|
10月くらいにJR東海道線の車内広告で知っていたのですが、どうも腰が重たくて日延べに日延べを繰り返し、 ようやく今日初めて行ってきた、横浜都市発展記念館。 企画展示 『横浜ステーション物語』 の最終日でございます。 この企画展示は、鉄道創業時から現在に至るまで、横浜の都市形成の歩みとその鉄道との関わりを、 『駅』 という場所を舞台に紹介する、というもの。 自分の生まれる前のことはもちろん生で見たことがありませんが、横浜市電5系統に乗って幼稚園に通い、 JR根岸線が磯子まで延伸して日が浅かった頃利用した私としては、見逃せない(と思われる)展示です。 横浜でみなとみらい線に乗り換え、日本大通り駅下車、通算でも4回目くらいの乗車です。 東急9000系電車の車端部ボックスシートは、今も昔も私には不思議な存在(通勤電車なのに・・・)。 初めて降りた日本大通り駅には "横濱" を演出するレンガ壁とレリーフがありました。 『横浜ステーション物語』 の関連事業でみなとみらい線各駅の今昔を紹介する写真展もやっていました。 横浜都市発展記念館は3番出口直結、旧横浜市外電話局の建物なんだそうです。 入口自動ドアはなぜか湘南電車(笑)。 意味がよく分からないのですが、ここの前で記念写真を撮れ、ということらしいです(笑)。 1階受付前の自動販売機で一般@500小学生@250の入館券を買い、いよいよ3階の企画展示室へ。 展示資料は撮影不可なので、ここから先は画像ナシです。 初代横浜駅(現桜木町駅)が東海道線ルートから外れ、短絡線上に平沼駅が設置されたものの大変不便で、 現高島町交差点付近に2代目横浜駅が新設されたこと。 さらに関東大震災後現在地に3代目横浜駅が移転し、当初は周りに工場や倉庫が立ち並ぶ駅前だったが、 戦後相鉄の商業地開発から始まり、今や名実ともに横浜の中心としてにぎわいを見せている・・・。 といったところまでは小学校の社会の時間に習いましたし、現実幼稚園児の頃は日用品以外の買い物とか デパートに連れてってもらうのは横浜駅界隈ではなく、伊勢佐木町でした。 今回展示を見ての新たな発見は、 丸子多摩川駅〜神奈川駅間を1926年に開通させ、引き続き2代目横浜駅までの路線延伸工事を進めていた 東京横浜電鉄(現東急)が、3代目横浜駅移転のため東海道線を高架で渡るよう事前交渉なく通告され、 泣く泣く高架線への設計変更と急遽の現横浜駅開設を行ったこと。 1933年に神中鉄道線(現相鉄)が横浜駅まで開通した際の写真に写っていた1両単行のガソリンカーが、 現在のワム80000(JRの2軸貨車)より小さそうで、詰め込んでも30人くらいしか乗れそうにないこと(笑)。 戦後間もなくまで本牧あたりは風光明媚な海水浴場だったので、 横浜市電を運営する横浜市交通局が観光誘客の広告を出したり海水浴割引乗車券の発売を行っていたこと。 といったところでしょうか。 参考までに、横浜都市発展記念館や日本大通り駅に置いてあった企画展示のチラシを掲載しておきます。 (同じものが横浜都市発展記念館のHPにあります) 横浜都市発展記念館は "都市横浜の発展の歩みを紹介する展示施設" ですから、
発展には当然鉄道も関わっているわけで、過去にも鉄道関連の企画展示があったようです。 今後の企画展示にも期待しましょう!ちなみに次回は 『横浜の建築』 だそうです。 |
鉄道思い出話
[ リスト | 詳細 ]
|
シンデレラ・エクスプレスとは、 東海旅客鉄道(JR東海)が1987年と1992年に展開していた東海道新幹線のCMである。 国鉄分割民営化により誕生したJR東海発足の年である1987年の夏に開始された。 松任谷由実のアルバム『DA・DI・DA』(1985年リリース)の収録曲の一つである 「シンデレラ・エクスプレス」をモチーフとし、 東京発新大阪行き最終列車「ひかり289号」(当時)の出発時刻である21時ちょうどを、 童話のシンデレラで主人公が舞踏会に行くための魔法の解ける午前0時に見立て、 離れ離れに暮らす恋人たちが週末に出会い、 再び別れていく日曜日の夜の新幹線ホームで繰り広げる恋のドラマを描いたものであった。 (以上、Wikipediaより引用) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 先日実家の引き出しを漁っていて発見した、何とも懐かしいパンフレット。 奥付には1987年秋と記されています。 携帯電話も電子メールもない時代、日曜の夜は今生の別れのように感じられたのでしょうね。 この頃は、JR東海ってすっかり国鉄のイメージから脱却した、なんてステキな会社なんだろう!
と感心していたのですが…(苦笑)。 |
|
JR東日本にはE231系800番台という電車がありその任に当たっているわけですが、 一昔前までは301系(国鉄初のアルミ合金製車)に103系1200番台が活躍していました。 地下鉄東西線には今も昔もあまり縁のない私ですが、たまに乗るのに国鉄車がやって来ると、 そのボロさにがっかりした記憶があります(笑)。 営団5000系のほうが "これぞ地下鉄" という感じで、造りもしっかりしていた気がしますし。 画像は2003年8月3日に301系さよなら運転が行われた後の、高尾駅での展示撮影会の様子です。 なぜにわざわざ高尾まで?と今でも我ながら不思議に思っているのですが(笑)、 中央競馬の馬券を買いに府中の東京競馬場に行ったついでに、少し足を伸ばせば行くことができたのと、 競馬を見てるより普段縁のない地域の電車を見せれば小僧が喜ぶだろうと、考えたのでしょう。 また一緒に展示された165系電車は中央線ゆかりの三鷹所属車ではなく、上沼垂(新潟県)所属車でした。 当時は全く気にしなかったのですが、この時期は165系がJR線から全て姿を消す直前だったのです。 デジタル画像に記録した最初で最後の301系と165系、 たかが5年前のことなのに、もう思い出話のカテゴリに入ってしまうのですねえ。 辛い(?)三鷹出張の際にE231系800番台電車をよく見かけたので思い出し、画像を発掘しました。
|
|
前の記事で "『流電』 ことクモハ52形電車" という言葉を使いましたが、 その筋に詳しい方や当時を知る方でなければ、「どんな電車なの?」 とか 「その電車何か珍しいの?」と 思われたのではないでしょうか(前記事の写真は電車が小さくて何だかわからないし、笑)。 寝ようと思って歯みがきしていたらフッとそれが気になって、勢いで写真アルバムをひっくり返し、 お世辞にも上手とは言えないけれど説明には使えそうなのを、引っ張り出してみました。 1枚目は飯田線の旧型国電が好きだった方にはおなじみの、飯田線起点の豊橋駅でのものです。 車両正面に "中部天竜、17時15分" という表示板がついていますが、これは豊橋駅独特の誤乗防止対策で 乗客がやって来る改札側の車両のみについており、発車直前になると取り外されていました。 (発車案内等が充実した今はついていません) 2枚目は小坂井だったか牛久保だったか・・・とにかく飯田線の複線区間内です。 私が撮影した中で唯一、確実にクモハ52形と分かる走行写真でもあります。 どうでもいいんですが右端の "よくみてわたろう右左" の看板がとってもプリティ(笑)。 3枚目は飯田線終点の辰野駅(長野県)でのものです。 この電車(おそらくクモハ52004)に乗って到着した後に撮影したと、記憶しています。 さすが辰野駅と言うべきか・・・ホームの照明だけではとても撮影できない暗さです。 4枚目は三河東郷駅で単線行き違いの相手列車を撮影したものです。 駅名標がなければまだ見られる写真なのでしょうが、こちら側の乗車列車はすぐ発車だったし・・・ こんな写真でもあるだけマシなのかもしれません。 52系電車は1936年から1937年にかけて3編成12両が製造され、 車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れ(1次車は側窓狭幅、2次車は広幅)、 茶色の車体に窓周りとドア、床下覆い(スカート)がベージュという、今見ても斬新なデザインの車両でした。 (探せばネット上に登場時の写真があるかもしれません、興味のある方はどうぞ) 戦災によりモハ52006(旧形式称号)を失い、残った車両は床下覆い撤去や塗色変更など様々な改造を受け、 先頭車中間車バラバラに各地へ転用されましたが流線形先頭車クモハ52形は5両全てが飯田線に集結し、 20年ほど中部の山あいを走ったのち、1978年10月に廃車となりました。 その形状から実用としては扱いづらかったらしいですが、原形を留めぬほどの改造は受けずに 戦中戦後の混乱期をくぐりぬけ、その設備に見合った飯田線で最期を迎えたというのは、 国鉄本体や現場から "気にかけられていた" 存在だったからではないでしょうか。 私のスキャナはフイルムスキャンができないので、紙焼写真を画像にし変色退色を精一杯補正しております。
よってお見苦しいのは何卒ご勘弁を。 |
|
1976年の夏休み、国鉄飯田線鳥居〜長篠城間(有名撮影地らしい)で撮影した、 『流電』 ことクモハ52形電車(おそらくクモハ52002)の写真です。 このころ使っていたカメラは、そのつど親から借りる "ハーフサイズカメラ"。 どんなものかと申しますと、1枚撮影ごと使用するフィルム面積が通常の半分で、 36枚撮りフィルムを装填すれば72枚撮影できるというスグレモノ(?)でございまして・・・ しかもオート機能が全くなく露出計も付いていないので、 『まあまあの晴天だからASA100なら1/250秒F8』 と自分で判断して撮影しなくてはならないシロモノでした(注:当時ISOという用語はありません)。 そんな機材の割には、夏の朝のすがすがしいような、これからジリジリ暑くなりそうな、 微妙な雰囲気が何となく感じられますでしょ? 中学に入学し "迷うことなく" 鉄道研究部に入って最初の夏休み、 先輩諸氏が合宿に行くのに訳も分からず同行し初めて訪れた未知の世界、国鉄飯田線。 古い電車といえば横浜線南武線の茶色い73形と京急400形、 プラス愛知の父の実家近くの名鉄くらいしか知らない私にとって、 スカ色塗装に窓だらけの外観に、ずらりと並ぶボックスシートを持つ電車は、大変衝撃的で新鮮でした。 そして更に衝撃的だったのは、戦前の国有鉄道を代表する電車であるという 『流電』 52系電車が、 こんなローカル線で(失礼)余生を送っていたこと。 編成番号31番〜34番が52系電車でしたが、4両編成の両端にクモハ52が計8両必要なところ5両しかなく、 しかも日によって組成を変えることもあったため、 万全の態勢でカメラを構えているとクモハ42が先頭だったりして(それはそれで良かったのですが)、 がっかりしたものです。 戦前製の工芸品のような長距離用電車に乗って、(特に中部天竜〜天竜峡間の)絶景車窓を愛でながら
静岡・愛知・長野の県境(秘境)地帯を越えていくというのは、飯田線ならではのぜいたくな旅でありました。 電車が新しくなった以外は、今でもあまり変わっていないようですが。 |



