旦さまと私

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お城散策(群馬県)

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旦さまと群馬県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 永禄四年に武田信玄が安中城松井田城の間を分断するため築いた陣城。当時松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成親子は、箕輪城主長野氏に属し、武田信玄と戦いを交えていた。(八幡平首塚案内板より抜粋)

 
八幡平陣城の東にある梁瀬二子塚古墳が目に入ります。高さ的に物見に利用
された?
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最初見た時はハゲ山に無数の何かが刺さっている??もしやニョロニョロが
いっぱいいる??と驚いたら竹でした
昔は竹藪だったようですが伐採。しかし恐ろしい生命力、再び生えてきたのですね。
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↑古墳の西隣は梁瀬八幡平の首塚 
元は円墳で昭和6年ここの石室外側で戦国時代の下顎のない頭蓋骨が150体分発見されました
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梁瀬八幡平首塚とは… 
調査の結果、古墳の石室の外側に約150個分に相当する頭骨が山と積まれ、その上を天明3年(1178)の火山灰がおおっている事が解った。不思議な事には頭骨には下顎がなく、四肢骨も発見されないところから多分どこか別の場所に埋葬されていたものをここに仮葬したものと推定される。これらの頭骨を人類学的に研究した所、今の日本人に比べて長頭・短顔・広鼻で鼻の付根が低く、中世の日本人の特徴を示している。これらの人骨には刺創もあるところから考えて恐らく戦国時代に近くの城が陥落する際の犠牲者と考えられるが、当時遺体をまとめて埋葬したものを江戸時代中期又はそれ以前に村民によって偶然発見されここに改葬されたものと思われる。この首塚がいつ誰によって造られたかを示す史料は残されていないが、永禄4年(1561)武田信玄がこ付近一帯に八幡平陣城を築き、安中城と松井田城の間を分断した。当時松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成親子は、箕輪城主長野氏に属し、武田信玄と戦いを交えていた。この首塚は安中市の中世を物語る移籍であり、首塚で出土した人骨は貴重な人類学上の資料である。
(案内板より) 
 
 
このお堂の中に今も150余りの頭蓋骨が埋葬されている…? 信玄公が落とした
お城の犠牲者と思わす感じ。
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案内板によると発見者はお墓参りに来た小学生。まさかの頭蓋骨発見にメチャ
クチャ驚いたでしょうね。でも発見って地上に頭蓋骨の一部が出てたのかなぁ?
もしるなが発見者なら一生うなされそう…怖い、怖い
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首塚から古墳を見る。
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さてさて肝心の八幡平陣城の現状を首塚から見てみましょう
群馬の古城』によると陣城は南面が崖で残り三方を堀に囲まれた縄張。
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しかし現在は好評分譲中
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この辺りが陣城跡の曲輪の中心部にあたるのかと…
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

安中市には中世城郭が沢山あるのでチョイスに迷ったのですが、ミーハーのうちら
 
武田信玄公陣城は外せないでしょうと 信玄公の知名度を優先(^-^ゞ
 
東から「古墳 首塚 陣城」と並んでいるのですが異様なハゲ山に何かが刺さってい
 
る!?と思った不気味な姿の梁瀬二子塚古墳落城で犠牲になった150体の頭
 
蓋骨が埋葬されていた梁瀬八幡平首塚と、共にインパクトあり過ぎの史跡並びの
 
八幡平陣城宅地開発で消滅のようす。宅地のため私有地が多く細かくは散策
 
不可能 現在も分譲中ですが購入者さん達はすぐ目の前の首塚の事は気に
 
ならないのかなぁ? でもそんな事言っていたらめる場所が限られる??ってか。
 
まぁ大きなお世話なのですが、気になったので。

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 永禄2年(1559)安中忠政によって築かれたのが始まりと伝わる。武田信玄の上野国侵攻に備え、忠政は松井田城に入り、安中城には嫡子忠成を城主にして防衛ラインを築いた。信玄は中継地点の八幡平に陣城を築きラインを分断し永禄7年(1564)安中、松井田両城は落城。忠政は自決、忠成は許され武田家に仕えるが天正3年(1575)、長篠の戦いで討ち死にすると安中城は廃城となった。その後城跡は耕作地となっていたが慶長19年(1596)に井伊直勝が3万石で安中藩を立藩し、城も再整備され、以後、堀田氏、板倉氏、内藤氏、板倉氏と藩主が代わり明治維新を迎えた。

安中城図 新島襄旧宅、郡奉行屋敷役宅で500円で販売しています。
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本丸跡には体育館、文化センターが建ちます。
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坂下門跡横の堀跡は耕地に       九十九川を背に悲しい八重が淵の碑門跡の標示板はありませんでした。     手を合わせて来ました。
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太郎兵衛屋敷の櫓台跡                 櫓台上は耕地
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東門跡番所跡では枡形が確認出来ます。
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築城時に鬼門として勧請された熊野神社
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この門は移築門と伝わります
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西光寺北側の土盛りは土塁跡?         町口門番所跡
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大泉寺にある井伊直勝の墓所と井伊直政安中初代藩主直勝の母)の墓所
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電気屋さんの前でかくれんぼ?する標示板。 安中城址見ぃつけたぁ〜
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大手門入口 ほとんど文字消えてますが…入口って、ここ大手門跡と違うやんけ。
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太鼓櫓跡 これも文字が読みずらい…
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安中観光でここは外せないっしょ 武家長屋
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そして郡奉行屋敷役宅
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安中はマラソン発祥地
15代藩主・板倉勝明が藩士の心身鍛錬のため碓井峠まで走らせた安政の遠足
日本初のマラソンと言われています。
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

戦国時代に築かれた安中城ですがその後、廃城期間があって江戸時代初期に
 
再び構築されました。再構築された安中城は絵図を見ると天守はむろん、櫓の類も
 
なく広い陣屋な感じかと。現在は本丸、二の丸には公共施設が建ち、他の曲輪も
 
宅地化等で消滅。じゃあ何を楽しむの??それは数多くある「○○跡」立て看板
 
探し でも朽ちて文字が読めないものも多いのですよぉ新島襄旧宅を観光
 
目玉にするのは良いのですが 安中城にも少し目を向けてくださいね〜安中市さん
 
 せっかく襄・城ヒストリーマップ作ったのだから。このパンフに記載されている
 
安中城址ヒストリートを辿ればOK!観光施設や文化センターに置いてあります。
 
坂下門跡(かつては標示板あり)の横に八重が淵の碑がありますが、新島襄ゆか
 
りの地だけに新島八重さんの事と勘違いしそう。こちらの八重さんは4代藩主に仕
 
えた美しい女中さんで、殿さまからの寵愛を妬んだ他の女中さんから無実の罪をき
 
せられ、その結果殿さまに生きたまま蛇やムカデなどと共に瓶に入れられ九十九川
 
の淵に投げ込まれてしまったと云う悲しい伝説(足軽新之助さんのブログ参照)で
 
す。元あった場所は18号バイパスになり現在地に移転。このバイパス工事の時に
 
事故が続けておき、八重さんの祟り?と噂になったそうです。
 
熊野神社の門は専門家の検証はされていませんが城門だと言われています。
 
いつも思うのですがこのような伝・城門の言い出しっぺは誰??口裂け女の最初
 
の目撃者を探せ!的ですが(笑) 
 
これと言った遺構はありませんが、かつての堀に沿った道路○○跡標示板、徳
 
四天王・井伊直政室の墓所、伝・移築城門、武家長屋、郡奉行役宅等、結構
 
楽しめた安中城跡散策でした。

 鎌倉時代の治承間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏 を称した。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546)の河越夜戦で戦死。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。永禄年間に後北条氏が上野国を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。しかし上杉謙信が永禄3年(1560)に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と上杉に従っており、倉賀野城も上杉方となった(『新編高崎市史』)。倉賀野城は上杉方長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていたため、永禄4年(1561)には甲斐の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565)に落城した。倉賀野尚行も謙信を頼って越後に逃れた。元亀元年(1570)武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、秀景は滝川一益に従ったがが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の時、秀景は小田原に籠城する。結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。(Wikipediaより)

 
 
倉賀野城本丸跡雁児童公園になっています。
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立派な石碑
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公園から見下ろすと曲輪跡らしきところが…?
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本丸跡から烏川を望む〜キラキラ
江戸時代には河岸が整備され中仙道の倉賀野宿近くのため賑わいました。
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二の丸跡に鎮座する井戸八幡神社
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二の丸と三の丸間の堀跡と思われる道
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永泉寺(高崎市倉賀野1043)は出城跡と云われています。
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出城跡と聞くと不思議なもので溝が堀跡に、土盛りが土塁跡に見えてしまいます
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境内には倉賀野城主・金井(倉賀野)淡路守秀景のお墓。
ここ永泉寺は天正元年(1573)秀景の開基。秀景の在籍した倉賀野十六騎
地元では有名らしくお祭りも開催されています。
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参勤交代の途中で亡くなった加賀藩の御典医森良斎の灰塚もあります。
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養報寺(高崎市倉賀野1832)の山門
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文字が読めませんが… 調べてみるとこの山門↑は倉賀野城の鬼門除け
として秀景が天正4年(1576)に建立したそうです。現在の山門は改築された
もの。移築門かと思ったら違うみたい
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ) 

 でっかい烏川を下に臨む断崖上に築かれた倉賀野城はその重要性から北条、
 
武田、上杉の三つ巴の戦いに巻き込まれ、忙しい歴史を持つお城。
 
北は倉賀野駅から南は烏川までが城域なので、かなりの規模を誇ったようですが、
 
現在は宅地化して遺構はほぼ消滅。しかし痕跡くらいは辿る事が出来ますよ。
 
本丸跡の雁児童公園に石碑、案内板があり、ここからの烏川の流れは絶景。
 
二の丸跡の井戸八幡神社にはこのような伝説が…
 
正保3年(1646)すでに廃城になっていた倉賀野城三の丸跡の古井戸から
 
突然水が噴出しその中から八幡大神が現れました。この事を高崎城の殿さま
 
に報告したところ八幡さまを御神体として祀るように云われ、二の丸跡に井戸八
 
幡神社が造られたそうです。
 
井戸は三の丸にあったのに神社は二の丸に造られたのがヤヤコシイなぁ
 
倉賀野と言えばヒムロック(氷室京介)が倉賀野高校出身なので、昔この辺り
を闊歩していたのかな 

 藤岡市街地の中央にある方形単郭城郭で徳川家康の武将・芦田(依田・松平)康貞が天正18年(1590)8月に3万石でここに封じられ、11月に築城を開始、翌4月工事半ばに入城。家康の子・松平忠輝は改易後この城に籠居させられた。康貞は慶長5年(1600)春、囲碁の争いから小栗三助というものを刺殺して改易となり廃された。(日本城郭大系より抜粋)

 
 
藤岡城要図(日本城郭大系より) 赤線部分が現存土塁
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巨大な土塁だぁ。手前は濠跡
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内側です。
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別名・芦田城 城主が芦田さんだから芦田城
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土塁上への階段。
誰かの像があるぞぉ〜
藤岡小学校建設時に藤岡城跡の土地を寄付した井元たいさんの銅像でした。
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土塁上は遊歩道になっています。
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土塁上からの眺め。
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土塁の隅は櫓台
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

藤岡城藤岡小学校の敷地となっていますが、かつての方形単郭城の北部の
 
土塁が残っています。この土塁は高さも幅もあって単郭でも堅固であった事が
 
偲ばれますね。案内板はありませんが土塁上に上る階段横に芦田城址のプレ
 
ートがあります。芦田と聞くと〜マルマルモリモリ〜♪芦田愛菜ちゃん
 
千姫を演じていたし、もしかして子孫さん? 映画のぼうの城にも農民の娘役
 
で出演しています。
 
芦田康貞(実名は諸説あり康寛とも言われている?)一代、約10年の短命
のお城ですが、その原因が囲碁のトラブルによってだとは…
康貞が大坂で徳川家康の家臣・小栗三介と囲碁をしていた時の話。
何度勝負しても康貞に勝てない三介。悔し紛れに康貞に向って、
「兄のお古をもらって、満足しているような者の気が知れない。」
と、バカにした言葉をはきました。
兄の戦死によって家督を継いだ康貞ですが若くして未亡人になった兄嫁を
不憫に思い夫婦となっていたのです。
(小諸城主で兄の康国はその戦功から家康の康と松平の姓を貰った人)
思慮深い康貞もこの一言で堪忍袋の緒が切れ、三介を斬ってしまいました。
この罪で芦田(松平)家は取り潰し、藤岡城も廃城に。参考〜立科町HP
 
これはあきらかに小栗三介が悪い…でもケンカ両成敗かぁ
 
こんな切ない歴史のある藤岡城なのでした…
 
 
 

 江戸幕府の将軍家徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれます。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。(尾島かるたより)

     
詳しい地図で見る
徳川家康曰く「ご先祖さまの館跡じゃ〜徳川氏館跡です。東照宮が鎮座。
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徳川の祖・徳川義季公館址の標柱
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16代徳川宗家当主の徳川家達御手植え樹
ご先祖さまの故郷に記念樹とはさすが亀之助くん
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地味目な東照宮社殿。まぁ近くの長楽寺に立派な東照宮があるからね。
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鳥居横に徳川氏発祥の地〜の「尾島かるた」  何気に家康さん似てます
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館跡周辺は畑。すぐ南が縁切り寺で有名な満徳寺
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満徳寺の再建本堂
鎌倉の東慶寺(さだまさしの歌「縁切り寺」の舞台)と並んで世界に二つだけの縁切り寺でした。
徳川幕府に庇護されていましたが明治に廃寺。現在の建物は再建されたもの。大坂落城後に千姫
がここに入寺し、お努めの後に本多忠刻と再婚しました。また江戸に降嫁した和宮さまは実は偽者
(替え玉)で本当の宮さまはここで尼さんになった伝説もあります。資料館が面白いよぉ
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新田さんから家康さんの流れをもう一度家系図で復習
新田義貞さん義重の長男・義兼(この図には出てませんが)の末裔。
家康さんの自称ご先祖さま義季は4男坊です。
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もちろん太田市世良田・尾島のウリは徳川発祥の地ネ。
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総評 ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

新田義季父・義重から拝領した徳川(得川とも書く)の地に構えた館跡です。
 
現在は東照宮が鎮座しています(ご先祖さまの土地に東照大権現ねぇ
 
館の遺構等はありませんが、標柱と尾島かるたの説明文があるが嬉しいです。
 
さてさて〜徳川家康さんって本当に新田さんの末裔なのですかぁ?
 
世間ではウソウソって言われていますが…
 
将軍になりたいから源氏の新田氏末裔と自己申告したの?
 
でも何で源氏じゃないと将軍になれないのかなぁ?信長は平氏だけど「将軍にして
 
あげようかぁ?」って言われたような気が…このへんの話はよく分からないので
 
まぁ〜真実はさておき 「徳川発祥の地!」このブランドには心惹かれますよね。
 
そしたら行かなきゃ!徳川氏館跡(笑)
 
もちろん芦田愛菜ちゃんが演じて注目されているゆかりの満徳寺もね。
 
周辺は新田、徳川の関連史跡がいっぱいでファンには夢のような土地!?
 
 
 

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