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鶴見線と73形電車にまつわる写真を、おまけで掲載します。 1枚目は鶴見線さよなら73形電車です。 鶴見線だからツルのヘッドマーク、確か『鶴見線フリー乗車券』にも同じ図柄が印刷されていました。 工員輸送専用線なのに、お別れ運転して弁天橋電車区を一般開放までするとは・・・ いま考えると、大したもんだ(笑)。 2枚目は73形電車にちなみ、横浜線73形電車お別れ運転です。 先頭車のおバカな集団を見て、がっかりしたのを覚えています(雨降っているのに・・・)。 よおく見ると最後尾にクモニ13が付いています、最後までお役目を果たしていたのですね。 3〜4枚目は今度は鶴見線にちなみ、浜川崎のED16型電気機関車です。 (奥多摩〜浜川崎の石灰石輸送貨物に使われていましたから、"南武線にちなみ"が正確なのでしょうが) 古典機械細工のような機関車が、すぐそこにゴロンと転がって(?)いたわけですし、 東京貨物ターミナルに出入りする貨物列車も頻繁に通っていましたから、 気軽に各種貨物列車を楽しめる、よい駅でした。 |
鉄道思い出話
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前記事に引き続き、今回は国道駅東側の、鶴見川に架かるコンクリート橋を巡る写真です。 まずは南西(生麦五丁目)側からの写真です。 国道駅界隈が庶民的雰囲気なのと同様、 鶴見川河口に近いこのあたりも小さな漁船や釣り船が舫っていて、いい雰囲気でした。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 続いて全く対称方向の北東(下野谷町一丁目)側からの写真です。 前写真の電車の向こうに見えている、マンションの前あたりからになります。 このあたりは鶴見線沿線では珍しい住宅地で、鶴見〜鶴見小野間は住民の乗車がありました。 写真手前に写りこんでいるバラ線を、どうにも避けられなかったのが残念。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 最後に北(鶴見中央五丁目)側からの写真です。 肌寒い晩秋の、そろそろ露出が厳しくなってくる夕方の頃合いで、 73形より新しく明るい色の101系電車なのに、 それがかえって寂しげな雰囲気を醸し出している不思議な写真だと、 勝手に思っております(笑)。 |
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しつこく『鉄道思い出話』が続きます(笑)。 1979年11月か12月頃に撮影した、国鉄鶴見線の73形電車です。 73形の引退が3月だったはずだから、そろそろ取り上げてもいいかなと正確な年月を確認したら、 何のことはない私の勝手な思い込みで、1980年1月でした(汗)。 ここは通っていた高校から近かったので、土曜日や何かの都合で午前中で授業が終わる日は、 他の級友たちが横浜のイケナイ店(?)に行くところを、ナゼか鶴見の工業地帯に通っていたのでした。 変わってると思われたろうけど、ゲーセンでン千円擦ってしまうならここに@500くらい投資したほうが、 (私には)よっぽど楽しかったけど・・・ その割には、ろくな写真が残っていないのはご勘弁をm(_ _)m。 まずは浅野駅構内で撮影した、海芝浦発鶴見行きの電車です。 一昔前だからか引退までまだ間があったからか、近年のように鉄道ファンを見かけることはほとんどなく (まあ高校が休みの日にはわざわざ行かなかったですから、日祝には居たのかもしれませんが)、 また現在と違って電車の本数が多かったので、行き当たりばったりの撮影を楽しむことができました。 続いて鶴見線の定番写真、海芝浦駅に進入(発車?)する電車と京浜運河の取り合わせ。 73形に方向幕があっても全く使っていなかった(壊れていた)のは、 鶴見〜扇町間および鶴見〜海芝浦間の運用がほぼ終日固定されていて、 終端駅でいちいち方向幕を回すより方向板を入れっぱなしにしておいたほうが、 面倒がなかったのでしょうね。 利用者も沿線工場で働く方々ばかりで、行先に戸惑う人はまずいませんでしたから。 朝夕に浜川崎行や武蔵白石行、新芝浦行や弁天橋行に変わる際は、 鶴見で方向板を入れ変えていたのを覚えています。 最後も海芝浦駅構内の写真です。 この頃でもなかなか貴重だった、旧モハ63形の面影をふんだんに留める初期型3段側窓電車です。 この撮影位置より駅舎側に踏み出してしまうと、 東芝(工場)の守衛さんがうさん臭そうにこちらを眺める視線を、肌で感じることができました(笑)。 ここは行き止まりの終端無人駅でしたから、当然帰りの乗車券を買わなくてはならないのですが、 東芝の工場で働く方以外は本来乗るはずがない路線なので、車掌に購入を申し出ても、 「面倒くさいからそのまま乗ってっていいよ」といなされたことが多かったです。 こんなこと本当は書いてはいけないのですけど、国鉄時代は大らかだった、と言うべきでしょうか・・・? 73形の引退が近づくと、鶴見線全線と南武支線一日乗り放題の『鶴見線フリー乗車券』@200が発売され、
(どこかにまだあるはずなので、見つけたら掲載します) 先ほどのような肩身の狭い思いをせず、思う存分(?)鶴見線内を巡ることができました・・・ が、やはり発売された頃から沿線あちこちで鉄道ファンを見かけるようになり、 2・3回利用しただけで何となく足が遠のいてしまいました。 あのキップを企画したのはやはり、 ヨソモノが多数乗車して車掌が発券で忙しくなるのを回避するための、作戦だったのでしょうか? 今でも売っていたらいいのになあ・・・ないだろうなあ・・・ |
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大糸線の旧型国電、ではなく気動車の写真です。 1977年3月(78年かもしれない)に東洋活性白土専用線SL撮影に糸魚川まで行った旅行の途中、 信濃森上付近で撮影したものです。 白馬〜信濃森上間にかかる松川の橋梁で北アルプスを背景に旧型国電の写真を撮ろう、 と意気込んで行ったまでは良かったのですが、日ざしの方向を考えず午後に行ったため、 残雪の中の逆光で全く写真にならず、目標到達前か撤退後にたまたま通りかかった気動車の写真が、 唯一マトモに見られるものとなりました。 時間帯からして当時唯一の全線直通列車、松本と金沢を結ぶ急行『白馬』だと思われますが・・・ 記憶があやふやで、言い切れる絶対の自信はありません。 このとき残雪で覆われた松川の河原を、腰までハマりながら移動していたのを覚えています。 今考えると雪の下に何があるのか分からないのに、ずいぶん無謀なことをしたものです(笑)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もう一枚は季節はずれですが、 1980年8月に北小谷駅のホームから、やってくる上り列車を撮影したものです。 なぜ北小谷駅のホームに居たかというと、信州ワイド周遊券自由周遊区間の"果て"であったので、 旅行中に友人数人と、何となく行ってみようということになったのです。 "果て"は県境であることが多かったですから、当然駅前にはなんにもありません。 結局上り列車が来るまで、することもなくただボーッと佇んでいるしかありませんでした。 別に撮影地でのものでもない、どうということのない写真ですが、
キハ11やキハ55という液体式気動車の元祖が、この頃でも現役で活躍していたということ、 現在は1両が当たり前ですが、当時は3両以上"も"連結していたということ、 そして旅行に支障があるほど雨が降っていないのに、"例によって"荒れ狂っている姫川が、 なんとも印象的な一枚です。 |
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前記事と同じ日ではないにしろ同じ旅程中に、大糸線の定番撮影地、安曇沓掛付近で撮影した写真です。 同じ時間帯に続けて撮影したのは間違いないのですが、実は1〜3枚目の写真は順番の記憶があやふやです。 現地到着が午後をだいぶ回った時刻になってしまいましたので、 残念ながら切妻形クハ55の前面には日が当たらず真っ黒になってしまいました(悲)。 クモハ51のような半流線型なら、なんとか格好がついたのでしょうが。 国道147号陸橋上からの撮影・・・だと思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− こんどは田んぼの畦道まで降りての撮影、 たぶん、さっきの電車が信濃大町で折り返してきたもの・・・でしょう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 当時の大糸線を代表する列車、房総特急用183系0番台電車9両編成使用の、 南小谷発新宿行き特急『あずさ』です。 半流線型なので、なんとか前面に日が当たっています。 フィルムがもったいないので、一瞬撮影をためらったのを覚えていますが、 二十数年の歳月は、こんな車両をも美化してしまうのですねえ〜(笑)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 夕方になって撮影をやめ駅に戻りかけたかしたところに、突如出現した『海坊主』。 構図も露出もなくバッグからあわててカメラを取り出し撮影しましたが、 西日が床下機器まで立体的に浮かび上がらせているのが、実は気に入っている写真です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 3月下旬としては空気が澄んで、北アルプスがはっきり見える日でした。
大糸線には北アルプス、飯田線には南アルプスと、それぞれの定番車窓は強く印象に残っていますが、 悲しいかな旧型国電の引退後大糸線を訪れたことはなく、 飯田線のその後も1990年に『ゆうゆう東海森林浴号』で北から南にまっすぐ降りていった1度きり・・・。 |



