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大河・八重の桜
結末を知っているのに頑張れ会津藩!
集え会津サポーター達よ!
と、言うことで今回は久々シリーズ容保公を歩く〜東京編
松平容保公のお墓は現在会津の松平家院内御廟にありますが、
会津に改葬される前は東京の会津松平家菩提寺にありました。
さて、その東京の菩提寺とは?…
靖国通りの新宿一丁目北の交差点すぐにある浄土宗・正受院が
会津松平家の菩提寺でした。かつてあった新宿厚生年金会館から
道路を挟んで斜め前と言えばよいかな。
新宿で生まれ(荒木町)、新宿に眠った(新宿2丁目)容保公ですね。
かつては広大な境内だったと思われますが今は区画整理とか諸々の
事情で縮小となってしまった正受院(東京都新宿区新宿2−15−20)
ビルに囲まれた境内、コンクリ本堂も悲しい…
咳止めに効果があると言われ、幕末には参詣客が多すぎて一時参詣が
禁止されたと言うほどの超人気だった「綿のおばば」=奪衣婆像
見た目メチャ怖いんですけど…
宝永8年(1711)に造られたこの梵鐘は太平洋戦争の時に金属提供
されましたが戦後アメリカで発見され昭和37年に正受院に返還された
ので平和の鐘と呼ばれています。まさに奇跡や
梵鐘の裏が松平家の墓所だったと言うのですが…この辺一帯か?
この古い木は当時の名残?? 容保公だけじゃなく照姫さまのお墓
もあったと言います。
唯一容保公に関するのは晩年の容保公の世話役(奉公人?)だった
松枝さんが眠る野村家のお墓。調べたのですが松枝さんがどんな方か分かりませんでした
会津に改葬後、跡地の一部をいただき野村家の墓所としたそうです。
大正7年に建立とあるので会津改葬の翌年ですね。
以上、元会津松平家菩提寺の正受院レポでしたが、何〜にも残されていない上に案内板にもかつてここが松平家菩提寺だった事は一切触れられていません。墓石はともかくせめて案内板くらいはねぇ
形跡すらないなんて…会津改葬時にお寺となにかあったのかぁ?
〜勘ぐってしまいますね
お寺の方とお会い出来たらこの事を尋ねたかったのですが、
わざわざピンポンするのも気が引けるし、訊かれたくない感も
するし…(旦さま談)
晩年の容保公
明治26年(1893)12月5日第六天町の自宅で亡くなり、9日自宅より
出棺。3200人余りの会葬者を数えたそうです。正受院に埋葬。
大正6年(1917)会津家内御廟に改葬。
現在形跡すらありませんが約四半世紀の間、確かに容保公が眠っていた正受院。容保公への想いを馳せれば胸が熱くなります。 |

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