旦さまと私

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お城散策(福島県)

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旦さまと福島県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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                             『猪苗代城(亀ヶ城)』
 三浦氏の一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、源頼朝から会津四郡を与えられま
した。その子盛連には六男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。
経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建九2年(1191)亀ヶ城を築いたと伝えられています。
 以後、十四代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正17年(1589)「摺上原の戦い」で
芦名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げ
ました。しかし亀ヶ城は、江戸初期に出された一国一城令にも破却されず、近世を通じて城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。(案内板より)
 猪苗代町指定重要文化財史跡                 


猪苗代城址見取図〜この図を参考に散策したのですが分かりずらい…(;^ω^A
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駐車場のすぐ前が、この馬場広場です。蒲生時代に造られた野面の多聞櫓石垣が良いですね。
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標識がいっぱい落ちているのですが…勝手に差し込んで来ていいのかなぁ?
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階段を上がると胴丸の石垣。
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本丸下の帯曲輪は散策道になっていて一周出来ます。
近世まで使われていただけあって切岸も見事。
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二の郭虎口の石垣〜階段は昭和33年の失業者対策事業で新たに造られたもの。
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w(°o°)w!? 怖い〜 (((p(>o<)q)))
一瞬さらし首かと思ったら野口英世先生でした。これはアメリカから寄贈されたものです。
何でもここは野口先生が子供の頃遊び場にしてたそうで…^^
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本丸南の黒門跡の石垣
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本丸は広場となっています。
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本丸から磐梯山にバンダ〜イ! (〃⌒ー⌒〃)あはは
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総評  ★★★☆☆ (私見 ★3つ)


愛称「亀ヶ城」。会津若松城の「鶴ヶ城」と『鶴亀』の仲です。

鶴ヶ城の支城として機能していた訳ですが、一国一城令の例外って結構ありますよね。

比高30m足らずの小さな平山城ですが、要所に石垣を使い、土塁や空堀も良く残っています。

しかし地味な印象が…案内板の城図によると本丸に天守は無かった様ですね。

整備されてからずいぶん歳月が経っているようで、(大手にまとめて標識が落ちてるし〜悪戯か?)

事情は色々あるでしょうが、再整備をして猪苗代湖、野口英世生家らの猪苗代名所に加えて欲しい

ですね。もったいないですよ〜遺構はお見事ですから。

会津戦争時に西軍の侵攻の速さに城代・高橋権太夫は猪苗代城を自ら焼き払い退却しましたが、

籠城していたらどうなっていたのでしょうか?そんな事を考えながら会津へ向かいました。

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                              『会津若松城(鶴ヶ城)』
 至徳元年(1384)芦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりといわれている。
その後、会津領主だった芦名盛氏が改築、現在の城郭の原形をつくりあげた(黒川城)
芦名氏を滅ばした伊達政宗の後、天正18年(1590)に蒲生氏郷が入城し、7層の天守閣を築
き、名前も鶴ヶ城と改めた。慶長3年(1598)上杉景勝、寛永16年(1639)会津地方を
襲った大地震により天守が傾いたが、加藤明成の手により現在の五層の天守閣に造りかえられた。
 寛永20年(1643)保科正之(徳川家光の弟)が封じられたその後は子孫の松平氏が代々居城
した。幕末の戊辰戦争時に西軍の攻撃に籠城戦1ヶ月、その名城振りを発揮したが開城。明治七年に
建物は解体された。昭和40年に会津のシンボルとして天守が再建された。 (パンフより)


有料駐車場として利用されている西出丸〜加藤明成が蒲生時代の馬出を拡張。
濠と石垣が美しいです♪
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帯郭の北西土塁上に建つ鐘撞堂〜会津戦争の時にも正確に刻を知らせ、城外で戦う兵士に鶴ヶ城の
健在を知らせていました。
あまりにも正確なので西軍もこの刻に自分の時計を合わせたエピソードも残っています。
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鶴ヶ城稲荷からの天守。鳥居と天守のツーショがいいでしょ(*^ー゜)b
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帯郭の管理事務所が建つこの場所は黒川城時代の西御殿があった場所。
そうです、ここが伊達政宗がお母さんに毒を盛られた場所なのです。
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昭和40年復元の天守〜天守台が11mで天守25m。計36mです^^
天守台は蒲生氏郷の築いた野面積み。
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鉄門と天守〜定番ですが、このアングルも美しい☆
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鉄門前の石畳は会津戦争中の怪我人手当場所にあてられました。
今も雨の日には石畳に血が浮き出てくるらしいです。ここら辺にそれらしき跡が…
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会津戦争時には戦死者が続出し、死体が井戸に積み重ったと言われますが、
ここがその井戸。手を合わせてきました。
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茶室・麟閣〜千利休の弟子だった蒲生氏郷が利休の死後その子・少庵を会津に匿っていました。
その時、少庵が氏郷のために造った茶室で会津戦争後は茶人森川善兵衛宅で大切に保存されて
いました。平成2年に移築復元され、500円で抹茶(お菓子付き)が楽しめます。
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天守最上階の赤い高欄。文献に「朱の欄干〜」とある事から元々赤かった事が判明。
復元の際に赤にしたのか、元から赤かったのか、ずっと気になっていたのです(;^ω^A
眼下の南走長屋と干飯櫓は平成12年復元で木造。総工費約7億円!ちゃんと赤瓦で葺いてあります。
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会津戦争で西軍が大砲を据えた小田山(矢印)を望む。
ここから毎日2500発あまりの砲弾が飛んできたのです。
眼下の芝生広場は本丸御殿跡。
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廊下橋から扇の勾配と言われる石垣を〜高さ約20mで城内最高の石垣です。
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最後に再び東北唯一の五層天守の雄姿を☆彡
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総評  ★★★★★ (私見 ★5つ)


会津戦争の哀しみを背負った鶴ヶ城は美しい。そして生きている気がします。

今回訪れて再確認したのは鶴ヶ城は会津人の誇りであり、心の故郷だという事。

以前TV番組で開城の本当の理由は、糞尿の臭気に耐えなれなったからと放送された事がありますが、

これに会津人が大抗議、訂正、謝罪させた話は有名です。いざという時の団結力が強い!

市の条例で天守より高い建物の建築が禁止されているので今も昔も天守が一番高い建物です。

赤い高欄の他に気になっていたのが七層の天守の話し。天守台の北に寄って天守が建っているのは

七層の天守台をそのまま使用して五層天守を建てたからとありますが、この天守台の大きさの七層

天守が建っていたとすると秀吉の大坂城天守より高くなってしまうのです。これを氏郷を煙たがって

いた秀吉が許可するか?…今も謎だそうです(;^ω^A

天守内に松平家の宝物が展示されていないのは、開城後にみな略奪されてしまったためだと…

名君・保科正之の資料も焼かれてしまったそうです。敗者は全てを失うのですね(ノ_<。)

西軍の攻撃に耐え抜いた天下無比の堅城、開城時内郭の建物は焼けもせず、崩壊もせず、全て残って

いたと伝わります。街中であの有名な天守の古写真を飾っているお店(大きな看板にしているお店も)

を何軒か見ましたが、開城こそしたが、お城は無事だったというアピールと、あの日を忘れないと云う

気持ち…やはり鶴ヶ城は会津人の誇りなのですね。

そう云えば日本全国お城は数多いですが、愛称で呼ばれるのは、この鶴ヶ城ぐらいですかね♪

正式には『会津城』です。

最後に色々な情報を教えて下さったボランティアガイドの大塚さんに大感謝です。

ありがとうございました。(_ _*)_ _*)
鶴ヶ城の外郭には土塁と濠が廻らされ、その内側は武家屋敷、外側は町人屋敷でした。

現在では土塁遺構が花春町に、16ヶ所あった門は町中に甲賀町口門跡のみ残されています。

三の丸濠跡も国指定史跡として米代十八倉橋の東に残っているそうなのですが、こちらは場所を

探し出せず断念しました。


天寧寺町土塁(会津若松市花春町126)

 この土塁は、蒲生氏郷が会津に入部し、文禄元年(1592)若松城の改築に着手した際に築造
されたとされ、若松城の追手として最重要地点であった。また、外郭と内郭を区画した若松城の
土塁遺構で、市内に現存するものは、僅かであり貴重なものである。国指定史跡(案内板より)

御楽園を左に千石通りを南下して行くと、天寧寺土塁が右にあります。
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L型に土塁が残っているのですが、高さ、幅もあり、さすが鶴ヶ城の外郭土塁と思わせます。
蒲生氏郷時代にはこの天寧寺口が大手だったのですが、加藤明成時代に北出丸・甲賀口に改められ
ました。
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甲賀町口門(会津若松市栄町275)

 この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍の屋敷とし、
外側を町民の住居としていた。郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠が廻らされていた様子
が今も偲ばれる。当時城下にはこのような門が16ヶ所あり、特にこの甲賀町口は大手門とし
て他の郭門より厳重な構えをとったとされている。国指定史跡(案内板より)

外郭16門中、唯一の遺構である甲賀町口門跡。
会津戦争では大手口のここが最も激しい戦闘の場所でした。会津軍必死の守備も破られ
西軍は武家屋敷域内に侵入。しかし堅固な内郭には一人も侵入出来なかったのです。
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東側の石垣のみが残ります〜打ち込みハギが見事ですね。
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甲賀町口門跡を南下すると鶴ヶ城北出丸の大手門に至りますが、その前に西郷邸跡、白露庭、
そして会津戊辰戦争終結の地があります。


西郷邸跡(会津若松市追手町1−5)

鶴ヶ城北出丸から真っ直ぐ伸びる甲賀町通りに会津藩筆頭家老・西郷頼母屋敷がありました。
西郷は恭順派だったために蟄居を命じられていましたが、西軍到来で禁を破って入城。
残された女子・子供ら一族21人は味方の足手まといになるまいと集団自決。
「なよ竹の風にまかする身ながらも、たわまぬ節はありとこそきけ」〜頼母の妻千恵子の辞世
その後、屋敷に突入した土佐藩の中島信行らはこの惨劇を目にして唖然としたと…

会津戦争のドラマでも涙を誘うシーンです…(ノ_<。)
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会津戊辰戦争終結の地(会津若松市東栄町8−7)

 明治元年9月22日、会津藩は午前10時、白布を縫い合わせた白旗を揚げて降伏を申し入れ
ました。そしてこの日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎等を迎え、会津降伏式がこの
甲賀町通りの路上で15尺四方(約4,5m)の緋毛氈(ひもうせん)を敷いて行われました。
そして松平容保・喜徳親子が謝罪状を呈上し、会津戊辰戦争は終結しました。
 会津藩士はこの日の屈辱を生涯忘れまいと、この緋毛氈の一部を切り取って、おのおの懐中深く
持ち帰ったと言われています。後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深くに刻み込ま
れる事となりました。(案内板より)
会津酒造歴史館の脇に案内板があります。
容保公をはじめ会津の人々にとって一番悔しい瞬間がこの降伏式だったのでは…
天使さまのために一途に働いた会津藩なのに…あ〜考えるだけで熱くなって来ますよ。
この後、会津人は賊人の汚名をきせられ生きていく事になります。
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降伏式の錦絵。会津に来ていない西郷さんも描かれているのですが…
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上の錦絵にも描かれている「泣血氈」は今も残っていて鶴ヶ城天守に展示されているとの事。

しかし、私達が訪れたこの日は展示されていませんでした…なんてこったぁ(ノ_<。)

緋毛氈の赤は会津の血と涙の色…かなり会津にハマっている私達です。

御三階、外郭遺構ときましたので次回は鶴ヶ城をUPしますので、宜しくお願いします(*^-^)
                「御三階」
 江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。
外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。3階に
上がる梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密議所
に使用されていたと思われます。また、本丸東北の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見
や展望台の役目を果していました。戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために、長く本堂として使
用されてきました。玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構とし
て現在残る貴重な建物です。(案内板より)

鶴ヶ城・御三階(会津若松市七日町4−20・阿弥陀寺)


御三階は七日市駅近くの阿弥陀寺に移築現存しています。
あくまでも「御三階」で「御三階櫓」ではないのでこんな感じ。
イメージ 1



この玄関部分は移築の際に大書院表玄関が付けらました。
御三階内部の階段はうぐいす張りなのですが、残念ながら非公開(ノ_<。)
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こちらは元あった場所〜鶴ヶ城本丸。
実は御三階は明治の取り壊し前に阿弥陀寺さんに貸した物だそうですよ。
本堂などが会津戦争で燃えてお葬式も出来なくなったので、再建するまでの間お願いします…と。
鶴ヶ城側としては移築復元したい意向なのですが、阿弥陀寺さんとの話し合いや移築費用の問題等
色々あるらしいです。
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会津戦争・東軍墓地

阿弥陀寺は会津戦争の東軍戦死者1281体の埋葬地でもあります。
9月22日の戊辰戦争集結後、西軍の命で放置され、触るのも許されませんでした。
(西軍戦死者は戦争中に陣地である融通寺に葬られていた)
会津の人々は烏につつかれたり、野犬に食べられたり、腐敗していく戦死者を指をくわえて
見ているしかなかった…
幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのが翌2年2月の事。
埋葬地は長命寺とここ阿弥陀寺に限られ許されたのです。
しかしあくまでも賊軍としての埋葬で「戦死墓」の文字以外は許されなかった。
この話はいくらなんでも酷すぎます…(ノ_<。)
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御三階は移築の時に現在の外観に改修されたのかと思ったら、絵図に描かれている姿と同じで、

初めからこの外観だったのですね。

いつかは鶴ヶ城に里帰りする日が来るのでしょうか?

阿弥陀寺にはこの他、新選組の斉藤一の墓もあります。この日も何組かの観光客が

斉藤一のお墓参りに来ていました。さすが新選組、その人気は今だに高いです♪

実は私達も新選組のファンです。  

新撰組関連記事はまとめて後日UPしたいと思っているのですが…(;^ω^A

東軍の墓地にお参りしたので次は東明寺にある西軍の墓地へ


会津戦争・西軍墓地(会津若松市大町2丁目・東明寺)

こちらは市内大町にある西軍墓地。戊辰戦争で戦死した薩長ら150人が眠っています。
敵方を埋葬した会津武士の心意気が素晴らしいです!
会津には東軍・西軍と出身地に関係なく数多い戦死者の地がしみこんでいるのです。
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会津戦争から今年で140年。

たった140年前の事か、140年も昔の事か…戦争と云えば会津人は戊辰戦争を指します。

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                            『神指城』
 慶長5年(1600)120万石を領する時の会津藩主上杉景勝は、石田三成と力を合わせて
徳川家康を討とうとしたが、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築
くことを計画、家老直江兼続の指揮のもと12万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせた。
しかし関ヶ原の戦は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。それ以後、この城は廃城
となり現在にいたっている。
 城の規模は本丸が東西180m、南北306m、二の丸は東西468m、南北522m 。
土塁は10m、濠には大川と湯川の水を予定していた。完成していれば巨大な方形館タイプの平城で
あった。(案内板より)


田んぼの真ん中に残る神指城。
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濠跡も田んぼになっています。
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神指城の石垣基礎石〜案内板によると「本丸にあったものを昭和58年にここに移した」と。
本丸は総石垣造りだったそうです。石は東山町の慶山石切山から二里の間に人夫を並べ、手送り
で運んだと云われています…これは大変。
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上杉景勝の築城以前からここにあった高瀬の大木(ケヤキ)〜天然記念物です。
本物の直江兼続の顔を見たことあるケヤキさんです^^
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土塁上はこんな感じ〜東屋、案内板、高瀬の大木があります。
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田園風景の向こうに会津磐梯山を望む〜会津磐梯山は宝の山よ〜♪
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新撰組殉難地で有名な如来堂も神指城域内〜戊辰戦争で斉藤一が奮戦した地です。
高瀬の大木からかなり離れていますが、巨大な神指城域から考えると納得。
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総評 ★★★☆☆  (私見 ★3つ)


上杉景勝の夢の跡・神指城です。総監督は来年の大河の顔・直江兼続♪

「天地人」の幟はまだ立っていませんでしたが、来年には観光客が大勢やって来るのでしょうか?

鶴ヶ城は山が近くて守備に不利、それに120万石の太守の城としては手狭なため、

この神指築城を始めるのですが、その読みは戊辰戦争で鶴ヶ城が小田山から砲撃にさらされた事で

的中します。凄いですね〜大当たりです。

関ヶ原が終わり上杉景勝は米沢に移封されるのですが、精魂込めて築城した神指城の完成を見ずに

放置して去っていく胸中は…(ノ_<。)

翌、慶長6年(1601)破城され、石垣は鶴ヶ城の修復のために持ち運ばれました。

切り出した山が同じなのでそれまでの鶴ヶ城の石垣との区別は難しいらしいですよ。

一般に神指城跡と云われている高瀬の大木がある所は二の丸跡で、本丸跡も残っているらしいの

ですが予習不足のために何処だか全然分かりませんでした(;^ω^A

現在、神指城の周りは一面田園でここに鶴ヶ城を凌ぐ巨城を想像する事は難しいです。

だって鶴ヶ城が素晴らし過ぎたので…(;^ω^A

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