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ヘルシングーアの対岸の町ヘルシンボリ
ヘルシングーアの駅前広場は港に直結しています。そして、海峡を挟んです
ぐそこにスゥエーデンの町が見えます。驚くほどの近さです。何という名前の
町なんだろうか?僕はイングリッドが来たらその町の名前を聞こうと思いまし
た。イングリッドの姿はまだ見えなくて、僕は駅のカフェーに戻りました。
暖かいコーヒーをカウンターで受け取って席に着きました。身振り手振りで
言い争っているように話し合っている三人の老人と新聞を広げている中年の男
が一人、そして僕を加えて五人です。先ほどはもう少し人がいたように思った
のですが錯覚だったのでしょうか。
窓ガラス越しに外の風景を見ながら、イングリッドが来るのを見張っていま
した。新聞を読んでいた中年の男が、新聞をずらして僕のほうを上目遣いに見
やりました。僕と目が合うとすぐにまた新聞に目をやりました。よくあること
です。
ぼんやり外の風景を見るともなく見ていました。
そうしていると突然僕は、この静かなカフェの中で次第に醒めていく気分に
襲われました。なんとはなしに不安な気分、それは僕の奥底から湧いてくるよ
うな不安です。
醒めていく?不安?何に対して?
僕はこの不思議な気分に自問自答しました。
偶然の成り行きでこの北の果てまでやってきたわけだが、それがどう
したんだ。このことにどんな意味があるんだ。と、そんな自分がいました。
これはときどき起こる気分です。いつものことと言えばいつものことです。
人は皆、どんなに楽しく騒いでいるときでも、何かに没頭できているときで
も、ふと得体の知れない不安に襲われるものです。これでいいんだろうか、こ
んなはずではないんじゃないか、もっとどこかに自分の本来があるんじゃない
か。
こんなときはいつでも、誰にだってある気分じゃないのかと思うことによっ
て気を休めようとします。
僕はその嫌な気分を振り払おうとしました。これからイングリッドに会っ
て、またどんな偶然が待っているかもしれないのだ、と思うようにしました。
この気分の遠因はうすうす分かってはいます。こんなことで僕がしでかした
情けない過去をごまかすことができるはずがないという嫌な気分を打ち消そう
と窓の外に目をやったとき、遠くにイングリッドを見ました。亜麻色の髪をな
びかせながら、小走りにこの駅舎に向かっています。
僕は慌てて席を立って駅前広場へ飛び出しました。北欧の冷たく澄んだ大気
と太陽の純粋な光のなかで輝く彼女の笑顔がはっきり見えました。なんと可愛
いのだろうと思いました。
彼女がどんどん近づいてきて、僕がヤアーっと右手を挙げた瞬間彼女が
飛び込んできました。魔法のような香りがしました。少し長めのハグのあと彼
女は僕の腕を引きました。
「お城へ行かない?」
「お城?」
「そう、お城。クロンボー城よ。あれよ」
と言って港の向こうを指さしました。
確かに、海岸の向こうにそのお城は見えました。
そのとき駅前にあるフェリーターミナルに着いた船から大勢の人が下りてき
ました。
「スゥエーデンからの船よ」
彼女が言いました。
「そうそう、聞こうと思っていたんだ。あの、向こう岸に見えるのがスゥエー
デンだよね。見えている町は何という名前の町なの?」
「ヘルシンボリ。デンマークのほうがお酒が安いから、ヘルシンボリの人たち
がお酒を買いに来るの」
「ヘルシンボリ、かぁ」
僕はその名前の町を呟きました。そして手をかざしてその町へ目を凝らしま
した。工場のような建物や煙突、色とりどりの屋根や小高い丘など箱庭のよう
です。ヘルシンボリは海峡の向こうに蜃気楼みたいに平べったく張り付いてい
ました。
僕たちは、海岸沿いをそのお城へ向かいました。
「私の家もお城の近くなの」
そう言って彼女がお城までは二十分くらいだとつけくわえました。
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