旦さまと私

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お城散策(埼玉県)

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旦さまと埼玉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 武蔵七党の児玉党から派生した塩谷氏の館。塩谷氏は家遠を祖としその子五郎維広は平氏討伐に源範頼配下として従軍。その後奥州藤原氏との戦いで討死。

 
 
塩谷氏館跡真鏡寺
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お寺の周辺も館跡なのかなぁ。
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境内には源義経を京の館に襲った土佐房昌俊こと渋谷金王丸のお墓があります。真鏡寺はこの金王丸によって開山されたものなのです
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お寺の前には金王丸神社跡の石碑が。かつてここに金王丸を祀ったお社があった
のでしょうか。案内板類がないのでよく分かりません。ちなみに石碑には触れてませんので
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石碑の横には庚申塔
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もう一度境内に戻り、まわりを見渡すと…本堂裏にあやしげな林が…
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その中に土塁空堀見つけ
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別角度から
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

武蔵七党の児玉党出身塩谷氏の館跡ですが、塩谷氏と言えばあの塩谷瞬を思
 
い浮かべるのは私だけ?…
 
真鏡寺境内には源義朝に仕え、常盤御前義朝討死の報を知らせ、その子
 
頼朝の命で京都堀川御所に襲った渋谷金王丸=土佐房昌俊のお墓があり
 
ます塩谷氏とは深い関係だったのでしょうね。もしや主従に近い?
 
義経襲撃事件には他の児玉党武士と共に塩谷維広も従っていて、討ち取られた
 
骸をこに運び、埋葬したと云われています。金王丸のお墓は他所にもあるので
 
は…?ですが 
 
館の遺構は本堂裏の林の中に一条の土塁空堀がありますが、は発掘により
 
方形に廻っていた考えられるそうです。て、事は平安末期〜鎌倉期の方形館
 
塩谷氏についての案内板類はありませんが遺構を見て色々と想像しましょう。
 
でも金王丸義経襲撃事件に興味が…
 
頼朝の命なので断れず、仕方なく義経を襲いに行ったんだろうなぁ〜と

 『滑川村史』によると築城は元亀3年(1572)松山城の出城として山崎若狭守が普請奉行となって当たり山田伊賀守が城主となる。天正3年(1575)山田伊賀守が没し、山崎若狭守が城主となった。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原の役により、豊臣方の前田利家軍に包囲され激戦数十日、戦闘熾烈の攻防を繰り返したが、4月上旬散る桜と共に陥落した。

 
 
羽尾城を南から望む
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郭内の西半分は耕地
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西側の土塁
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北側にありました二重土塁
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↑を引きで見るとこんな感じ〜この辺りは木々が伐採され見やすいです。
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伐採された部分のは埋もれ気味ですが…
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『滑川町郷土かるた』の標柱 羽尾城(はねおなのにナゼ『』?
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この道は堀底道?右側の藪の中にも遺構が…
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それは…藪の中の二重土塁&堀
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もう少し先の二重土塁&堀
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郭の東半分は凄い藪ですが旦さまが果敢にも突入〜これがその写真。
何だか全く分かりませんが…
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城の東側
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見  ★3つ)

比高10m程度の台地に築かれている武蔵松山城の支城である羽尾城です。
 
南面は斜面になっていますが民家がポツポツと建ち始め、この先破壊され
 
そうな雰囲気が…
 
楽しみにしていたのが二重土塁 羽尾城のウリですね。
 
北側の西角は確認しやすく「おぉ〜これかぁ」です。しかし東に延びてる二重
 
土塁は藪の中。せっかくの遺構なのにもったいないなぁ〜
 
しかしもっと凄いのは郭内の東半分部分。藪だかジャングルだか…先が見えない
 
くらいですよぉ。なので突入は旦さまのみで 内部の様子は↑の写真。感想は
 
「青梅市の楯の沢城より凄いかも…」との事です
 
一見大きな方形館のように思えましたが資料によると南の大手に腰曲輪が2つ
 
あったようです。 全然分かりませんでしたが…
 
そうそう『滑川町郷土かるた』でナゼ『ほ』なのか調べたら…
 
『堀跡に名残を残す羽尾城』〜の『ほ』でしたよ
 
藪も多い羽尾城でしたが二重土塁が残っている事に感謝したいなぁ〜と
埼玉県所沢にある北条テルテル〜氏照公の持ち城・滝の城で発掘調査が
 
継続されていますが何と焼けた城門遺構(炭化した木材)が出土したそうです。
 
小田原の役浅野長政に攻められ落城伝説はありますが文献資料がないため
 
「本当に攻められたのぉ?の疑問もありました。
 
この出土により「えぇ。焼けた門も出土してますからと答えられますね。
 
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その焼けた城門遺構が出土したのは馬出三の丸間のこの虎口
何とこの通路はテルテル氏照公居城の滝山城と同じ石敷きだった事も判明。
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この一輪車(ネコって言うんでしたっけ?)の下の穴に炭化した柱が横に倒れた
状態で出土したとの事。物を見たかったなぁ(市が保管)
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井戸跡も出土。石垣一夜城のようにすり鉢状になっています。
上から覗くと凄く深いのですがまだ底まで達していないとの事。対秀吉の籠城作戦のために新たに掘ったとも考えられています。落城時に宝物を投げ込むとかあるようなのでこの井戸から凄いものが出るかも… 
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二の丸には謎の大穴〜ナンダァ?
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すでに枯れてしまいましたが滝の城と言えば血の出る松も有名「落城時に
この地で折り重なり、討死した武者の血を吸い、木肌を傷つけると赤い樹液
が流れ出た」の伝説です。
この原木の一部城山神社の社務所に霊木として保存されているのです
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これが戦国時代を見て来た血の出る松 霊木です。
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昭和45年撮影の写真も飾ってありました。
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東京近郊(所沢は東京都との境目)で木々が伐採され、これだけの素晴らしい
 
遺構が見れる滝の城 比企地方のお城にも決して引けを取りません
 
今回案内して頂いた滝の城保存会の会長さんに深く感謝です。
 
本当にありがとうございました。
さてさてこの滝の城戦国・滝の城まつり
 
開催(4月28日)が決定 
 
今年は落城証拠城門遺構出土記念? 甲冑武者さんたちによる
 
北条軍対浅野長政軍の合戦劇
 
歴史ファン、特に北条ファンは必見! 
 
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  足軽るな滝の城を守りきれるのか?
 
何でこんな格好しているかはお祭りの詳細記事と共に後日発表…
 
 
 

 伝承によれば鉢形城主・上杉顕実の家老長尾四郎左衛門昭国の居城とも、長尾景春の子、烏坊丸の居館とも云われている。

長尾城図〜『秩父路の古城址より拝借 比高約80mの岩山です。
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麓の瑞岩寺根古屋
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 本道の横に登山道があります。         岩の道をえいこらっと登ると…
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尾根上に到着! 図によれば一の曲輪となっている平場。
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しかし東端の方が高いのです。あの頂を目指して進軍じゃ
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途中の平場にある石祠
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尾根か曲輪跡か分かりません〜
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ここを上りきれば山頂だぁ
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山の北側は抉り取られてしまい現在はゴルフ場! 
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ゴール!着いたぁ〜 一番の高地だからここが一の曲輪〜ってなる気が…
物見台だった可能性も。
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夕暮れ時の古城址〜何だか良い感じ
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しかも絶景です
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麓から西側部分を見る。小さいけど堅固に見えますね
この岩山にはツツジ群生していて5月には見事な花を咲かせるとの事。
実は有名なツツジの名所だったようです 
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

長尾春景の乱長尾春景熊倉落城後にこの長尾城で捕らえられたの伝承
 
があります。史実だと長尾春景古河公方に仕えていますのでこの話はガゼ
 
麓の瑞岩寺(長尾昭国開基)根古屋で裏の岩山が詰の城と云われています
 
が、岩山は元々北側の山と尾根続きでしたがゴルフ場造営で抉られ、細い尾根の
 
みの山になってしまいました。抉られた部分には曲輪も含まれていたと考えられま
 
す。その上ツツジの名所としての整備時にかなり手が加えられ、今はどこが曲輪な
 
よく分かりません でも眺めは最高に良いですツツジの季節に訪れたら
 
華やかで素敵でしょうね。ヒカゲツツジミツバツツジヤマツツジが見られる
 
との事。ただ本当に細い?狭い?尾根なので大勢の人が来たらすれ違うのも大変
 
だと思われますが… 
 
急な斜面ですが、さほど時間もかからず登れる山城。遺構よりも景色と岩山を楽し
 
感じの長尾城でした

 仲山城は、前方を荒川の急崖に面し、後方に陣見山山系が囲む標高267メートルの山頂の要害地に築城された山城である。この城は、正和元年(1312)もと北面の武士阿仁和兵助橘基保が京都在任中、神のお告げを受けて一族郎党を引き連れ関東に移り、新田義貞の配下となって当地に城を築いたと伝えられているもので、基保の長女は能登時国に嫁し、長子直家は父の後を継いで仲山城二代目の城主となったが、侍女との恋のもつれから、武蔵秋山城主秋山新九郎継照に攻められ、延文2年(1357)城前の荒川河原で討死したといわれている。今も城跡をめぐれば、経塚、御殿池、馬廻、樋ノ口などの地名が残り当時を偲ぶ事が出来る。(現地案内板より)

仲山城図〜『秩父路の古城址より拝借
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比高120mの仲山城を望む
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民家横に道案内あり。 さらに進むと登山口。 ↓ここを見逃すと行き過ぎますよ
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の郭堀切 かなり埋もれてますが…
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上から見るとそれなり
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二の郭から本郭を見る
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東屋に占拠された感のある本郭
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案内板の後ろには土塁
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眺望はこんな感じ…
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三の郭
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三の郭堀切を上から
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行きはよいよい帰りは怖い…すべるすべる
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すぐ近くには日本一の大きさを誇る野上下郷石塔婆(5mもあるんですよぉ。
仲山城主阿仁和直家は落城の際討死したのですが、直家十三回忌の応安
2年(1369)10月に奥さんの芳野御前(妙円尼)が追善供養のために建立した
もの。今より50mくらい南にありましたが、秩父鉄道開通のために現在地に移され
ました。
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総評  ★★★★☆  (旦さま私見 ★4つ)

案内板に『恋のもつれから攻められ落城』〜と、気になる記載がある秩父の
 
長瀞にある仲山城です。
 
道標に従い、民家の庭先を通り城山の登り口へ。落ち葉で道が埋まり、道筋がよく
 
分かりませんでしたが気合で上ると尾根道に出ました。そのまま進むと小規模な
 
が登場。城域に到着です。その隣の本郭東屋が敷地面積の殆どを占めてい
 
ます 本郭には土塁があるのですが上部には多くの板碑が。この土塁板碑
 
物見兵の寒さ対策の風除け?と書いてあるお城本もありました。本当かね??
 
三の郭の先にも堀切ありますが、こちらも小規模なもの。むろん長い年月でかな
 
り埋もれているのでしょうが。以上3つの郭で構成されているシンプルな山城ですが
 
鎌倉後期〜南北朝時代のお城でこれだけ残されているのは貴重です。登山道もハ
 
イキングコースとしてなのかなぁ〜一応整備されていますよ。
 
仲山城とセット訪問しなきゃならないのは国道140号からすぐの日本一高い野上
 
下郷塔婆〜国指定史跡
 
仲山城主阿仁和直家の十三回忌に奥さん芳野御前)が建てたものですが、
 
秋山城主・秋山続照の腰元・白糸にちょっかいを出し、「ワシの女にな
 
んじゃい!ボケ!滅ぼしてやる〜続照に攻められ討死…
 
これが案内板に記されている『恋のもつれから攻められ〜』です
 
そんな浮気モノの旦那のために莫大な費用をかけて巨大な板石塔婆を建てた
 
奥さん(芳野御前)は偉い! ちなみに奥さんは落城前に脱出。娘を頼り能登
 
へ避難。十三回忌の時に亡き旦那との思い出の地であるこの仲山城の麓へ
 
来たのです。どこまでが史実かは?ですがこんなエピソードがあると興味が倍増
 
しますね
 

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