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			<title>信仰の旅日記</title>
			<description>日々デボーションなどで教えられたことを書きます☆</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond</link>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>信仰の旅日記</title>
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			<title>妥協はしない（創世記24:1-27）</title>
			<description>『しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国に来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこに連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の家の父、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる･･･もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこに連れ帰ってはならない。」』（5-8ｓ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主は真実な方であり、必ず約束を成し遂げられる。アブラハムには子孫が星の数ほど与えられ祝福されるという約束が与えられていた。その契約の第一歩として、息子イサクの結婚相手選びは重要課題であった。もちろんこれは約束の全てではないが、約束のための第一歩としては大切なことであった。アブラハムは主が約束を成し遂げられるという堅い信仰をもって、信頼のおける最年長のしもべを遣わし、イサクの結婚相手を探させた。その条件は、　米韻舷世鮨仰する人がふさわしいという理由で）故郷の地の人で、￢鸞の地であるカナンに連れて来なければいけない（その故郷の地にとどまる人は論外）というものであった。ここには、主と主の約束を信じる信仰の故に妥協がない。彼には「主は必ず約束を果たされる」という信頼があった。&lt;br /&gt;
ここで、私自身に問わなければならないことがある。私はどうだろうか。主と主の約束を本当に信じているか。物事一つにしても、「これは仕方ない」と信仰と切り離して妥協していないか。聖書から約束が与えられているが、それを覚える努力をして、それによって押し出されているだろうか。私に与えられている人間関係の中で、「この人は仕方ない、救われないだろう」と諦めていないだろうか。どうせこの人に伝えるのは無駄だと私の中で決め付けていないだろうか。また、キリスト者の兄弟姉妹の過ちに対して、「この人はこういう人だから仕方ない」と忠告をせずに放ったらかしにしていないだろうか。言わない方が楽に決まっている。しかしその人のためにはならないだろう。私は神の約束を信じていると言いつつ、実際の生活の上でそれが表れているのだろうか、妥協していないか。二心を持つ（世と神のdouble standardを築く）ことは、まさしく主を本当には信じてはいないという妥協である。私の優先順位は何か（自分ではないだろうか）。主は全力で御自身を愛するように求めておられる。私は、そのようなものとは程遠い、自分の基準で自分の都合で主人を変える罪人である。神よりも大切なものがあったらそれは偶像と呼ぶ。私こそ偶像崇拝者ではないか。神に赦され、愛されているのにも関わらず、神を見くびり、背く私。基準が自分であり、神を神としていない。神の目からしたら、本当なら何の価値もない裏切り者、敵である私である。&lt;br /&gt;
しかし、主は恵みと憐みに富まれる方であり、私を愛し、悔い改めることを忍耐強く待たれる。今、悔い改め、新しくしてもらわなければならない。汽茱魯唯:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめて下さいます。」の御言葉の約束がある。きよめ主の主にきよめてもらおう。&lt;br /&gt;
わが魂よ、私の主人は誰かをいつも問え。&lt;br /&gt;
そして実際に、神はこのアブラハムの信仰に答えられ、御自身の真実を現された。しもべの祈りはすぐに聞き入れられた。主は祈りを聞いてくださる方だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/14493444.html</link>
			<pubDate>Sat, 09 Feb 2008 11:21:45 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>歴代２８章</title>
			<description>「強く、雄雄しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神があなたとともにおられるのだから──。主はあなたを見離さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させて下さる。」２０ｓ&lt;br /&gt;
 このデボーションの箇所では、ダビデがその王の仕事をソロモンに引き継ぐ場面であり、沢山のことを学んだ。１つは、ダビデがその子ソロモンに「主の命令を守り行え、主を求めよ」と語っていることである。聖書の原則は、詩篇1篇にもあらわされているが、『主を求めて御言葉に従う者は幸いを受け、主をないがしろにして御言葉に背くとき者は滅ぼされゆく』というものである。ダビデは、その人生の中でこの原則を見据えて体験していたと思う。しかも８ｓより愛する子・主の民には与えたがっているということも読み取れる。「～しなければならない」と御言葉にルールとして記されているのだが、それは実は神様からの愛の標識なんだなと思わされた。御言葉に従いたくないとき、従えないときは私にも本当にしばしばある。「神様？あぁ・・・」とはぐらかして何もなかったかのようにして知らぬ顔で神様をないがしろにするのが私達の罪である。そのような従いたくないときも、主は私に切に与えたがっていることを思い起こし、信仰によって御言葉を行っていきたい。また「主を求める」ことは「御言葉を行う」ことと切り離せないことも学んだ。主の命令に従い、求める時に、主はご自身を現される。逆に御言葉に背き、自分勝手に生きるときに主は私を良くない思いに引き渡されるのだ。（ローマ1章後半）　　第２に、主は私の心の奥底まで知り尽くされていることを改めて知った。神様の前では隠し事はできない。私は他人との祈りの中でも、偽りというかその場を取り繕うようにして思ってもないことを祈る癖があるのだが、主は私の心を全て知っておられるということを知りつつ、真実に偽り無く祈りたい。わが魂よ、全てを知り尽くされている主に正直に祈れ。偽りを語るな。正直に語る子供の言うことを聞き入れない父がいようか。形式的な内容の無い言葉を避けよ。それらはごまかし・偽りである。　３つ目は、主は王を定められ、人それぞれに役割をお与えになるということだ。ダビデはその王職を神から賜ったものであることを知り、勇ましく雄々しく行動できた。私も、クラ会のリーダーとしての役割を主から与えられている。しかし、本当にその役目を全うできているだろうか？指摘・ぶつかりを恐れて積極的に踏み出せていないのではないだろうか。我が魂よ、人の目を恐れ、必要なことをする自信がない。主がともにいて下さるのだ。余計な思い患いは捨てよ。それらの重荷はサタンのせいだ。確かにクラ会の人たちは個性が強く、自分の考えを持っている。しかしその場に私を遣わしたのは主だ。主が共におられるのだから、嵐のときに慌てふためいた弟子達のように焦るのではなく、むしろ恐れず、おののかず、強く雄々しく事を為し遂げていきたい。わからないときは正直にわからないから助けてももらおう。自分を守るために頑張る必要はない。まだ私は成長の途上であるし、それを脱出するすべも主は備えられているからだ。勇気を出して自由に歩んでいくものになりたい。祈ろう。　ＴＡＫＥ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/12100207.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Jan 2008 00:37:36 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>成人の証</title>
			<description>成人の証　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はクリスチャンホームに生まれ、小さい頃から教会に行き温々と育てられてきました。神様はいるし、自分のことを愛してくれていることも漠然とですが知っていました。もちろん私にも試練や神を疑った時期はありましたが、その度ごとに主は新しい備えをしてくださり教会生活を続けることができています。今までの私の歩み一つ一つに関わって下さった兄弟姉妹の助け、また祈りに感謝します。&lt;br /&gt;
ところで、私は今大學で札幌にいて、そこでも与えられた教会に行っています。その中の交わりで、今までぼんやりとしていた（これはクリスチャン２世を初め、教会生活が長い人に特有なものかもしれませんが）クリスチャン用語、たとえば「恵み」、「罪」、「義」についてなどどういう意味で使っているのか自分の言葉で説明する必要を覚えたり、本質的な聖書を通した交わりをしたり、また聖書が何を言っているのかを聖研する（これはＫＧＫでもそうですが）、など人生を考えるに当たって非常に重要なことを学べる、そんな環境においてくださっている主に感謝をしたいと思います。主はまことに、時にかなった学び・訓練を備えていてくださいます。大学時代の時間のあるときに、神様のことを深く話し、学べる場にいることを本当に感謝しています。&lt;br /&gt;
さて、将来についてはまだわからず、自分にとってふさわしいことは何なのかを吟味しつつ探って生きたいと思っています。ヘブル１１：８に、とあります。キリストに従うと何がおこり、どこへ導かれるのか、前もって知ることができたらと思います。けれども、実際にはイエスが共におられ、全てを支配されることが保証されているだけです。アブラハムのように、私もその神が導いていることを頼りにしつつ未知の世界へと踏み出す者でありたいと願わされるのです。&lt;br /&gt;
最近競謄皀藤院В兇鰺燭┐蕕譴覽＿颪あったのですが、本当にこれは私へのことばと受け取り、歩みたいと思います。将来を見るとき、私も思い煩いや不安で臆病になってしまいやすく、今という時を十分に生かせなくなりがちという、そのような弱さを持つ私でありますが、自分に与えられているのは力と愛と慎みの霊、聖霊様が与えられているということを、自己に言い聞かせつつその聖霊様により頼んで進んでいきたいと思います。&lt;br /&gt;
とまぁ人前で偉そうなことを言ったりしがちな私ですが、実生活において本当に自分の基準で生きてしまって、自分という神に仕える者で、イエス様抜きでは神の前では価値なき者であります。でも神様の方法として十字架を備えて下さって御子が代わりに死んで下さり、完全に赦されたことをただ感謝するのみであります。自分の罪の大きさ、また自分の小ささを覚え、十字架の偉大さをもっともっと知る歩みが、これからも生涯にわたってできたらと思います。イエス様の愛をもっと知り、すがっていきたいと思います。&lt;br /&gt;
　主が私に今与えて下さっている人間関係・環境に改めて感謝しつつ、成人の証とさせていただきます。兄弟姉妹、先生、家族に感謝します。　ＴＡＫＥ</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/12100127.html</link>
			<pubDate>Sun, 06 Jan 2008 00:36:14 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ローマ2:1－6</title>
			<description>『ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたには弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。』１ｓ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は生来、他人と自分とを比較してきた者であった。自分が他人よりも優れていたら、見下したり裁いたりしがちな者である。それと最近は、批判精神が養われてきており、問題点を指摘するスキルが上がった。これ自体は感謝するべきことなのだが、極端に走りがちで、知らず知らずの間に、あら探しをしている自分がいた。「この人は何が言いたいのか」、「この人には問題がある」と思ったりするわけだが、相手を裁くことによってそのところで終わっていた。しかし、その問題点を私も持っていることに気がついたのだった。人の目を気にして称賛を求めようとする自分がいたし、自分をいつも守ろうとする、同じ罪を自分が持っていたのだった。そして、一昨日この聖句を与えられたのだった。他人を裁く人であった私は、「そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています」（２ｓ）という御言葉に恐れを抱いた。これからは、裁く自分も弱い者であるということを知りつつ歩んでいけるように祈りたい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2989802.html</link>
			<pubDate>Wed, 19 Sep 2007 11:09:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>詩篇８４篇１－１２節</title>
			<description>『なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわくところとします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。』5,6ｓ&lt;br /&gt;
この詩篇84篇はエルサレムへの巡礼者の喜びの歌である。主によって救われた私にとっては、これは天の都、永遠のエルサレム、また、毎日の歩みこそが巡礼の旅と指すことができるだろう。シオンへの大路、それは神への思慕と求道心を表す。私の日々の生活の中で、葛藤、失敗といった試練があるが、そのような時にも、神様に頼ることは「幸いなこと」なのである。ところが実際のところ、なんと私は自分の力に頼って処理しようとしてしまっているだろうか。クラ会のリーダーにせよ、FIG（教会の中高科）のスタッフにせよ、人間関係にせよ、まだまだ神への信頼する余地はあるだろう。その割には、「あぁ、今日も失敗だったかもしれない」と落胆するのである。私の力が、もし主にあり、その心がシオンに向いているならば、涙の谷があろうとそこに泉が溢れ出るのだ。ここに、たとえ試練・失敗があろうとそれを通して神様が私を成長させようとする希望がある。だから、いつも主に頼み、祈ることを忘れないでおきたい。そのときできる限りのことをして、後は主に任せるような信仰をもてるように祈りたい。　『万軍の主よ、なんと幸いなことでしょう、あなたに信頼するその人は。』12s　　愛する兄弟姉妹が、日々の生活の中で最善を選択し続けられるように祈りをこめて。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494327.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:14:50 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>詩篇１１篇１－７節</title>
			<description>「主に私は身を避ける」１s&lt;br /&gt;
今日の箇所はダビデが試練にあったときに歌った詩だと思われる。友人は彼に「鳥のように、山に逃げろ」（２ｓ）と助言をする。しかしダビデは「私は主に身を避ける」と決断している。目の前の現実よりも先に、主への信頼がきている。　　私も今ちょっとした試練に置かれていて、クラ会の件で差し引きならぬ状況に置かれている。私は困ったとき、すぐに友人・先輩に知恵を求めるが、そのところに神への信頼はあるか、と問われた。まず主に祈っているか？と。　　もちろん、幸いなことに私の周りには賢明な友達がいるし、彼らの助言は有益であると思う。しかし第一は主に頼むべきで、まず祈ることから始めようと思わされた。この試練のときは今は私に痛いが、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上も無い喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になります。」（ヤコブ１:２－５）の御言葉を握っていきたい。　　今日も愛する兄弟姉妹の上に主の祝福がありますように。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494279.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:14:14 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>エレミヤ17:5－11</title>
			<description>『人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれがそれを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。』9,10s&lt;br /&gt;
私は何か自分でできた良いことがあったり、人にほめられたりする度に「おっ、ちょっとやるじゃん俺」と心で思ってしまいがちなものである。しかし、聖書はなんと言っているであろうか。『主は仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れるものはのろわれよ。」』（5s）と言われている。なんと自分の力に頼るものはのろわれるとあるではないか。また、高慢には注意しなければならない。主は心砕かれ、へりくだったものと共に住まれるからだ（イザヤ57:15）。最初に記されているみことばのように、私は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」ということをよく知るべきである。ここで強調されているのは「心」である。心によって見、聴き、話し、うらやみ、妬み、愛し、蔑み、恐れるといった「行動」が起こるからだ。私も前までは、自分の行動だけに心を留めていたので、そんなに罪を感じることはなかった。しかし、心を吟味し始めた時に驚くほど、憎しみ、蔑み、妬み、自分を守り、自分のために利用しようとする思いでいっぱいだった。本当にどうしようもない罪が染み付いている自分に気付いたのである。しかし、これに気付けたのは私にとって益であった。主イエスが一体自分のために何をしてくれたのかがわかるようになったからだ。主がこの地上に来られ、労苦し、嘲られ、憎まれ、鞭打たれ、ボロボロになりつつも重い十字架を背負われ、釘打たれて十字架にかかってくださったことを感謝できるようになった。罪の自覚が主に会わせてくれて、感謝へ導かれたのだった。　　しかし、それでも日常生活の中で私は主のことをすぐ忘れてしまうから聖書の人間理解は正しいとしかいえまい。私の心は陰険で、直らない。しかし、「人にできないことも神にはできる」（ルカ18:27）と言われた主にあっては変えられることができることを信じる。自分の力でやるときにはのろわれ、主により頼む者は祝福されるということを覚えていたい。主もご自身に信頼するのを待っておられるのだ。このことを心に留めて、聖霊の力に身を委ねて歩むものでありたい。　　愛する兄弟姉妹の一つ一つの選択が守られ、平安に過ごせますように。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494245.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:13:46 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ヨハネ15：1－7</title>
			<description>「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」5s&lt;br /&gt;
これは有名なイエス様の御言葉である。このことばは今年の3月終わりに、北大のKGK（キリスト者学生会）、クラーク聖書研究会（通称クラ会）で今年のテーマを決めるに当たって与えられた御言葉だった。今期もクラ会が終わったが、実際私はどのくらいイエス様につながっていただろうか、と考える。聖研の司会のときとかだけ主に委ねていて、日常生活でははそうでなかっただろうと思う。私は何かと自分の力に頼って判断したり、自分の中であきらめてしまったりする癖がある。判断基準は自分となっている。しかしこの箇所では、枝である私達は木であるイエス様につながることが大事だと言われている。いや、むしろイエス様から離れていたら私達は何もすることができない（5s）とさえある。しかも2,6sにあるように実を結ばない枝は除かれるとあるから注意しなければならない。　　どのようにしたらイエス様とつながっていれるだろう。もちろん主からの働きがなければ、聖くされていくことはあり得ないが、私達としても一つ一つの選択の際に意志をもって行動することが問われているのではないだろうか。ｗｗｊｄ？(イエスならどうするか？）と判断基準のなかにイエス様の分を空けておきたい。また、朝ごとにイエスつながっているように祈って、一日を始めていきたい。　　平安が愛する兄弟姉妹とともにありますよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494186.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:12:54 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>へブル12:4-13</title>
			<description>「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」11s&lt;br /&gt;
主は愛する者を訓練される、とは一体どういうことを言うのだろうか。主に従っていく上で生まれる苦しみ（葛藤も含）、また一般的な苦しみも入るだろう。私の中でよく覚えているのに、昔付き合っていた方と別れるとき、とても感情的に苦しかったときもあった。しかしそれがなければ、その分主に信頼してなかっただろうし、今この地にいることはない、ということを思うと不思議だ。主はひとつひとつの出来事によって訓練される。　　今まで生きてきた中で、最も不安だったことのひとつに、「主が御姿を隠された」、つまり私の中で、神の存在を疑ったことであった。私は平安がなく、どうしようもなく焦った。しかしそのことを通して祈り、思索し、御言葉を聞き、それによって神のことがよくわかるようにもなった。訓練を振り返ると平安がある。この地にあるうちは、悩み、訓練の連続だろうが、それは「主は愛する者を懲らしめ」（６ｓ）るためであることを掴んでいきたい。　　愛する兄弟姉妹の上に、今日も主の平安がありますよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494128.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:12:16 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>歴代Ⅱ17:1-7</title>
			<description>「主はヨシャパテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかったからである。」3,4ｓ&lt;br /&gt;
今日はヨシャパテについてお分かちしたい。信仰の人、ヨシャパテ王をご存知だろうか。彼はイスラエルが分裂していた時代（ソロモン王以後）の、南ユダ国の王であった。ちなみに、北イスラエルは、アシェラ像やバアルなどの偶像を拝み、堕落していた。3,4ｓにあるように、ヨシャパテはバアルに求めず、主に求めてその命令に従ったとある。そこで、５ｓ「主は、王国を彼の手によって確立された」。主はご自身に拠り頼むものを決してないがしろにされない。しかもヨシャパテは６ｓにあるように、「彼の心は主の道にいよいよ励み、彼はさらに、高きところとアシェラ像をユダから取り除いた」　とある。彼は恵みを受けて、さらに主に応えていったのだった。　　それでは、この箇所は私にとって何だろう。偶像と言われても、あからさまにクリスチャンの場合は仏壇を拝んだりしないだろう。私達に言われているのはむしろ、神との関係を邪魔するものは、何であろうと偶像であるということだ。この箇所はそのことを意識せずには読めない、非常に痛い箇所である。私の中に主に委ねていない領域はないだろうか？恥ずかしながら、それは多々あると思う。世間体を気にして人の目を気にしてしまい、自分がクリスチャンだと言いづらかったり、「このときだけはいいや」と主の道を放棄してしまって自らの欲を追い求めたり、それらの事こそが私にとっては偶像である。　　このみことばをもらう前から生ぬるい信仰だったのだが、幸いなことに、昨日再び献身を心に誓うことができた。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかったその人。その人は水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。」（詩篇1:1,3）このみことばを覚えて主にしたがって生きたい。　　兄弟姉妹に主の平安がありますように。TAKE</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/lucyinthediamond/2494091.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 19:11:45 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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