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天正8年(1580)北条、武田両軍の間で駿河湾を舞台にした大規模な合戦が行われました。後に駿河湾海戦と呼ばれる戦です。
武田勝頼率いる武田軍が沼津千本浜から吉原海岸に布陣したとの報告を受けた北条軍は水軍基地である重須湊から安宅船で10艘で出撃!総大将は梶原景宗。(海上から望む長浜城と重須の湊
北条水軍無敵の安宅船
こちらが武田軍が布陣していた千本浜(千本松原)。富士山も望める景勝地で沼津の人気観光スポットです
場所が約400年前に戦場となったとは…
うっすらとだけど富士山見えるでしょ
砂浜いっぱいまで陣どっていた武田軍に対して10艘の安宅船から一斉砲撃!こりゃたまらん
しばらくして陣容を立て直した武田軍、今度は砂浜に土塁
を築き、鉄砲隊を配置。そこに再び安宅船がやって来て
陸上(武田軍)vs海上(北条軍)の一大砲撃合戦に!
と、『北条五代記
千本松原の松林〜農民が防潮・防風のために植えたと云われますが武田軍が戦の邪魔になると伐採!
千本松原の北側にある本光寺に隣接する首塚。元は千本浜の浜辺にあったもので明治33年地元の網元・小池さんが暴風雨によって砂浜に露出した頭蓋骨を集めて改葬して石碑を
建てたそうです。
砂浜におびただしい頭蓋骨が転がっていてさぞやビックリ
したでしょうね
説明板〜地元の方は「お首さん」って呼んでる!?
『戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正8年(1580)の千本浜の合戦は激戦であった。
明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下から たくさんの頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を建て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。 人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが 昭和29年、人骨研究の権威・鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、とくに十代後半の若者の骨の多い ことが注目されている。 碑文は旧沼津藩士岩城魁によるが、地元市道町の人びとが今も霊を厚く弔い、香花の絶えることがない。昭和59年7月』
『骨が語る日本史(鈴木尚著 学生社)』に首塚調査の模様が
詳しく掲載されていますので興味のある方はどうぞ。
本の内容を引用した沼津市HPより
・沼津千本浜の首塚が形成された時代は人骨の研究に基づくと、伝説の通り、室町時代中期から戦国時代にかけての合戦による戦死者と見なされる。遺体は合戦が終わると、直ちに埋葬されたが、その数は少なくとも200体に達したことであろう。
・遺骨は永い年月の間、海浜で風雨波浪に曝され、明治の改葬の頃は、人骨の多くが破片となって海浜に散乱し、ごく一部の遺骨だけが、埋葬当初のまま埋まっていた。改葬時、頭蓋骨が重点的に現在の首塚に移された。 ・発見された遺骨の2/3は男性、1/3は女性と判断され、彼らは成年が主体で、熟年は少数、老年と幼少年はない。 人為的損傷:頭骨には穿孔されたと思われる大小の円孔があったが、天正年間に千本浜で起こった武田・北条氏の合戦(北条五代記)に際し、種子島銃、矢、槍によるものと思われる。 本首塚人のあるものは、遺体から頭皮が剥がされている。同じ行為は新田義貞の鎌倉攻めの際、悪性の病の治療の目的で、性別、年齢に関係なく行われた疑いがあるが、本首塚ではある特殊な男性が目標となった疑いがある。 本首塚人の頭骨の中に、鋸で断ち切られたと推定されるものがある。意図は不明であるが、脳摘出の疑いがもたれる。 ・頭骨形質:本首塚の形質を人類学的に研究した結果、これらは中世の日本人と見なして、全く矛盾がない。 いま、千本浜首塚人を含め、鎌倉材木座遺跡、市原町梁瀬八幡平首塚、江戸崎町古城西遺跡から発見された人骨をもとにして、中世日本人の頭骨形質の平均型を総括すると、長頭型または中頭型、低顔型、低眼窩型、扁平鼻根、広鼻型を具えていたと考えられ、鎌倉材木座発掘の頭骨形質は、中世日本人の典型とみて差し支えないようである。 「頭皮が剥がされてる…」「脳を摘出…」等、かなりショッキン
グな内容です。しかしこれが戦国時代の真実かぁ…
以上、駿河湾海戦記事でしたが、駿河湾海戦はこの一回の
合戦だけじゃなく武田水軍が北条水軍基地の重須を奇襲して
始った北条水軍安宅船vs武田水軍関船(天正8年3月15日・
北条五代記)、武田軍の向井兵庫の活躍で北条水軍の船分
捕りに成功した海戦(天正8年4月?甲陽軍鑑)など数回行わ
れ、全てひっくるめて駿河湾海戦みたいです
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