旦さまと私

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お城散策(埼玉県)

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旦さまと埼玉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 成就院周辺は平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した道智氏(武蔵七党の野与党の一族)の館跡と云われ付近には中屋敷・鍛冶屋敷などの地名が残っている。史料によれば建久元年(1190)源頼朝の上洛には道智次郎が従っており、また、承久3年(1221)宇治橋の合戦では道智三郎太郎が討ち死にしている。境内に残る板碑はこうした道智氏に係わるものと云われている。(現地案内板より)

 
 
 
成就院周辺が道智氏館跡と云われています。
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成就院です。
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お寺の案内板に道智氏&館についての記述があります
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参道に並ぶ板碑道智氏に係わるものだとか。
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弘長3年(1263)の板碑(左)
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欠けてしまった板碑 あっ、お地蔵さまの首もだ…
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ご住職さんのご厚意によりご本尊さまを拝ませて頂きました。
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総評 ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

武蔵七党の野与党から派生した道智氏の館跡です
 
しかし埼玉県には武蔵七党関連の館跡って本当に多いですね。
 
成就院周辺館跡と云われていますが遺構はナシ。でもお寺の案内には
 
道智氏館の事がしっかりと記載されているので嬉しいです
 
先に紹介した多賀谷氏館、戸崎城から近いのですが、多賀谷さん元々道智さん
 
から派生した方々。自分の領地を息子に分割して与えたのでしょうかね。
 
館跡がお寺で板碑があり、周りが畑(あちらは田んぼ)と館跡の雰囲気も似ていて
 
さすが一族〜とね
 
境内を掃除していたご住職さんに声をかけて頂きまして、館跡について尋ねた
 
のですが、やはり当時の遺構はナイとの事でした。ただ中屋敷と言う小字名は
 
残っているよと。 このようなやり取りがあると城館的には満足出来ないところも
 
思い出深くなりますね
 
 

『吾妻鏡』に登場する御家人・戸崎右馬允国延の館跡と云われ竜宝寺から東方の諏訪神社まで400mを対角とし、南北約400mが城館跡とされ、水田との比高は1.3mと云われている。(『続・埼玉の城址めぐり』より

 
 
戸崎城跡図 明治17年測量の迅速測図に書かれた城跡図
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まずは西端の竜宝寺を散策
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お寺の案内板に戸崎城の記述あり
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山門に謎のアルミサッシ扉が…
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その中には…仁王さま「ここから出してくれ〜」ってか。
もしやオイタして閉じ込められた?なんてね
仁王さまへの悪戯&盗難防止の扉でしょうか?珍しいですよね。両サイド共に。
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境内には戸崎出身のお相撲さん(江戸時代の方)初代・伊勢の海さんのお墓が。
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さて肝心の戸崎城ですが城跡図によるとこの辺りですね。
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完全に水田&耕地に。
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とりあえず想像するしかありません
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この土盛りは土塁跡っぽいですがただの残土だそうです
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東端の諏訪神社  ここの案内板に城跡図があります
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

戸崎城竜宝寺諏訪神社間の水田に存在していました。
 
昭和14年の土地改良により削平され城跡図にある土塁も悲しいかな消滅
 
平成7年から行われた発掘調査で17世紀以降の瀬戸美濃産の徳利などの
 
遺物などが検出されたそうです。また城跡図以外の地からも土塁の存在
 
が確認され御家人の館から戦国時代に利用された城として発展した可能性
 
も考えられるとの事。近くに騎西城とかもあるのでそれらの支城だったのかな。
 
竜宝寺から水田に変身した戸崎城跡を見ながら諏訪神社へ至るの散歩コース
 
ポカポカ陽気の日にどうぞ。お城的満足度は少ないけど、かつての城跡図、
 
案内板に記述もあるからマニアさんなら全然OKですよね

大福寺の地は平安時代末期、道智の一族の多賀谷氏が館を構えたと云われている。多賀谷氏は武蔵七党の野与党に属し源頼朝の上洛の随兵は弓始射手として活躍した。周辺には寄居、タテヤマなどの館跡に関する地名が残っている。なお、周辺の発掘調査では当時の陶磁器などが出土している。(現地案内板より)

 
 
大福寺周辺が多賀谷氏館跡です。この景観だけでも中世の館って感じ。
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松並木が館への土橋に植えられている感じ
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微高地になっています。
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案内板に多賀谷氏館の記述があります。
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境内には石板碑
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左から4番目のこの板碑は武士の名前を連ねた交名板碑と云うそうな。
読めないけどこれって武士名前なんだぁ。
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本堂です。現在は無住のお寺みたい。
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大福寺の隣には立派な長屋門のお屋敷が。
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大福寺の西北にある多賀谷神社多賀谷光義が館内に勧請した稲荷明神
がはじまりで、その際に牛頭天王、熊野社、弁天社などの社も祀ったと云われて
います。これらの神さまは合祀され現在地へ移転。
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かつて大福寺=館内にあったのですね。
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案内板にあった館跡に関する地名『寄居』発見! 実は山田うどんって食べた事
ないのです
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総評 ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

武蔵七党出身・多賀谷氏館です。
 
多賀谷氏ってどこかで聞いたことあるなぁ〜って思ったら茨城県の下妻城=
 
多賀谷城多賀谷さんでした。元々は埼玉県人だったのですね。
 
多賀谷さんが下妻に移った後、館跡が大福寺になりました。
 
大福寺周辺東西約400m、南北約350mの範囲が館跡と云われ、田んぼに水が
 
入っている時期なら濠に囲まれた館を彷彿させる中々の景観を見せてくれそう
 
遺構はありませんが大福寺の案内板に館についての記述があります。
 
境内に多くの板碑が残るのは武士が館を構えたからだとか。
 
多賀谷氏館=『たがやしやかた』を逆さまから読むと『たかやしやがた』と
 
一文字違いで惜しいんですよぉ 関係ないけどね。

 新荒川扇状地東端付近、標高26m前後の立地で箱田氏館跡(平安末期)と伝わる。この地、中西は古くから中屋敷と呼ばれている。 箱田氏は成田氏より派生し源平合戦で功を挙げた。

 
この辺りが箱田氏館跡と云われています。
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道路に面して御嶽神社
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境内には館跡の石碑があります
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狭い境内には石碑がいっぱい。 山岳信仰関係のものかなぁ?
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

箱田氏武蔵七党横山党→成田氏→箱田氏の流れです。
 
館跡は縄文から平安末期の複合遺跡でもあり、熊谷総合病院北側で行われた
 
発掘調査結果のネット情報では箱田氏館跡についての詳しい記載は見つけ
 
られませんでした
 
この館跡の魅力は御嶽神社にある中西老人会さんにより平成3年7月に建立され
 
館跡の石碑ですね 資料の乏しいこの館跡についての記載は助かります
 
埼玉地名大辞典によると上之地には平安末期の館跡中宿中西箱田氏
 
にあったと記載されています。御嶽神社付近は隠居さま跡と呼ばれて、北東に
 
土塁があったようですが現在は消滅したみたいで確認出来ませんでした
 
埼玉県文化財詳細情報の概要にも堀、土塁とあるのですがもしや発掘時に
 
見つかり埋め戻した??謎です
 
老人会さん箱田氏館の事を後世に伝えるために建てた箇条書きの珍しくて
 
ありがたい石碑のある箱田氏館跡記事でした

承久の乱(1221年)で活躍した女影太郎及び四郎の館跡と推定されている。

     
詳しい地図で見る
 
女影氏館跡実測図(昭和55年1月木下恵司氏による) 現在は下半分の土塁
のみが現存しています。
史料提供…HP「儀一の城館旅」管理人・儀一さま。ありがとうございました。
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女影氏館跡です。2011年の初訪問と今年2013年の再訪時を比較した
ビフォー・アフター形式紹介してみます
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2011年1月16日・ビフォー Iさん宅に残るL字型土塁。もしや破壊されている最中!? と心配していたら…
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2013年5月・アフター 家の建替えに合わせて芝で整備されていました
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2011年 ビフォー  むき出しの地肌 ↑の土塁を違う角度から。
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2013年 アフター  すっかり綺麗になりました
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2011年  ビフォー  こちらも…
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2013年 アフター  お見事
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土塁の角のお社の中には女影氏供養のためと云われている板碑があります。
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この道路を挟んだ左(北)側にも土塁があったのですが…
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北の土塁は耕地になって消滅
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館跡の南に流れる小川は濠に利用されていたのでしょうか?
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総評  ★★☆☆☆   (旦さま私見 ★2つ)

 
女の影」と書いて「おなかげ」と読みます。
 
女の影」から連想されるのは…くの一旦那の浮気…深い意味はあり
ませんよ(笑)
 
館跡があるのは丘陵と丘陵に挟まれた谷津で、現在Iさん宅に土塁
 
現存しています。初訪問は2011年の1月。家が建築中でせっかく残って
 
いる土塁も破壊されるのか…と思っていたのですが、今年5月に再訪
 
してみると土塁は無事の上、芝が植えられ綺麗になっていました
 
これはIさんに感謝ですね。
 
女影氏に関しては史料が乏しく詳しい事が分かっていませんが承久の乱
 
(1221)で女影四郎後鳥羽上皇軍との戦中、宇治川の流れで溺死した
 
承久記』に記載されています。また手負いの者の中に女影太郎
 
名前があります。 四郎太郎は兄弟なのでしょうか??館跡の位置から
 
武蔵七党の丹党からの一族と推定されています

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