『神指城』 慶長5年(1600)120万石を領する時の会津藩主上杉景勝は、石田三成と力を合わせて 徳川家康を討とうとしたが、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築 くことを計画、家老直江兼続の指揮のもと12万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせた。 しかし関ヶ原の戦は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。それ以後、この城は廃城 となり現在にいたっている。 城の規模は本丸が東西180m、南北306m、二の丸は東西468m、南北522m 。 土塁は10m、濠には大川と湯川の水を予定していた。完成していれば巨大な方形館タイプの平城で あった。(案内板より) 田んぼの真ん中に残る神指城。 濠跡も田んぼになっています。 神指城の石垣基礎石〜案内板によると「本丸にあったものを昭和58年にここに移した」と。 本丸は総石垣造りだったそうです。石は東山町の慶山石切山から二里の間に人夫を並べ、手送り で運んだと云われています…これは大変。 上杉景勝の築城以前からここにあった高瀬の大木(ケヤキ)〜天然記念物です。 本物の直江兼続の顔を見たことあるケヤキさんです^^ 土塁上はこんな感じ〜東屋、案内板、高瀬の大木があります。 田園風景の向こうに会津磐梯山を望む〜会津磐梯山は宝の山よ〜♪ 新撰組殉難地で有名な如来堂も神指城域内〜戊辰戦争で斉藤一が奮戦した地です。 高瀬の大木からかなり離れていますが、巨大な神指城域から考えると納得。 上杉景勝の夢の跡・神指城です。総監督は来年の大河の顔・直江兼続♪ 「天地人」の幟はまだ立っていませんでしたが、来年には観光客が大勢やって来るのでしょうか? 鶴ヶ城は山が近くて守備に不利、それに120万石の太守の城としては手狭なため、 この神指築城を始めるのですが、その読みは戊辰戦争で鶴ヶ城が小田山から砲撃にさらされた事で 的中します。凄いですね〜大当たりです。 関ヶ原が終わり上杉景勝は米沢に移封されるのですが、精魂込めて築城した神指城の完成を見ずに 放置して去っていく胸中は…(ノ_<。) 翌、慶長6年(1601)破城され、石垣は鶴ヶ城の修復のために持ち運ばれました。 切り出した山が同じなのでそれまでの鶴ヶ城の石垣との区別は難しいらしいですよ。 一般に神指城跡と云われている高瀬の大木がある所は二の丸跡で、本丸跡も残っているらしいの ですが予習不足のために何処だか全然分かりませんでした(;^ω^A 現在、神指城の周りは一面田園でここに鶴ヶ城を凌ぐ巨城を想像する事は難しいです。 だって鶴ヶ城が素晴らし過ぎたので…(;^ω^A
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