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今回は山形初代藩主・最上義光の家臣・鮭延秀綱さんのお話です
るなが鮭延さんの存在を知ったのは山形おきたま愛の武将隊。最初、山形県→名物が鮭→鮭延さん誕生と架空の武将?
と思ったら実在の武将でしたね
↓るなに殺陣をレクチャー中の鮭延さん。
鮭延さんの武勇が轟いたのは東北の関ヶ原と云われた長谷堂の戦い。戦の後、敵の直江LOVE兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし
しかし義光死後の元和8年(1622)最上家はお家騒動(最上騒動)により近江大森1万石に改易。鮭延さんは江戸幕府大老・土井利勝(佐倉藩主→古河藩主)に預けられますが翌年に5千石で仕える事に。しかし禄は全て自分を慕って山形から付き従ってくれた家臣に分け与えてしまったのです。
〜深イイ話
さて財産全部家臣にあげちゃった鮭延さんはどうやって生活していたかと言うと家臣の家を転々としていた!?
最初は嬉しいけど、何日かに一度はローテーション?でやって来る殿さまの接待も大変だったでしょうね。家臣の皆はどう思っていたのかなぁ?
こんな鮭延さんを海音寺潮五郎さんは小説乞食大名
として描いています(未読ですが
正保3年(1464)鮭延秀綱、古河にて死去。
鮭延寺(茨城県古河市大堤1030−1)鮭延さんの死後、家臣達が古河藩主・土井利隆に菩提を
弔うためにお寺の建立を懇願
もちろん寺名は鮭延さんの苗字からね
鮭延さんのお墓。 でも案内板はないのですよぉ
真室川町と言えば鮭延さんの居城があった町。お墓のある
総和町(現・古河市)と姉妹都市。鮭延繋がりネ
訪れた日は牡丹桜が綺麗でした。
境内には江戸時代の儒学者・熊沢蕃山(1619〜91年)の
お墓もあります。
貞享4年(1687)に著書「大学或問」が参勤交代制などを批判しているとして、幕府から国古河城での幽閉生活を命じられ、鮭延寺で病没しました。 ここ、鮭延寺が家臣による建立と知り、家臣に深く愛されて
いた殿さまだったんだなぁ〜と。そして信頼関係があったから
こそ家臣の家を転々として暮らしていけたのでしょうね。
欲無き猛将・鮭延秀綱さんのお話しでした
(注・諸説ありです)
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