旦さまと私

るなと旦さまの歴史バラエティブログ+音楽+美味しいもの

お城散策(埼玉県)

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旦さまと埼玉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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河越夜戦の古戦場として有名な東明寺(埼玉県
川越市志多町13−1)

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河越夜戦とは…
天文6年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢8万余騎をもって、同14年10月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか3千で立て籠もっていたが、翌15年にはすでに食糧も尽きて非常な苦戦に陥いっていたところ、北条氏康が8千騎を率いて援軍として駆け付け、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。(案内板より)

そして『川越 東明寺』でネット検索すると…
「境内には「河越夜戦跡」の石碑がある。また、将兵の遺骸を納めた士塚や大銀杏が今も残っている。河越夜戦は「東明寺口合戦」ともいう。」(Wikipedia)

「境内には川越夜戦跡の石碑や富士塚があります。かつて広大な寺領を有していた東明寺は川越夜戦(東明寺口合戦、天文の夜討などという)の激戦地跡と伝えられます。境内からはたくさんの骨が発掘され、その遺骸を納めたのが境内の一角にある富士塚です。」
…などが出てきます。

ここで気になるのは兵士の遺骸を埋めたという
富士塚』 
今まで何度か東明寺を訪れていますが、この富士塚を見た事がありませんでした 気がつかなかったのかなぁ
しかし富士塚の画像検索しても一枚も出ないのですよ!
謎だぁ。もし見つけたら大スクープ!?俄然張り切る旦さま

と、言う事で今回は境内にあると云う富士塚
探しに東明寺


どこにあるのかなぁ〜
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石碑の裏に説明があります。しかし富士塚の記載ナシ。
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夜戦を目撃したと思われる大銀杏
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う〜むやっぱり見つからないなぁ 絶対見つけるぞぉ!と
気合いを入れたきた旦さま、マジ焦る
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これは?古い宝篋印塔が…
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結局この日も見つけられず…
旦さまが境内から東明寺さんへ電話したのですが留守
で場所を聞くことが出来ませんでした。

どうしても富士塚の場所が知りたい(諦めが悪い?)旦さま。後日東明寺さんに問い合わせしてご住職さんからお話しを
聞くことが出来ました。

結論…富士塚…現在はありません
かつて広大な境内だった東明寺さんですが明治になり土地を政府に奪われ、以降だんだんと縮小、現在の広さに。昭和初期まで富士塚は確かにあったのですが、そこは奪われた寺域。なのでその場所が宅地になる時に残念ながら塚を守ることが出来なかったそうです。ちなみに富士塚があったのは現在の稲荷社後方の宅地だそうです。ご住職さんありがとうございました。)

どうりで富士塚の画像が1枚もないわけですね
境内の案内板、石碑裏にも記載ないし。

間違ったネット情報にご住職さんも困惑気味。間違いは正さなきゃ!正解は…
かつての境内に富士塚はあったが現在は宅地となり消滅。
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最近じゃ河越夜戦は夜戦じゃなく昼間だった説(大軍だったの

に昼間負けたのはカッコ悪いと思った関東管領さんが北条が

夜襲と云う汚い攻撃をして来たので負けてしまったぁ〜との言

い訳にした)もあります。

以上、河越夜戦跡・東明寺の富士塚の話し〜ネット情報は

間違い〜でした。




















埼玉県川越市にある江戸城移築建物遺構と云えば

喜多院(紅葉山御殿)が有名ですが川越総鎮守・氷川神社

主祭神・素盞鳴尊・すさのおのみことには江戸城二の丸

あった東照宮が移築されています

氷川神社(埼玉県川越市宮下町2−11−3)
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氷川神社境内にある八坂神社の拝殿(後方)江戸城
東照宮遺構なのですが…修理中やんけ
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「寛永14年(1637)、三代将軍徳川家光が江戸城二の丸に東照宮として建立。後に空宮となったので明暦2年(1657)川越城三芳野神社外宮として移築された。さらに明治五年、氷川神社境内に移され、八坂神社の社殿とした。江戸城内の宗教的建造物の遺構であり、全国唯一の貴重な社殿である。」
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おもいっきり修理中の元東照宮
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思ったより小さいなぁと思ったら移築の際に縮小されたそう
です
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細かい彫刻もありますね。近くで見れないのが残念
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あい鯉みくじ 最近は趣向を凝らしたおみくじ多いですね。
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人形流し 厄払いかな。
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三度息を吹きかけて、身体に撫でつけて〜
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「祓えたまえ、清めたまえ」唱えながら〜流します 
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かつて徳川家康が祀られていた東照宮ですが現在の神さま

は素盞鳴尊(すさのおのみこと)。言い方を変えると家康の

住んでいた中古物件に素盞鳴尊が住んでいる?…家康が

神である事を実感

しかし訪れたらまさかの修理中。川越は比較的近いので修理

終わった頃に再訪しなきゃネ。

江戸城二の丸東照宮が川越にあった〜記事でした
                     

今年の1月と古いネタになりますが埼玉県狭山市の狭山

市立博物館で開催された『城山砦と鎧展』に行って来ました。
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こちらが狭山市柏原にある城山砦ね。
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城山砦の資料と鎧が主な展示物なのですが城山砦の堀
が再現されていました
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これは凄いやぁ〜と見とれていると足軽大将「お前も城攻めに参加しろ」と言って来ました。
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よし、ここで武功をあげて出世するぞぉ。変身!〜久々に
弱っちそうな足軽登場(むろん甲冑体験コーナー)。 
城山砦を攻め落とすぞぉ〜
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えいっ!とりあえず仲間を槍で刺してみた。ぎゃははベタな
ギャグを
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堀の深さは城内の土塁上から5m20㎝。地面から3m。お隣
さんの槍は5m40㎝なので城兵に届くのだ。城兵は身を乗り出さないと鉄砲を撃てません。
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しかし身を乗り出すと後方の援護射撃兵に撃たれてしまう
のです。お互い命がけ
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しかも城兵が堀底にいる兵を倒せば倒すだけ死体で堀が
埋まり攻め易くなると云う=攻め手が死体に乗っかって戦う
って意味ですよね…戦国時代はやっぱり非情です
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こうした体験型の展示物は分かり易くいし、楽しくて良い

ですね。攻め手の気持ちにもなれたし

開催期間中にアップ出来ずに申し訳なかったです


城山砦のジオラマも良かったですよ。
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鎧展示の方はまた別の機会にアップしますので。


撮影OKだったので、いっぱい撮ってしまったぁ



前回、徳川家康の寝衣が残るお寺として大聖寺(埼玉県越谷

市相模町6−442)紹介しまし大聖寺には北条氏関連

のお宝もあるのです

大聖寺(当時は不動院)ある越谷岩槻城の支配領で

城主は長い間太田氏でした。太田氏資戦死後、一時期

北条氏繁が城代でした(玉縄城が本城なので)。その氏繁

大聖寺に出した掟書(北条氏繁掟書)が残っているのです


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北条氏繁掟書の案内板。長い間太田氏と深い関係のあった岩槻、越谷地域の土豪たちは北条氏の進出に対して不満があり、大聖寺もその一勢力でした。
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これが北条氏繁掟書(元亀3年) 「大聖寺は岩槻城の祈願所として諸役を免除してやってたのに近頃北条に対して、共に戦おうと誘ってくる輩がいるそうだな。けしからん!以前同様に岩槻城の武運長久の祈願を勤めよ〜」こんな感じの
内容。
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書状入れも豪華で貴重
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これは北条氏繁内室が使用していた珊瑚で出来てる日課
念珠女子力の高い逸品ですよね。内室と言っても正室
なのか側室なのか不明だそうです。むろん名前も不明
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こちらが本物のなでぼとけ
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境内にある団子屋さん〜虹屋
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メニューはこちら。
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よもぎ草餅を購入。実は人気店だったらしくこの3本で最後
でした。よもぎの香り高く、甘さ控えめの餡子との相性抜群
今度は生醤油だれを食べたい!
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北条氏、徳川家康と前後支配者のお宝を拝見と言う貴重な

体験。ご住職さま、ありがとうございました。

美味しい団子も食べられたし本当にラッキーな日でした


時々買い物に行く越谷イオンレイクタウンの近くにある

大相模不動尊・大聖寺徳川家康の寝衣があると

知り行って来ました

大相模不動尊・大聖寺(埼玉県越谷市相模町6−442)

 真大山大聖寺は、真言宗豊山派の寺で、ご本尊は不動明王です。寺伝によると、天平勝宝2年(750)に奈良東大寺の開山で知られている良弁僧正が自作の不動明王を祀って開基されました。中世には不動院と称し、岩槻城主太田資正や北条氏繁等の篤信を受けて栄え、天正19年(1591)当山に宿泊された徳川家康から寺領60石を賜り、このときに現寺名の「大聖寺」に改めたと云われています。
慶長5年(1600)に、下野小山(栃木県小山氏)から引き返して、関ヶ原へ向かう途中、戦勝を祈願して太刀一振り寄進したと伝えられています。当山は明治28年7月の大火災の際焼失し、境内山門が唯一焼け残りました

大聖寺山門 文化元年(1804)に再建。大聖寺は明治28年に大火に遭い伽藍を焼失。唯一焼失を免れた建物。大火に
遭ってなければ間違いなく関東三大不動尊だったと云われて
います。
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寛政の改革・松平定信筆と云われる額
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なでぼとけ とりあえず頭が良くなりますように
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本堂横に案内板ありました。夜具…?布団??じゃない。
やっぱり今で言うパジャマですね。へぇ〜見たいなぁ、見たい でも非公開っぽいなぁ…
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本堂  中に飾ってあるのかと覗いたけど良く分りません。
誰もいないし…
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諦めて帰ろうとした時に本堂横のあるおみくじ売り場に
人がいるのを発見。おみくじを引くついでにダメ元交渉じゃ
もちろん交渉人は旦さま
「あの…家康の寝衣って本堂に中にあるのですか?」
「そうですよ。」
「貴重なものなので非公開ですよね?見せてもらうのは
やっぱり無理ですよね??」
「見たいですか?」
「(きっぱり)はい、はい。見たいです!」
「分りました。住職に言ってみますね。」

結果は…
拝見させて頂く事が出来ましたよ。しかもご住職さんの
説明付き本当にありがとうございました。

本堂の奥に寺宝展示室。
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天正18年(1590)関東に入国した家康は、領国の民情視察や家臣団の統制を兼ね鷹狩りをしながら各地を巡遊しました。この時の家康休泊所は、在地の土豪層や社寺がこれに当てられました(鷹狩御殿が出来たのはもっと後なので)。
寝衣は、大聖寺に宿泊したときに、接待のお礼として拝領したものと云われてます
これが徳川家康の寝衣。あれ…写真パネル?
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こちらが本物 以前は広げて展示してたそうですが
だんだん朽ちてきてこれはイカンと。今は畳んであります。
絹の表地と裏地が残されていてますが元は真綿が詰めら
れていたと考えられています。
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家康時代の初期三つ葉葵付き。寝巻き持参の鷹狩りだった
んですね。枕が変わると寝れない人いるけど枕も持参して
いたのかなぁ?
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湯呑碗 すごく薄くなっていますが三つ葉葵付きなのです。
何度か通うにようになると家康は住職・定伝と昵懇の仲に。
家康…「良い名前考えたから寺名を変えちゃいなよ」と。
それまでの不動院から大聖寺に改名
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関ヶ原の戦いの先勝祈願で家康が奉納した太刀
小山評定後、江戸に引き返す途中にひどい大雨に遭い、家康の兵は大聖寺に立ち寄りました。この太刀はこの時に奉納したもの。住職・定伝は護摩壇に刀を立て、護摩を焚きました。そして先勝祈願の呪文を唱えると、刀が西に倒れました。これは西=石田軍の退散を意味していたのです。
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家康の寝衣だけかと思ったら、太刀も湯呑もあって感激

しかもご住職さんが『ぶっちゃけ寺』に出られるぐらいトーク

上手なんです。ここでは公開出来ないカミングアウトも飛び出

したし… やっぱり保存は大変そうです。市指定文化財なの

で市から予算出るのですよね?と質問すると…驚きの予算で

これで維持するの大変だぁ

北条氏関連のお宝も拝見させて頂いたので次回紹介しま

すね。

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