。 「まだ着いたばかりだけれどヘルシングーアはいいところみたいだね」 「ええ、・・・父が四年前にこの地へやって来たの。それで私も父と一緒に来 たけれど、はじめは寂しい町で暗く感じたわ。でも、いまはとても気に入って いる。父は、建築家。て云えばかっこいいけれど、まあ大工ってところ。母は 声楽家、これも簡単に言えば歌手ってところ。オペラ歌手」 僕は、父と来た、というところに引っかかって、母親のことを聞こうとしま したが、やめておきました。あえて聞く理由もないかなと思いました。 チャペルを出て、光と闇が交差する長い廊下をゆっくり歩きながら話しまし た。 「おなかがすいたわ!」 出し抜けに彼女が叫びました。 「お昼を食べに行きましょう。駅の近くにちょっといいレストランがあるの よ」 という彼女に僕は頷きました。 ということは、彼女の家から遠ざかることだなと頭をかすめました。 「今度は、あなたのことやあなたの国のことを聞かせてくださる?」 海からの風は冷たく、10月だというのに波間の蔭はすっかり冬の様相をして います。僕たちは、再びレストランに向かって歩き出しました。
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クロンボー城 僕はイングリッドと並んで歩きながら、これからどうなるのかなとは思いつ つも、それはたいした問題ではありませんでした。だから、そんなにときめく 足取りにはならない自分を自覚していました。 どうせ、このような出会いは今までの出会いとそんなに変わることがなく、 そしていつかはこれまでと同じように出会いの感動が薄れていくんだろうな、 という予感がそうさせていました。 人たちが、そんな出会いの一つでもって、結婚というイベントを期すること がばかばかしいことだと思っています。といって、それは至極もっともなこと なんだとも理解もしています。 人はどんなに酸素が薄くても高い山に挑戦します。なんでそんな思いで挑戦 するんだと言うことを考えれば、それはきっと自分の主張によって自分の 「存在」を確かめたいからなんだと思います。限界への挑戦になにか真理とい うようなものがあるようです。限界は、死と生の持続への挑戦です。 とうことは、人にとって大事なことは「今」であって「今」が自分に想起さ せる具体性だけです。主張です。人は、「今」の欲望という具体的な獲物が有 りながら、それを後ろへ押しやらなければならないというその時代の習慣によ る「倫理観」が人を複雑にします。常識的であろうとか、賢く思われようとか ということによる人間社会でのステイタスの問題です。そうあろうとして人は 嘘をつきます。この人間社会の誤った「倫理観」、つまらぬステイタスに対す る忍耐が極限に達したときに「絶望」が牙をむきます。 だから僕はイングリッドには自然であろうとしています。「今」の自分に忠 実でいいじゃないかと思っています。 「今」に正直であろうとすればするほど人は悲劇に陥ります。不条理な結末 に陥ります。それは本来、死を賭してもいいというような問題だと思っていま す。 そうでない人たちは、いつでも周りを見渡して、より多くの人に受けいれら れるように常識的で居なければなりません。それは僕にとっての一番の苦痛で す。それも少し賢い水準を保とうとしながら(ほんとうは賢くもなんにもない のに)当たり障りのないことで人気取りに躍起になります。この場合いつか必 ずメッキが剥がれると思います。 僕は、そんなことはどうしてもつまらないこととして、「今」にこだわる生 き方をしたいという衝動を持ち続けています。「今」は死んでいて、また生き ているからです。 だからイングリッドに媚を売るような振る舞いはできません。 今を生きるとは、自分の存在に忠実に生きると云うことです。 生活のため、自己顕示欲のため、人々は嘘をつきます。自分の分からない言 葉で語ることほどの嘘はありません。誰かの語ったそれらしい言葉を借りて きてもそこに自分の言葉はありません。意味がありません。 自分が考えたあげく自分の言葉で語ることの意味は、自分の存在の確認作業 です。自分の理解できていない言葉の引用で人に賢く見せようとするのは、本 当の自分の存在に目をつぶってしまうことです。それは生きているとはいえま せん。 自分の「今」に嘘をついている日常が当たり前になっていますが、それでは 世界や自分を超えることはできません。 でもキリストならそれでもそんな僕に手をさしのべようとするんだろうと思 います。僕にはそれがとても煩わしいのです。 僕は、イングリッドが何を考えているのかに興味はありましたが、それはそ れでそれほどこだわる気はありません。お互いに「今」について向き合 うことなら大歓迎ですが、これはとても難しいことで、実は不可能なことで す。 僕はそんなことを考えながら、イングリッドに導かれてクロンボー城の門を くぐりました。 北の太陽は僕の知っている太陽とは違って光の力がストレートすぎます。 遮る汚れがないのか、それとも海の風がそうさせるのか、太陽は僕に直接語っ てきます。僕の情を揺さぶります。いやでも太陽の存在ほど大切なものは無い ことに気がつかされるのです。 お城についてのイングリッドの説明はどうでもよくて、僕はひとり城壁にへ ばりついて太陽の熱を受け止めていました。 イングリッドは笑いながら、ひらひらと風に舞っていました。 クロンボー城の窓から対岸スゥエーデン |



