『会津若松城(鶴ヶ城)』 至徳元年(1384)芦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりといわれている。 その後、会津領主だった芦名盛氏が改築、現在の城郭の原形をつくりあげた(黒川城) 芦名氏を滅ばした伊達政宗の後、天正18年(1590)に蒲生氏郷が入城し、7層の天守閣を築 き、名前も鶴ヶ城と改めた。慶長3年(1598)上杉景勝、寛永16年(1639)会津地方を 襲った大地震により天守が傾いたが、加藤明成の手により現在の五層の天守閣に造りかえられた。 寛永20年(1643)保科正之(徳川家光の弟)が封じられたその後は子孫の松平氏が代々居城 した。幕末の戊辰戦争時に西軍の攻撃に籠城戦1ヶ月、その名城振りを発揮したが開城。明治七年に 建物は解体された。昭和40年に会津のシンボルとして天守が再建された。 (パンフより) 有料駐車場として利用されている西出丸〜加藤明成が蒲生時代の馬出を拡張。 濠と石垣が美しいです♪ 帯郭の北西土塁上に建つ鐘撞堂〜会津戦争の時にも正確に刻を知らせ、城外で戦う兵士に鶴ヶ城の 健在を知らせていました。 あまりにも正確なので西軍もこの刻に自分の時計を合わせたエピソードも残っています。 鶴ヶ城稲荷からの天守。鳥居と天守のツーショがいいでしょ(*^ー゜)b 帯郭の管理事務所が建つこの場所は黒川城時代の西御殿があった場所。 そうです、ここが伊達政宗がお母さんに毒を盛られた場所なのです。 昭和40年復元の天守〜天守台が11mで天守25m。計36mです^^ 天守台は蒲生氏郷の築いた野面積み。 鉄門と天守〜定番ですが、このアングルも美しい☆ 鉄門前の石畳は会津戦争中の怪我人手当場所にあてられました。 今も雨の日には石畳に血が浮き出てくるらしいです。ここら辺にそれらしき跡が… 会津戦争時には戦死者が続出し、死体が井戸に積み重ったと言われますが、 ここがその井戸。手を合わせてきました。 茶室・麟閣〜千利休の弟子だった蒲生氏郷が利休の死後その子・少庵を会津に匿っていました。 その時、少庵が氏郷のために造った茶室で会津戦争後は茶人森川善兵衛宅で大切に保存されて いました。平成2年に移築復元され、500円で抹茶(お菓子付き)が楽しめます。 天守最上階の赤い高欄。文献に「朱の欄干〜」とある事から元々赤かった事が判明。 復元の際に赤にしたのか、元から赤かったのか、ずっと気になっていたのです(;^ω^A 眼下の南走長屋と干飯櫓は平成12年復元で木造。総工費約7億円!ちゃんと赤瓦で葺いてあります。 会津戦争で西軍が大砲を据えた小田山(矢印)を望む。 ここから毎日2500発あまりの砲弾が飛んできたのです。 眼下の芝生広場は本丸御殿跡。 廊下橋から扇の勾配と言われる石垣を〜高さ約20mで城内最高の石垣です。 最後に再び東北唯一の五層天守の雄姿を☆彡 会津戦争の哀しみを背負った鶴ヶ城は美しい。そして生きている気がします。 今回訪れて再確認したのは鶴ヶ城は会津人の誇りであり、心の故郷だという事。 以前TV番組で開城の本当の理由は、糞尿の臭気に耐えなれなったからと放送された事がありますが、 これに会津人が大抗議、訂正、謝罪させた話は有名です。いざという時の団結力が強い! 市の条例で天守より高い建物の建築が禁止されているので今も昔も天守が一番高い建物です。 赤い高欄の他に気になっていたのが七層の天守の話し。天守台の北に寄って天守が建っているのは 七層の天守台をそのまま使用して五層天守を建てたからとありますが、この天守台の大きさの七層 天守が建っていたとすると秀吉の大坂城天守より高くなってしまうのです。これを氏郷を煙たがって いた秀吉が許可するか?…今も謎だそうです(;^ω^A 天守内に松平家の宝物が展示されていないのは、開城後にみな略奪されてしまったためだと… 名君・保科正之の資料も焼かれてしまったそうです。敗者は全てを失うのですね(ノ_<。) 西軍の攻撃に耐え抜いた天下無比の堅城、開城時内郭の建物は焼けもせず、崩壊もせず、全て残って いたと伝わります。街中であの有名な天守の古写真を飾っているお店(大きな看板にしているお店も) を何軒か見ましたが、開城こそしたが、お城は無事だったというアピールと、あの日を忘れないと云う 気持ち…やはり鶴ヶ城は会津人の誇りなのですね。 そう云えば日本全国お城は数多いですが、愛称で呼ばれるのは、この鶴ヶ城ぐらいですかね♪ 正式には『会津城』です。 最後に色々な情報を教えて下さったボランティアガイドの大塚さんに大感謝です。 ありがとうございました。(_ _*)_ _*)
|

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事






