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学生時代の春休みは、長期休暇の中で最も気楽な休みでした。 休みの後に宿題提出や試験がなかったですからねえ〜 また卒業旅行シーズンでもありますから、自然と印象に残る旅が多くなります。 何度目かの大糸線旧型国電を撮りに行ったのは、沿線の雪どけ間近な1980年の春休みだったと思います。 まずは信濃大町駅で撮影した、大糸線名物『海坊主』ことクモユニ81電車。 そのツルンとしたオデコも特徴的なのですが、1番線に停まっている165系電車にも懐かしさを、 そして当時は何とも思いませんでしたが、左右に多数停まっている貨車の数に、 当時はこんなにも貨物需要があったのだなと、感じずにはいられません。 続いては、海ノ口駅北側で木崎湖をバックに撮影した普通電車。 鉄道雑誌の撮影場所ガイド記事を見て行ったのですが、 行ってみるとどうにも邪魔な場所に真新しい道路標識が立っていたのです。 道路標識が1両目と2両目の間になるようにシャッターを切るとかの工夫をするんだったか・・・ まあ今となってはどうでもいいことですけどね(笑)。 3枚目と4枚目は、南小谷駅構内および駅南側の写真です。 白馬から北側はスキー客も観光客も乗っておらず、列車内は至って空いていて、 南小谷は途中駅のはずなのに、最果ての終着駅のような寂しい雰囲気を持っていました。 訪れる季節によってもまた印象が異なるのでしょうが、今も変わっていないのでしょうか・・・? 『その2』では安曇沓掛付近の写真をご紹介します。
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鉄道思い出話
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掲載した写真は、確か1986年11月ころ撮影したものです。 小田急の向ヶ丘遊園駅に停車している、今でも見慣れた8000形一般型電車6両編成ですが、 実はこれ、『特急ロマンスカーさがみ号』なんです。 当時の時刻表と突き合わせると、16時発のさがみ11号だと思います。 このころ、箱根登山鉄道箱根板橋駅で当時最新鋭の7000形特急型電車(LSE)が脱線事故を起こし、 原因が特定できなかったので、しばらくの間客扱いを中止し原因究明がなされたそうです。 そのため特急型電車が足りなくなり、最も観光客に影響の少ない午後のさがみ号を、 一般型電車で運行したというわけです。 これは歴史的珍事?と、当時ほとんど鉄道写真を撮っていなかった私がカメラを携え出かけましたが、 現われたのはヘッドマークもなく一見何の変哲もない、ただの8000形。 強いて言えば列車種別表示が『臨時』になっているのが、珍しいくらいでしょうか。 車掌はドア扱いをせず、ホームから係員が非常ドアコックを操作して1ヶ所のみドアを開け、 特急券拝見(たぶん特急料金は半額もしくは全額返していたと思いますが)をしていたのと、 車内の床に業務用ケチャップ缶のような空缶灰皿がドアごとに置かれていたのが、 ふだんお目にかかることのない光景でした。 (そのへんも撮影しておけばよかった・・・) この写真トリミングしようかと思ったのですが、まだ上屋がないホームや待避線側の広告、
駅前(南口)ビルの看板が渋いかなと思い、そのままにしました。 特に南口側は、駅前の様子がだいぶ変わりましたね。 |
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1980年か81年の2月に訪れた、国鉄赤谷線東赤谷駅の写真です。 国鉄再建法による特定地方交通線指定・廃止承認はもう少し先の話でしたが、 既に列車本数はかなり少なく、通学輸送にのみその存在意義があるという状態でした。 東赤谷駅は鉄道ファンの間でも有名な、珍しいスイッチバックの終着駅でした。 検索エンジンでいくらか調べてみると、起点の新発田から赤谷の間は、 赤谷付近で産出する鉄鉱石の輸送のため敷設された官営製鉄所専用線として1920年に敷設されたものが、 第一次世界大戦後の不況のため使用されることなく放置されていたものを、 地元の請願によって鉄道省が1925年に無償譲渡を受けて、赤谷線として開業したものだそうです。 末端の赤谷〜東赤谷間は、鉄鉱山の再開発のため1941年に延伸開業したもので、 同時期に日鉄鉱業赤谷専用線として建設中の東赤谷〜鉄山間4kmも開業し、 鉄鉱石積載の貨物列車に木製客車が連結され旅客は便乗という形で、実質直通運転もしていたようです。 その歴史を考えると、東赤谷駅は両線の分界点であって、旅客扱いの施設は二の次だった・・・ と考えると、不思議な『スイッチバックの終着駅』という駅構造も、納得いくものがあります。 しかし日鉄鉱業赤谷専用線はわずか15年後の1956年に廃止され軌間610mmの鉱山専用軌道に置き換わり、 その後も東赤谷駅は鉄鉱石の積み替え基地として機能していたらしいのですが、 貨物営業廃止から1年と経ずして、赤谷線は1984年4月にその歴史を閉じました。 先っぽだけ残った鉱山専用軌道も、1999年ころ廃止されたそうです。 ↑スイッチバックなので、駅名標の『あかたに』の方向とは反対に発車していったことを覚えています。
去っていく駅名標をあわてて撮影した、という状況ですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 読者の皆さんは、めったに来ることのできない場所に来たとき、 「生きているうちにもう一度ここに来ることがあるのだろうか?」 という感慨にとらわれたことがありませんか? 私は折り返し列車が東赤谷駅を発車するとき、初めてその感慨を持ちました。 そこに親戚知り合いが住んでいるとか、観光地があるとかなら再訪の可能性もあるのでしょうが。 実は一度も海外に出たことがなく、 国鉄再建法により相次いで廃止になった路線の半分も乗ったわけでない私が言うのもおこがましいですが、 北海道の根室標津駅、紋別駅、上砂川駅、十勝三股駅、新潟の蒲原鉄道村松駅、九州の佐多岬・・・ 思いついただけでも、結構あります。 交通の便が良いかどうかというのは、案外無関係なのかもしれませんけど。 |
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今年は特に関東は暖冬で、血行の悪い私にはありがたいことですが、 地方によっては深刻な雪不足のところもあるそうですね。 季節に変化があってはじめて『風物詩』という言葉が生きるのでしょうから、 やはり『例年並み』なのが全てに対して公平だということでしょうか? 今晩掲載した写真は、1980年2月(プラスマイナス1年の誤差があるかも)、 山形県の国鉄米坂線羽前小松駅で撮影したものです。 写っているキハ58系気動車は米沢行き上り最終列車で、20時30分頃の発車だったと記憶しています。 雪国にお住まいの方々には怒られそうですが、気動車の前照灯に映りこみ前面にへばりつき、 少ない乗降客の足跡をあっという間に消していく粉雪が、美しく感じられてしまったのです。 ちなみにこの時の状況は、はっきり覚えています。
反対側ホームからカメラのシャッタースピードをバルブにし、 カメラ手持ちで(三脚がなかった)立ったまま、さらに旅行荷物を肩からかけたまま、 5秒間を心の中で数えながらシャッターを押し続けた結果がこの写真なのです! 今やったら手ブレ間違いなしだな・・・若かった(情熱があった)のかなあ・・・? |
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皆さま、ご無沙汰しております。 微妙な風邪のぶり返しと、『不採用通知』の束と、久しぶりの夫婦大ゲンカとで、 しばらくブログをする気になれませんでした。 おそらく私が皆さまより暇な立場であろうことは、間違いないと思うのですが・・・ あまり放っておくと時期はずれになってしまうネタを、記事にしたいと思います。 2003年1月18日〜19日の1泊2日で、北九州小倉(競馬)に行ったときのものです。 この時は羽田から航空機利用で福岡空港に向かい、博多から特急『有明』を利用し小倉に乗りこみました。 当時2歳の小僧は、ふだんDVDやビデオでしか見られないJR九州の車両に大ハシャギです。 (↑もちろん今でも行けば同じことでしょうが) 787系電車への乗車は私もこの時が初めてでしたが、DVDやビデオで見たよりも車内が暗く感じられました。 座席や壁・床の配色のせいでしょうか。 小倉に到着して外側からも記念撮影、色とりどりの車両群に気をとられ小僧はカメラを向いてくれません(笑)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 今回の宿泊は初の利用となる、小倉駅直結の『ステーションホテル小倉』。 直結なだけあって手間なく到着し、チェックインを済ませ荷物を置くとまたすぐ駅に戻ります。 この旅行はもちろん競馬場訪問観戦が主目的だったのですが、別に大きな目的がありました。 ブログプロフィール画像にもなっている、JR小野田線本山支線のクモハ42形電車乗車です。 かつて宇部線・小野田線は1980年代の旧型国電活躍の場として有名で、 私も高校生のとき訪問しようと山口・秋吉洞ミニ周遊券の中京地区発売箇所まで調査し (この周遊券、なぜか関東地区では発売されていなかった)、 学割も取得し準備万端なところに、身内の不幸があり出発を中止し、 程なくして本山支線用のクモハ42形を除き、旧型国電は消えていきました。 私にとっては二十数年ぶりの再挑戦で、置き換え間際のクモハ42形乗車になんとか間に合ったわけです。 JR西日本の小倉駅出札に行き、厚狭までの『新幹線ウィークエンド回数券』4枚セット\6,760-を購入します。 「え?小倉から厚狭まで45km新幹線に乗るの?」と笑われそうですが、本当は私だって乗りたくない。 しかし勝手の分からないローカル列車が混んでいて車窓が単調で、小僧がぐずり出したりしたら、 他の乗客に迷惑がかかるし自分たちも冷や汗もの、ならば法外でない範囲の出費は仕方なし・・・ と思ったわけです(今はだいぶ人間らしくなったというか、少しづつ道理が分かってきたようですが)。 実際、厚狭で山陽線に乗り換えると、それなりに混んでいて車窓は単調でした(読みは当たり)。 最短ルートでの接続が悪いため、厚狭→宇部→居能と乗り継ぎ、雀田に向かいます。 居能駅の接続が良すぎて、幼児とベビーカーを抱えて跨線橋を駆け上がる夫婦を視認していたらしく、 接続の小野田線ワンマンカーの運転士氏は、私たちが乗り込むのを確認してドアを閉めますm(_ _)m。 雀田に到着し、雑誌やHPで見慣れた風景に佇むクモハ42形クモハ42001と、(私だけ)念願の対面です! そのまま長門本山まで乗車し、終点で『撮影会』に参加です。 クモハ123形への置き換えが近い土曜日ということもあり、車内外は多くの鉄道ファンで賑わっています。 その邪魔にならぬよう家族も入れて撮影などしているうち時刻は17時を回り、 西国といえどもあたりは薄暗くなってきました。 当時の時刻表が見つからないのではっきりした時刻が書けないのが残念ですが、 関東から来てその日の日没前に乗車することのできた、唯一の列車だったのです。 まだ発車まで間がありましたが、運転士氏がサービスで前照灯を点けてくれました。 暗くなったので撮影をあきらめ、線路終端すぐ先の海を眺め、駅前見学をします。 『駅前にはなんにもない』と聞かされていたのですが、商店などないものの思ったより民家が建っているし、 駅前にあるバス停の時刻表には、JRよりはるかに多い便数が表示されていました。 戻ってきて車両反対側からをしつこく撮影、パンタグラフ側とはまた違う印象を受けます。 折り返し雀田に向かい、すっかり暗くなった車窓と、車内に見入ります。 ワンマン運転設備以外は、二十数年前に飯田線で乗ったクモハ42形と変わらないのですが・・・ 私は「もう引退させてやれよ」という感想を持ってしまいました。 もちろん、クモハ42形が現役で活躍するのは嬉しいことです。 でも物には順序というものがあると思うのです、二十数年前すでにクモハ42形は『古参』でした。 その間に80系・153系・165系などの『後輩』が消えていき、電車といえばVVVF制御が当然になりました。 『営業する保存車両』の意味合いもあったのでしょうが、 (2003年の)数年前からいつでもクモハ123形に交代する態勢が整っていたのですから、 急カーブで17m車しか通れなかったJR鶴見線大川支線などの特殊条件例ならともかく、 必要とされていない車両が無理して(部品がなくて整備が大変だったらしい)走っている姿は、 かえって空しいものがある・・・と私は感じたのです。 それは現在のSL観光運転にも当てはまると思うのですが。 雀田からすぐ接続の列車で小野田→厚狭と乗り継ぎ、小倉に戻りました。
ちなみに小僧はクモハ42形に何の興味も示さず、 JR九州の車両やホテルの窓から見えた新幹線レールスターのほうが良かったみたいです。 おまけに今日、記事を書く前に画像だけ見せたら、「乗ったこと覚えてない」とぬかしました(笑)。 |



