慶長3年(1598)豊臣秀吉は蒲生氏郷の嗣子秀行を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移封した。秀吉は景勝に120万石を与え、奥羽鎮護の大任を課した。会津に入封し会津黒川を居城とした景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣直江兼続を領国経営の第二の要である米沢城の城主とした。天下分け目の慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで豊臣方に属したため、天下人徳川家康は慶長六年(1601)景勝を120万石から30万石に減封し、会津黒川(若松)城を没収した。景勝は家臣兼続の居城である米沢城に入り、松ヶ崎城を舞鶴城と改めたという。米沢に入部した景勝は、城郭の改修、水濠、土塁の築堤、掘立川の造築、城下の町割り、整備等、今日でいう都市計画事業に全力を尽すことになる。この大事業を推進することができたのは、景勝の名補佐役であった兼続の城下町づくりは一応完了したといわれ、現在の市街地の礎となっている。徳川幕府に対する配慮からか、米沢城には天守閣はなく、本丸の東北、西北の高台に御三階櫓ニ基を建てた。本丸は東西七十五間、南北六十間、東南隅には藩祖上杉謙信をまつる御堂を建て、米沢藩の精神的支柱とした。本丸の周囲に堤を築きその外廓に濠を廻らし、堤の上に掘りあるいは長屋を建て矢狭間を設けている。今日、本丸は上杉神社と松ヶ岬公園となっている。また、本丸を囲むように二の丸が配置され、二の丸にも濠を廻らしている。米沢に景勝が入部してから、明治2年(1869)上杉氏14代茂憲が版籍奉還するまでの268年間、米沢城は上杉氏の居城として、政治、経済の中心であった。(現地案内板より抜粋)
米沢城絵図 土塁造りのシンプルな平城ですね。これぞ上杉
本丸大手口〜やって来ましたぁ米沢城
鳩さんもまったりの濠端。後方の土塁上に御三階櫓が建っていました。
御三階櫓の古写真
御三階櫓跡からの眺め。
本丸大手口の左の濠。
↑の土塁上は上杉謙信公の遺骸を安置した祠堂がありました。
軍神・謙信公の銅像とツーショ。故郷・春日山の方向に向いていると知ったら
何だかホームシックな表情の謙信公に見えて来るから不思議…
猿
がいないと笑わない上杉景勝公と
ガスパッチョのCMの続きが今だ気になる?直江兼続像。
上杉さんだけじゃないよぉ〜伊達政宗だってここで生まれたんだよ。
本丸御殿跡に鎮座するのは上杉神社。むろん謙信公を祀っています。
本丸菱門跡〜往時には左に馬出がありました。赤い橋は目に留まりますね。
二の丸中濠
足を延ばして米沢藩主上杉家墓所(山形県米沢市御廟1−5−30)へ
ここは米沢城に何かがあった時に謙信公の霊柩を避難させる場所でもあった
そうです。この窪みってそのための堀なの?
謙信公の霊廟〜甲冑を身に纏った遺骸は甕に納められ、漆を流し込んで固めて
あるとの事です。明治以降に火葬されたのかなぁ?もしや今もここに…
景勝公の霊廟
景勝公霊廟にはメガシャキが供えてありました。 お燐の法音寺はかつて米沢城の二の丸にあり
大河で演じた北村一輝がCMやっていたから? ました。上杉家の菩提寺で位牌を安置していま
そしたら謙信公の阿部ちゃんにはいろはすだね。 ます。
総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)
現在の米沢城は本丸と二の丸の一部を残すのみですが、上杉・伊達・兼続
ら
戦国人気者ゆかりの地(「成せばなる〜」の鷹山さんも忘れちゃいけません)として
お城は地味なのにワクワク感がありますね。謙信公なんて死後に訪れたと言うのに
絶大なるネームバリューとカリスマ性で集客力NO1?
まさに神
ですね。
遺骸を安置していた祠堂は市内の長命寺に移築され本堂として残っているそう
ですが時間の関係で見に行けませんでした
遠征は時間との戦いですからね…
関ヶ原で会津から当時・兼続の居城だった米沢城に減封された上杉景勝。家臣
の居城に入る事に対してどんな想いだったのでしょうか。でも義を貫いたから仕方
ないと割り切ったのかな。
古写真が残る天守替わりの北東御三階櫓ですが、個性的な外観で良いですね。
最近徳川支店まる出し白壁層塔式天守に面白味を感じなくなって…(^-^ゞ
櫓台の大きさからさほどの規模じゃなかったようですがこれが復元されれば一般
観光客のイメージ〜米沢城=神社→米沢城=お城になるのにね。
限られた時間の中で駆け足散策だったのですが早朝だったのでお守り(謙信公は
不敗なのでご利益ありそう)も買えず
また米沢牛コロッケ、米沢牛串焼きも
売店が開店前で食べれずでしたよ…
いつか再訪してグルメも味わいたいと思った米沢城でした。