『二本松城(霞ヶ城)』 二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴代の居城とし て、140年余り続きました。 その後天正十四年(1586)伊達政宗の南奥制覇のために落城しました。 豊臣時代になると二本松城は、会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道) 警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころ だと推定されます。 その後、徳川時代初期も会津領として、上杉氏・蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。 とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認されました。 二本松藩が誕生した寛永二十年(1643)、初代藩主丹羽光重が十万七百石で入城し、幕末まで 丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・ 家中屋敷のすべてを焼失し、慶応四年(1868)7月29日に落城しました。 真夏の炎天下で標高345mは厳しいと思ったていたら、山頂(乙森駐車場)まで車で行ける事が わかり助かりました。その途中、土塁らしき遺構を発見。 本丸〜さほど広くなく天守曲輪と呼んだ方が良い感じです。 平成5年8月から石垣の全面修築、復元工事をして平成7年6月に完成しました。 (約5億3千万円かかった)後ろは天守台石垣(天守があったかは不明) 枡形虎口と東櫓台〜市内が一望 本丸西側石垣〜奥は天守台 本丸東側石垣 本丸下南面大石垣〜慶長期の造営で城内で最も古い石垣の一つです。 写真だと良く分かりませんが崩壊防止のためかネットが張られています。 〜本丸の散策を終えて山麓へ 山麓の三の丸景観〜丹羽氏時代から山頂の本丸から政務の場所が移りました。 箕輪門〜思ったより実物は巨大で立派。 丹羽光重建造の二本松城正門で、城下箕輪村山中にあった樫の大木を主財としていたのでこの 名がついた。戊辰戦争により灰と化したが再建の声高まり、余年の歳月と2億の費用を投じて 昭和57年8月に完成を見た。 城内側から〜ちなみに左の二重櫓はかつては存在しなかったものです。 二の丸御殿跡〜今は二本松菊人形展の会場で10月開催なのにもう設営が始っていましたよ。 先心亭(県指定重要文化財)〜城内に残っている唯一の建造物 木造萱葺き・寄棟平屋造りの茶亭で17世紀中に創建されたと思われる。 一時城外の移築で戊辰戦火を免れ、明治40年に再移築された。市に申し込めば茶会などで利用できるみたいですが、貴重な建物を貸していいんかいな? そして忘れてならない箕輪門前の二本松少年隊の銅像〜女の子二人組が熱心に写真撮影してました。 慶応四年(1868)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、 城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止む なく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣、七月二十九日、城内への要衝・ 大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城 した。 この二本松少年群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・ 直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。 なお、この地は、「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士も ここからそれぞれの守備地に出陣した。ここにも戊辰の悲劇が… 山頂が小規模ながら総石垣の本丸で、とにかく眺めが素晴らしく『ミニ天空の城!』と勝手に命名しま した。安達太良の山々も良く見えますよ。 各時代の石垣が残っているのですが、特に本丸から一段下ったところの『本丸直下大石垣』・ 『天守台西直下ニ段石垣』は必見ですよ。レンガを寝かせるようにして積んだ布積みが見れます。 しかしこの時期は草ボウボウで良く見ないと、どうなっているか分からないのですが(;^ω^A 山麓の石垣も壮大で復元された箕輪門、塀、平櫓、模擬ですが二重櫓とマッチして 素晴らしい景観です。そして山麓から山頂の城郭全体を遠くから眺めると実戦を経験したお城の 凄みを感じます。鶴ヶ城、仙台城らと比べるとマイナーですが実際訪れてみると同等の魅力が あると思いました。さすが100名城に選定されたお城です♪
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