戸倉城は戦国時代北条氏綱が築いたと云う。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西40メートル・南北30メートルの平場で、もとは土塁がめぐっていたと云う。東側に一段下がって袖郭があり空掘で仕切られる。南側には見張り台の役目を果たした天狗岩がある。東曲輪は東方にのびる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場をつくる。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と、その最下段には裾郭がある。
また主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続してつくられ最下段左手より狩野川へ向かって空堀があった。大手登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右にまがり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。西曲輪は本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の竪空堀と陵部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天郭があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空堀切と平場が尾根上にある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。
永禄11年(1568)から元亀2年(1571)にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正8年(1580)、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正9年(1581)武田方に寝返って城は武田方のものとなった。天正10年(1582)、武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたという。(現地案内板より)
戸倉城 現在本城山公園となっています。北駐車場入口
から望む。
戸倉城復元図
戸倉城跡概略図(『静岡の山城ベスト50を歩く』より)
北駐車場から本曲輪と西曲輪を隔てる堀切を…案内看板の
登山道は整備されていますが久々の山城、キツイ… 
本曲輪
ムーミン谷にありそうなこの木は展望台
展望台に上がってみた 残念ながら富士山は見えず
韮山城と大平新城を望む。
東曲輪
本曲輪南西の土橋
↑の土橋から堀切を…これまた何だかわかりませんねぇ 
居館跡に建つ龍泉寺
龍泉寺前の狩野川の船着場跡
武田方に寝返った城将・笠原新六郎が映画・ステキな金縛りの更級六兵衛(西田敏行さん)のモデルと言われています。
総評 ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★3つ)
北条、武田の境目の城、戸倉城。比高65mですが狩野川の
蛇行により三方を守られた要害の地。現在、本城山公園となっ
ています。しかし公園として整備されているのは本曲輪部分だ
けみたい
本曲輪には太平洋戦争時に高射砲が設置され、その時か
公園化の時かに改変があった模様。かつて取り巻いていて
土塁は跡形もないです。展望台に上ってみると伊豆の北条
支城群の位置関係が見えて面白い。当たり前だけど城地選択
は重要と再確認。ただ風景案内図とかの類がないので地図持
参をおススメします。
西曲輪へ行こうと堀切を渡って進んでみると下山しそうな気
配。えぇ!どこから行くの!? この日は気温も高いし、
帰宅後調べてみると麓から曲輪にある八坂神社を目指す道
がありました
気を取り直して居館跡と云われている麓の龍泉寺へ。
お寺のすぐ横が狩野川。かつて船着場だったそうです。
北条と武田の激しい攻防戦が行われた戸倉城、公園化された
本曲輪では眺めを楽しむ。遺構が残るけど未整備な西曲輪に
は藪漕ぎ覚悟で行かなきゃダメなようです。山城シーズンにリ
ベンジを果したいです なんだか消化不良の戸倉城訪城
でした。
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