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家族そろって佐久間レールパークを訪問するにあたり、やはり問題だったのは往復交通の便でした。 JR東海の鉄道博物館に行くのですからぜひ鉄道を使いたいのですが、東海道新幹線とJR飯田線で 中部天竜まで一家で往復したら総額4万円近くかかります(そんな高額をかけてまで行かなくても…)。 また昨年の10月4日はちょうど大人@3,060でJR線全線1日乗り放題(普通列車利用限定)の 『鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ』 が利用可能でしたが、中部天竜までは6時間ほどかかり、 今度はそんな労苦をかけてまで行かなくても…となってしまうのです。 ならば先に訪問記事を書かれた先輩諸氏と同様に自家用車で行くか?…確かに時間に融通が利きますが 我が家のクルマはETC非搭載だし(苦笑)、大井松田ICから一つ隣りの御殿場ICまで運転しただけで どっと疲れてしまうへなちょこな私には無理難題というもの(苦苦笑)。 で、思いついたのは↓コレ。 レール&レンタカーというJRの割引きっぷで、JR券とレンタカーを同時に購入する等の条件を満たせば 同行者含め全員の運賃が2割引、料金が1割引となるもの。 小田原〜掛川間新幹線自由席往復3名で24,640円のところ20,840円、レンタカー代6,300円と足して 27,140円ですから、考えようによっては2,500円でレンタカー1台1日借りる計算になります。 レンタカー返却の際に満タン返し給油代がいくらかかかりますが、 3名でこの金額なら佐久間レールパークに行ってもいいかなと決断いたしました! 交通量が少ない地域で車線変更や合流がなければ私でも運転できますし(苦笑)。 天竜川沿いの国道152号線を遡るとなれば終点側の浜松市からレンタカーを使うのが普通でしょうが、 なぜ掛川駅からなのかといいますと、 小田原に近い(運賃料金がより安い)のもありますが、レンタカー営業所がある南口は新幹線駅開業に伴い 整備されたはずで(掛川駅に新幹線駅ができたのは1988年のこと)、つまり駅前がせせこましくなく 人影も通行するクルマも少なく、レンタカー貸出返却の際に楽であろう。 また市街地を通らずすぐ郊外に出ることができ楽だろう、と予想したわけです(もちろん大当たりでした)。 掛川駅から中部天竜駅までのルートは天竜浜名湖鉄道沿いの県道40号〜天竜川沿いの国道152号〜 国道473号の約64km、カーナビによると所要約2時間30分。 天竜川沿いの国道152号は古くから秋葉街道と呼ばれる歴史ある道、風光明媚な車窓が楽しめるらしい。 (そんな楽しみでもないとクルマで行こうという気にならないけど) 国道152号に入り二俣町(旧天竜市中心部)市街地を抜けしばらく行くと、 満々と水をたたえた天竜川(船明ダム湖)が見えてきます。 そのまま川に沿って進むと、ダム湖上に突如巨大な橋が出現!なんだなんだ!? とりあえず国道が橋をくぐってすぐの道の駅 『天竜相津花桃の里』 に入り、休憩がてら巨大な橋を観察します。 橋の名称は 『ゆめのかけはし』。 この日は地域のイベントだったようで道の駅駐車場は満杯、橋の上にはなぜかドクターイエローが(謎)。 橋台の銘板を見て、ようやく思い出しました! 遠江二俣から中部天竜を結ぶ予定だった国鉄佐久間線の未成線跡が、今でも残っているという話を。 『ゆめのかけはし』 は湖上に橋脚だけ放置されていたのを、歩行者自転車専用橋として再利用したものだそう。 とりあえず、道の駅全景。 背後(画像右手)の一段高いところにコンクリートの路盤があり、『ゆめのかけはし』 への通路となっています。 道の駅の敷地は、もし佐久間線が開業していれば相津駅の駅舎と駅前広場になっていたのでしょうか? コンクリート路盤は 『ゆめのかけはし』 の反対側へも伸びていますが、道の駅への階段柵から先は草ぼうぼう。 すきまから入って路盤の切れるところまで進んでみました。 この先はこうなってますから、下をのぞくとさすがに怖かったです。 川を渡った先には橋脚に橋桁が架かっている部分がありました。 これにも銘板がついていました、架道橋だったのですね。 架道橋はそのまま山腹にぶつかりトンネルになっていました。 ワイナリーとして再利用されているようです。 日本国有鉄道清算事業団と書かれた看板が、とてもむなしい… このトンネルの向こう側がどうなっているのかとても気になったし、 『ゆめのかけはし』 も向こう岸まで渡り切ってどうなっているのか見たかったのですが、 それをやっていると "本来の目的" が果たせなくなるので、名残り惜しくも再び中部天竜駅に向かいました。 家に帰ってネットで検索すると佐久間線の未成線跡探訪記が数多くあり、 予備知識を持って行けばもう少し計画的に行動できたのかなあ…と反省することしきり。 旧国鉄二俣線遠江二俣駅(現天竜浜名湖鉄道天竜二俣駅)から飯田線中部天竜駅までの約35kmの路線として開通する予定で、1967年に遠江二俣〜遠江横山間約10kmの区間で建設が開始された。約50%完成したところで1980年、国鉄再建法により工事の一時中止が決定された。遠江二俣〜遠江横山間には、築堤やトンネル、橋などが現在も所々残っている。 (Wikipediaより引用、一部加筆修正)国道152号は線形道幅風景とも申し分なく、水量豊かな天竜川を右に見ながら北上していきます。 大井橋という交差点で国道152号から分かれ、国道473号に入ると様相は一変!天竜川ははるか下方に離れ 見通しのきかない山中の心細い道を延々と(たった5kmほどなのですが)たどっていきます。 対向車とすれ違うのにも肝を冷やし、JR飯田線の線路が見えてきたときにはどれほどホッとしたことでしょう! 佐久間線の工事は遠江横山から北側は全く手つかずだったようですが、 国道473号部分の険しい山中にどうやって線路を通すつもりだったのか、 だいたい開通したとしてもいかほど利用客がいたのか、疑問ではあります。 工事していた約10kmの区間がもし1980年の直前に開通していたとしても、沿線の集落の規模を見ていると 間違いなく国鉄再建法の特定地方交通線指定を受けて、10年ともたずに廃止されていたでしょう。 遠鉄バス北遠本線の路線バスと浜松市自主運行バスが佐久間線の予定ルートを運行していますが、 1日5往復でまかなえる程度の需要ですから…(実はこのバスに乗って中部天竜に行きたかった)。 大井橋交差点から国道152号を先に進むと、天竜川支流の水窪川をさかのぼり水窪町でJR飯田線と別れて からは翁川をさかのぼり、中央構造線の露頭が見られるという青崩峠(車両通行不能)、秘境と言われる 遠山郷を経由しサクラの名所高遠に至ります。こちらもいつかぜひ、訪れてみたいものです。 (実は佐久間レールパークより国道152号沿線のほうが面白かったかもしれません、笑) そうは言いながら≪その1、現地編≫で載せ忘れた画像を2点。 まずは佐久間レールパークの取ってつけたような貧相な入り口(苦笑)。 回転バーはここで入場料を取るためでなく、単なる入退場者数カウンターのようです。 続いて運転士教習制御車クヤ165-1、種車サハシ153の横長窓が特徴的です。 タラップなぞ付いてないですから車内の様子はよく分からないのですが、
私が背伸びして眺めたらどうにも怪しげな機器がぎっしり詰まっている(笑)。 でそれを小僧に教えてあげたら、"自分も見たいから肩車しろ" とおっしゃる。 はい、しましたよ肩車、30kgの子どもをね!なんとか腰も持ちこたえました! 子どもってドクターイエローしかり、なぜかこういう事業用鉄道車両が好きですよね〜(疲)。 |
遺構(廃線跡など)
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(今昔写真画像はクリックすると大きくなります) 先の日曜日に地元のケーブルテレビ(ウチは別に加入しているわけではないのですが、 私の住んでいるマンションでは各戸にテレビ電波を配信するにあたり集合アンテナを建てることをせず、 地元CATV局から有線で配信する方式をとっているため、サービスで無料視聴できる)を見ていたら、 神奈川県開成町金井島の瀬戸屋敷で 『酒匂川の今昔と酒匂堰のひみつ』 という写真展が 8月4日から9日まで行われている、という情報を知りしかも最終日は16時までの展示というので、 取るものもとりあえずあわてて駆けつけました! 今回の写真展は地元の亡くなられた方の遺品整理中に発見された、1933(昭和8)年前後から 1950年代にかけての酒匂川本流支流を撮影した100枚以上の写真と、 ほぼ同じ位置から撮影した現在の風景を比較対照して展示したもの。 写真は流域の橋や建造物、景勝地などのランドマークと共に撮影されているので、 大きく変わってしまった風景、今も意外に変わっていない風景が分かり、大変貴重なものと言えます。 展示されていた写真を撮影してブログに公開するというのは、マナー違反かとは思いますが、 展示会期が既に終了していて現在は見ることができませんし、この貴重さを少しでもお伝えしたく、 鉄道がらみの今昔写真5点に絞って掲載することにしました。 会場の床には酒匂川に見立てた曲がりくねった青いビニールシートが貼ってあり、 複写された写真がラミネートされて "流域" に置いてあるという展示手法で、 会場に入るとまずは下流域の写真から見ることになります。 まずは酒匂川河口近くに架かる現JR東海道線の鉄橋から。 砂利採取の機械って結構大きかったのですね! 当時酒匂川の河原には、トロッコのレールがあちこちに張り巡らされていたのでしょうね。 続いて松田町までさかのぼり、現JR御殿場線松田駅〜東山北駅間の風景。 丹那トンネル開通前後で、線路がまだ複線で残っています。 架線がなく直線のスカッとした複線線路と、ぼやけて対岸がはっきり見えない酒匂川の取り合わせは、 一昔前の北海道の線路さえ想像させます。 上り線の線路用地は横に沿う国道246号の拡幅(か東名高速建設による移動)用地に転用されたようです。 3枚目は静岡との県境に近い山北町西端の、現JR御殿場線谷峨駅〜駿河小山駅間の第3相沢川橋りょう。 谷峨駅からこの第3相沢川橋りょう付近まで、複線だった時代は上り線が現在の国道246号部分を通っており、 一度相沢川(現在は鮎沢川の呼称)の対岸に渡りもう一度渡る上り線にのみ、 第1および第2相沢川橋りょうが存在していた(現存せず)というのを、お気に入り登録させていただいている BAZUさんのブログで知っていましたが、それを実際に写真で見ることができたのは感動でございました! 現在は写真奥側の下り線のみが鉄道として利用されています。 4枚目はかつて存在した柏木集落の風景。 柏木集落の存在も先ほどのBAZUさんのブログで知りましたが、 東名高速建設のために集団移転消滅という経緯を今回初めて知りました。 古地図と現在図を照らし合わせると柏木集落のあった場所は現在の鮎沢PAあたり、 その位置関係から考えると写真手前に写っている鉄橋は、先ほどの第3相沢川橋りょうから約400m西で 現JR御殿場線が再び相沢川(現鮎沢川)を渡る橋りょう(第4相沢川?)と思われます。 そして写真左手中ほどに写っている吊橋は、現在も支柱だけが残されています(BAZUさんの記事参照)。 1977年くらいまで実在していたというこの吊橋が何のためにあったのか、今まではっきりした理由が 分かりませんでしたが、表道(現国道246号)と柏木集落を結ぶ重要な生活道路の一部だったのでした。 ちなみに246号から北側の吊橋支柱跡に至る、現在は行き止まりの道がJR御殿場線を越える踏切には、 今も柏木踏切という名称が付いています。 消えた集落の忘れ形見でしょうか。 最後には極めつけの大物(?)、山北町世附の浅瀬地区から西丹沢奥地へ延びていた、森林軌道の写真。 西丹沢の奥地に森林軌道があったらしい、という話を聞いたことがありますが、具体的な路線位置を知ったのは 今回が初めてですし、その写真が残っていたとは驚きでした! 他の写真に付いていた説明書きの一部をここに転載します。 森林軌道の路線には浅瀬集落を起点に地蔵平まで7234mの大又沢線、水ノ木までの7898mの水ノ木線がありました。地蔵平には昭和初期の最盛期には200戸ほどが暮らし三保小学校の分校もありましたが、林業の衰退により1960(昭和35)年廃校となり、森林軌道も廃止されました。地蔵平は現在山歩きの通過地名としてのみ残っているそうですが、 山梨県道志村国道413号沿いの最も近い人里まで直線距離で6km弱、 逆に国道246号まで直線距離でも9kmはあろうかという "神奈川県の最奥地" に かつて森林軌道が通い街としての営みがあった事実を、写真は証明しているのですね。 写真展を企画された 『足柄の歴史再発見クラブ』 の方々によると、 今回展示した今昔比較対照写真を今後記録出版するという構想があるそうで、 そのあかつきには手が出る限り(5千円1万円では手が出ませんが)買い求めたいな、と思う、 良質の記録写真でございました。 70年ほど前の酒匂川流域写真を満喫し会場を後にすると、 屋敷の前で久しぶりに元気の良さそうな大量の "栗のイガ" を見かけました。 |
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神奈川県山北町の山北駅を訪れたのは、桜の咲き具合を確かめるという目的でしたが、 もう一つ、何年も前から気になっていて忘れてまた思い出すを繰り返していた "あるモノ" を撮影する、 という野望(?)もありました。 国府津方向からJR御殿場線に乗り電車が山北駅構内に進入すると、左手に "それ" が見えてきます。 車内から撮影しようと思っても乗客の目が恥ずかしくてできなかったのですが、 『やまきた桜まつり』 期間中は土日でも開放されている山北町役場の駐車場から実にあっさりと、 "それ" は間近に見えたのでした。 少なくとも1934年の丹那トンネル開通(御殿場線が東海道本線だった時代)までは使われていたであろう、 山北駅4番5番線(番号は推定)ホームの遺構、国府津方先端部分です。 駅構内を眺めているといかにも地方ローカル幹線の主要駅然としていて、駅本屋の改札内側がそのまま 1番線、跨線橋を渡って次のホームが2番3番線(現1番2番線)という造りだったでしょうから、 さらに駅本屋から遠い位置にあったこのホームには、おそらく4番5番線の番号が割り振られていたはずです。 実は駐車場と駅構内の間はかなり高い金網で仕切られていて、画像のような角度で撮影するのは不可能か、 と半ばあきらめかかったのですが、世の中便利なもので携帯電話なら金網の間に入るのです♪ ただ向こう側に取り落とすとシャレにならないので、慎重に撮影いたしました。 続いて遺構中ほどから国府津方、沼津方を見た画像です。 この遺構の真下に幅2mほどの川が流れており、遺構を全て撤去すると再び川の上に覆いをつけなくては ならないのでそのままにしてある、というのがこの部分だけ残っている理由でしょうか? ほとんど通行はなさそうだし、この幅なら川に鉄板渡しておけばそれでいい気もしますが。 それとも鉄道記念物待遇で残してあるのかな?(笑) 手前使われていない線路下の緑の鉄橋には、何度も塗りなおされてつぶれてしまった銘板が残っています。 一番上の 『鐡道省』 と上から3段目の 『株式会社駿河・・・工場製作』 まではなんとか読めるのですが。 (間違っていたらごめんなさい) 最後に駅裏手の道路に隠れるように残る、4番5番線ホームの一部だったであろう遺構です。 沼津方は町営温泉施設の建設のために撤去されてしまったようですね。 また構内中ほどから沼津方に延びている引込み線はホーム遺構からやや離れて敷かれているので、 一度線路をはがしてから新たに敷きなおしたのでしょう。 架線柱がホームを削った後や線路が敷かれていたであろう場所に容赦なく建っているのは、 御殿場線電化時(1968年)にはこのホームは既に使われていなかった、ということを物語るのでしょうか。 |
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神奈川県は小田原市内の鉄道廃線跡といえば、小田急足柄駅の日本専売公社専用線が有名で、 他にJR鴨宮駅周辺の工場に通じる引込線跡も少なからず存在しますが、 このブログでは3つの酒匂川砂利採取専用線跡の現在をご報告していきたいと思います。 第一弾は、JR御殿場線下曽我駅から分岐していた、譲原砂利専用線です。 きっと誰も知らないだろう、読者の皆さんは驚くだろうなあ・・・と思っていたら、 新潮社 『日本鉄道旅行地図帳』 4号の廃線鉄道地図にあっさり紹介されており、 ウィキペディアの下曽我駅記事にもあっさり、 "砂利採取線が分岐していて譲原砂利株式会社が使用していた" と明記されています。 さらに調べてみると10年以上前にHP上で画像入り紹介記事を書いていらっしゃる方もいたり、 やはり10年以上前に雑誌に取り上げられたりしていて、すっかりテンションが下がりましたが・・・ 自己満足のために(?)書きます! 説明のために、まずは地形図をごらんいただきましょう(小さくて申し訳ないm(_ _)m)。 地図右上で御殿場線から分岐しほぼまっすぐ西に向かい、 左端中ほどで南向きにカーブし終わっている実線がお分かりいただけると思います。 実線に片側ヒゲ付きの表示(見えないと思いますが)は、当時の地図記号には "特種鉄道" とあります。 続いてもう1枚(これも小さくて申し訳ないm(_ _)m)。 アルファベットが列をなしている部分に、 地図1枚目の線路と同じ弧を描く道路があることをお分かりいただけると思います。 ウィキペディアの下曽我駅記事にもある通り、廃線跡の大部分は道路に転用されています。 ではアルファベットの順番に、現在の様子をご紹介しましょう。 ちなみに最初の訪問の際撮影した画像にピンボケ手ブレがあまりに多かったため、 後日再訪問し撮影しなおしました。 そのため空の様子や明るさが異なる画像がありますことを、ご了承ください。 A地点は、当ブログでも取り上げた中河原梅林の南側で、農業用水路が御殿場線をまたいでいます。 左側の廃線跡(旧複線路盤)は地元の方の徒歩道路となっています。 所々浮き出している枕木は、やはり砂利専用線のものだったのでしょう。 B地点はやはり当ブログで取り上げた梅林踏切付近、三方から細い生活道路が集まりますが、 廃線跡だけが歩道付きの立派な片側1車線道路で左にカーブしていきます(税金無駄遣い?)。 上から見るとこんな感じ、下曽我駅から約800mといったところです。 砂利道を確か10年ほど前に改修したのですが、梅林踏切付近から先が細道なためほとんど交通量なし。 これなら廃線跡のまんま放置しておいてくれればよかったのに・・・(C地点)。 酒匂堰を渡るとこの沿線唯一人家が多い場所となり、国道255号旧道と交差します(D地点)。 200mほどで卸売センター入口という交差点となり、今度は現国道255号と交差します。 すぐ手前で用水路を渡りますが、先ほどの酒匂堰ともどもかつては立派なトラス橋が架かっていたそう。 道路改修の際架け替えられてしまい何の面影も残っておらず、水面にカモが佇むのみ・・・(E地点) 卸売センター入口交差点を過ぎると先にその名の通り卸売センターや木工団地があり、 その開設に合わせて1970年代(もっと前かも)に道路改修されています(F地点)。 そのため舗装が古びていて歩道が狭め(ほとんど歩いている人がいないから十分な広さだけど)。 次の卸売団地西交差点あたりから、廃線跡は左に(南に)カーブを始めます(G地点)。 カーブの先は終点(?)、木工団地です。 この先約200mに渡って道路の上下線が離れ、その間幅40mの袋状の土地に木工工場が立ち並ぶ 特殊な立地は、ここに砂利積込用の線路が並んでいたことを想像させてくれます(H地点)。 道路脇に積んである枕木がもしや遺物か・・・と思いましたが、廃止後40年経っている割には新しい(笑)。 他所から持ってきた可能性が高いですかね? 木工団地西側の築堤を上るとすぐ、そこには広大な酒匂川の流れがありました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
御殿場線が戦時中に単線化された後、使われなくなった片側の路盤を再利用したのでしょうから、 戦後まもなくに線路が敷かれ砂利運搬列車が運行されるようになり、全国的に川砂利採取が禁止された 1964年ころにその役目を終えたのだろうと想像されます。 また起点と終点以外は分岐器のない、単純な線形だったと思われます。 現在でも譲原建設という会社が小田原に存在しますが、おそらく譲原砂利と何らかの関係があるのでしょう。 これが本気の学術研究なら譲原建設さんに当時の資料など残っていないか問い合わせるところですが、 さすがにそこまでするほどでは・・・(笑)。 御殿場線旧路盤以外は全くと言っていいほど何の痕跡も残っておらず、知らなければごく普通の道路として 見過ごしてしまいそうな廃線跡ですが、ここを蒸気(またはディーゼル?)機関車が無蓋貨車を引いて 一面田んぼの風景の中をのんびり通っていたと想像するだけで、よしとしましょう。 |
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