天正18年(1590)北条氏滅亡後の関東に入った徳川家康。同年の奥州仕置を終えて帰国する豊臣秀吉の宿泊施設として武蔵国の国府跡に設けたのが府中御殿のはじまりである。その後鷹狩等に使用されたが天保3年(1646)10月府中本町の大火により灰と化し廃された。
JR南武線府中本町駅の東側の空き地が府中御殿跡
徳川家康が会津帰り(奥州仕置)の豊臣秀吉の宿泊施設
として造営。
周辺は古代武蔵国府跡で、この地はその国司の館があっ
た地です。この跡地に家康は御殿(府中御殿)を造営。
古代からの複合遺跡でもあり府中と云う土地柄の重要性を
窺わせますね。
現在も発掘調査が続けられています。
井戸跡。この井戸から三葉葵紋鬼瓦の一部が見つかって
います。家康も秀吉もこの水を飲んだのかもネ
案内板
多摩川方面を望む。府中崖線上に位置し富士山も望める
景勝地。御殿廃止からずっと後になりますが幕末〜明治の
絵図には一番眺めの良い場所に休憩所が描かれています。
東側の坂(府中街道)の名前は御殿坂
東隣する武蔵国総社・大國魂神社。かつては武蔵国の一の
宮から六の宮まで祀るので六所宮と云われていました。
家康の遺骸を久能山から日光に移す際、府中御殿に泊まっ
たのですが、その遺跡を後世に伝えるために徳川秀忠の
命により境内に東照宮が建立されました。
総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)徳川家の鷹狩のための○○御殿は東京近辺に数多くありま
すがここ府中御殿の第一の造営目的は豊臣秀吉の宿泊施
設。奥州仕置で天下人となった秀吉が都に戻る帰路に泊まる
御殿ですから地味好みの家康も立派な物を建てたのでしょう
ね。しかし天下統一が成ったとはいえまだ油断のならない時
期、御殿には濠や土塁等の防御もあったのかな。
天正19年には奥州へ向かう豊臣秀次も滞在。
家康の死から1年後の元和3年(1617)遺言通り久能山から
日光へ改葬の道中、家康の霊柩(遺骸)が滞留。法要も行わ
れました。造営した本人が死して戻って来たと…興味深い話
です。大國魂神社にある東照宮はこの事を後世に伝えるため
秀忠が造営。
さてその府中御殿跡ですが現在発掘調査中でフェンス越し
に眺めるのみですが府中国府跡の一部として国指定史跡に
追加登録され保存される事が決まっています。
家康と秀吉がここ何を話したのか興味津々〜わくわく
そう言えば東京で秀吉関連史跡って聞かない(うちらが知ら
ないだけ?)から東京唯一の秀吉関連史跡でもありますね
天正18年(1590)造営、正保3年(1646)に府中本町から
の火災で焼失。56年の短命の府中御殿でした。
|

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事





