藤沢城は南北朝時代から戦国時代の終わりまで小田城の支城であった。小田城の政務所とも伝えられている。永禄8年(1565)、小田氏治は上杉謙信と小田天王常で戦って敗れ、藤沢城に敗退したが、のち居城を回復した。 しかし、同十四年には再度藤沢城に移っている。
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藤沢城は南北朝時代から戦国時代の終わりまで小田城の支城であった。小田城の政務所とも伝えられている。永禄8年(1565)、小田氏治は上杉謙信と小田天王常で戦って敗れ、藤沢城に敗退したが、のち居城を回復した。 しかし、同十四年には再度藤沢城に移っている。
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地元の着物屋さんで『唐織尽展』が開催されました。
目玉はお市の方の小袖(復元)展示!
復元製作したのは創業200年の名門、永治屋清左衛門。
文化庁から依頼されて、唐織で数々の桃山小袖(唐織小袖)
を復元している織元。唐織は平安時代の浮織組織の技法を進化させたものが起源。文様になる箇所に緯糸を刺繍の様に立体的に織り上げる技法です。現在では袋帯や打掛の技法として受け継がれてきました。唐織の技法を応用して着物を織れるのは現在では永治屋清左衛門だけだそうです。
平成5年、京都国立博物館技宮、切畑健氏指導の下お市の方の装束を唐織打掛、白綾地小袖、練貫地小袖などを復元製作。
これがお市さまの小袖
ために…
お市さまの肖像画。どうですか?↑と比べて下さい。
ねっ同じでしょ
この当時は6枚一組なので6枚着てます。12単は重いけど、戦国時代のものは軽かったそうですよ。
小袖と言うくらいなので袖は小さく短く、いざと言う時に薙刀
等で戦う事が出来るようになっていた…説あり。
実際この小袖を着て同じポーズ写真が『ふでばこ』
に載っていました。正直、少し怖い感ありますが
お市さまが現代に蘇るとこんな感じなのね。この時代、女性も胡坐や立膝で座っていましたが小袖の身幅が広いので裾が乱れません。
正面から…確かに6枚着てますね。
全体を。裾は引きずるほどの長さではないのですよね。
図柄をアップ。唐織は模様糸も一緒に織り込んでいくとても繊細な技術を必要とする技法。
京都文化博物館に展示されていた様子のパネルをカシャ
本来ならこの様にガラスケース越しの鑑賞なのに目の前
で見れてめちゃラッキー!
蘇った?お市の方写真が掲載されている『ふでばこ』
表紙は徳川家康の孫娘で皇室に嫁いだ和子さんの復元
装束。和子さんは高価な着物を数多く持っていたお方。その
おかげで国家財政が傾く
ました(皇室の方だから税金で買うのね)。
それらを図鑑として発刊。庶民はこの本を見て、あ〜この着物
欲しいなぁ〜とか憧れていたんだとか。現代と同じね。
最後にもう一度。
小袖は1領、2領、と領で数えます(甲冑と同じ)。領地と
匹敵するほど価値のあるもので大名家の妻女が権力を
誇示するもの。
一般民衆は身分制度があったので着てはいけなかったそ
うです。と言っても現在のお金で8千万円〜1億円するので
買えませんよね
今回、戦国女性の着物話が聞けて凄く勉強になりました!
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皆さん大変ご無沙汰しております。久々の更新…m(__)m
先日小田城で開催されたミニイベントに参戦して来ました。
鎌倉以来の名門・小田家の居城小田城
(茨城県つくば市小田2532−2)
本丸周辺が整備され今年の4月29日に
『小田城歴史ひろば』としてオープン
オープニングイベントでは武者色なかったので今回初の
甲冑武者ミニイベント。
まずは整備された小田城を紹介
は続くそうですよ。
本丸土塁上から本丸内を。
本丸
本丸建物域
東池
西南虎口
西南馬出曲輪
本丸より前山城と宝篋山(後方)を望む。
本丸からすぐのところに資料館(案内所)も開館。最近中世
城郭にも資料館が併設された所が増えて予習、復習、休憩、トイレ等、色々と助かりますね
小田城と云えば、ゲームからか最弱戦国大名とありがたくな
い称号が付いた小田氏治さんがマニアの間で有名。城を奪われては奪還、また奪われては奪還の11回(所説あり)に及ぶ小田城攻防戦で5勝、6敗。最終的には城を奪還出来ずに終わりますがこの『諦めない心』を称えるミニ寸劇を披露。
リハーサルの模様
小田城内でのイベント後、好評につき資料館前でも急遽、
寸劇披露。
寸劇の他、兜&陣羽織試着体験、法螺貝体験、写真撮影
などのおもてなしをさせて頂きました。兜を被った姿を来年
の年賀状にします!って方もいて集まってくれた皆さまに楽し
んで頂けてよかったぁ
私達も地元の方々の大歓迎に感無量。
関係者の皆さま&集まってくれた皆さま本当にありがとう
ございました。
ガイドさん…「つくば市は学術・研究都市を謳っているせい
か武者&城に注目がいかない。こんな立派な城と歴史
があるのにもったいない。これを機会に次に繋げたい」と
仰っていました。
賛成です!
いますしね。人気観光地・筑波山にも近いし、サイクリング
コースにもなっている小田城、綺麗に整備され皆さんの
お越しをお待ちしています!
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元弘3年(1333)5月8日上野国生品明神で挙兵した新田義貞、
11日小手指原の戦い、12日久米川の戦い、15日分倍河原の戦いを
経て鎌倉に攻め入り22日に鎌倉幕府を滅亡させました。 今回はこの時義貞さんを乗せて共に戦った愛馬
山口観音を紹介します
山口観音(埼玉県所沢市上山口2203)お寺に納められている祈願文によると義貞さんは元弘3年庚申5月15日にここ山口観音に立ち寄り、戦勝祈願しました。祈願の後、南下
して東京都府中市の分倍河原へ。
誓いの桜 義貞さん、この桜の前で幕府を倒して天皇を護ると誓い、
枝を折り鞭として使用したと云われています。現在の木は何代目かですが
この馬舎に義貞さんを乗せて鎌倉攻めをした愛馬
「ワシが義貞公の愛馬
した
絵馬はニンジン形してます
本人口調の説明書が良いですね。「鎌倉攻めの後、義貞公の命により
ここ山口観音を守護し余生を送ったのじゃよ」
勝負運アリ
見事な奉納額
百頭の彫像
「さぁワシに乗りな。いざ鎌倉じゃ!」
境内には太田道灌家臣が奉納した天女稲荷大明神(蚕祖神)。五穀豊穣・万民豊楽を祈念。道灌家臣…って誰だか気になるぅ
新田義貞さんって鎌倉幕府を滅ぼしたのにその後足利尊氏に
差をつけられ… 戦術では楠木正成には叶わない… 何か第3
の男的イメージありますが、各地に伝説があり、愛馬まで祀られ、
実は庶民に人気ある?? ツメの甘さが気になりますが、うちら的
には大河の主人公に推したい一人です
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天正18年(1590)小田原攻めで前田利家は北国軍として
上野国を経て松山、鉢形城などの武蔵国諸城を攻略。
その時、埼玉県所沢市の北野天神社に立ち寄りました。
北野天神社(埼玉県所沢市小手指元町3−28−29)『景行天皇の御代(71〜130)、日本武尊が東征の折、この地にニギハヤ・ヤチホコの二神を祀り、物部天神・国渭地祇神として尊称した古来武蔵野の延喜式内社入間郡五座の一つに数えられている由緒ある神社です。その後長徳元年(995)菅原修成(道真の五世の孫)が武蔵守となり、この地に京都の北野天満宮を勧請し祀ったことから、北野天神と称されるようになりました。(案内板より)』
小田原攻めの時には幾度の戦災(近くに新田義貞の鎌倉攻め時の小手指ヶ原古戦場がある)により灰燼と化していた北野天神社
菅原道真の子孫・前田利家さん
神社の荒廃ぶりを放っておけなかったのでしょう、社殿を再興
元々北野天神社は武家の信仰が厚く、利家さんの前だと源義家、
頼朝、足利尊氏等の有名武将により社殿の造営が行われています。
ちなみに現在の本殿は安永年間(1770年代)、拝殿幣殿は平成6年の再建で残念ながら利家さんのものは残っていません
大納言梅 武運長久祈願のため利家さんが献裁
案内板には「菅原道真の子孫だと云う前田利家は〜」の一文が…
えっ!利家さんって自称子孫なの?
神社的には自称で子孫を名乗る利家さんに対して複雑な気持ち?
諸説あるようですが領地の加賀国は天神信仰が盛んで統治のため
子孫を名乗ったとか。色々と苦労があるのね
そう言えば前田家の家紋ってちゃんと梅を愛した菅原道真と同種類の梅鉢紋だね
境内には↑の大納言梅の他、宗良親王(後醍醐天皇の息子さん)の
陣跡&歌碑や…
日本武尊の手植えの桜もあります。
攻めた北条氏支城を抜かすと東京近郊(所沢市は東京都に
隣接)に前田利家さんの史跡って珍しいのですよね。
あっ、でも大納言梅は二代目だそうです…
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