旦さまと私

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お城散策(東京都)

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旦さまと東京都のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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年度末で中々更新出来ずに申し訳ありません<m(__)m>
 
久々の更新です。
 
東京都東村山市と言ったら古くは志村けんさんの出身地、今はランチパッ
 
にもなった事がある地元B級グルメ・黒焼きそばで有名(そうか?…
 
これが黒焼きそばです。
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店によって味が違うのですが地元にある会社ポールスタアのソースを使う
 
のが基本。このソースはイカスミをベースにしているので真っ黒。
 
ガーリックがきいています。
 
昨日東村山ブランド「里に八国」のイベントがあったので行ったのですが
 
黒焼きそばのゆるキャラ『よしくん』も参加していました。
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どこかで見た姿だなぁ〜と思ったらソースのラベルや幟にも描かれて
 
いました(↓画像は八国山ブランドHPより)
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なぁんとこのよしくん、実は新田義貞がモデルだと昨日初めて知りました。
 
義貞」の「よし」ね そう言えば東村山市内には義貞ゆかりの元弘の
 
板碑(徳蔵寺)、久米川古戦場があるしね。
 
何で焼きそばがなのか?鎌倉攻めの時に義貞は東村山市の八国山
 
陣を構えましたが、食事のおにぎりが白くて目立つので敵に見つかるの
 
を恐れ、ぎりに炭をかけて黒いおにぎりにして食べた〜との伝説が
 
あるからです 本当かどうかは??ですけど… そうなら黒おにぎりでも
 
良かった??
 
そして焼きそばけどよしくん赤備えなのはご愛嬌と言うことで
 
東村山のB級グルメ・黒焼そば新田義貞と関係があったぁ!と言う
 
記事でした。

 永禄年間(1558〜69)この地の地頭であった行方修理亮義安が戦死した後、義安の室であった円光院妙安尼が兄斉藤政賢の屋敷内に庵室を結んだのが始まりとされる。天正17年(1589)尼が没した後、日現上人を開山とし、寺として開創された。
 明治時代に神仏分離が行われるまでは、西隣りの蒲田八幡神社の別当寺であった。昭和20年の空襲で堂宇を焼失し、昭和40年に現在の本堂が再建された。
 墓地の奥には妙安尼供養塔があり、所蔵する木造日蓮聖人坐像とともに大田区の有形文化財に指定されている。

 
 
斉藤氏館跡蒲田八幡神社妙安寺の辺りと言われています。
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蒲田八幡神社
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妙安寺
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妙安寺境内
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斎藤氏から以前紹介した行方氏館行方氏に嫁いだ妙安尼さんの供養塔
旦那・行方義安さんの死後、実家であるここ斎藤氏館(当主は兄斉藤政賢)
戻り庵を結び池上本門寺十二世日現に帰依。天正17年(1589)に亡くなり、死後この庵が妙安寺になりました。寛永20年(1643)建立。
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ビルに見下ろされる都会の城館跡です
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斉藤氏館跡散策後に向ったのは大森のダイシン百貨店。この日開催の山王夏祭りに出演する山形おきたま愛の武将隊を見に
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エレベーターで屋上の会場に移動する姿が何だかオカシイ
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

京急蒲田駅前の蒲田八幡神社、妙安寺辺りが斎藤氏館跡と云われています。
 
蒲田八幡神社境内には館跡ヒントがないのでお隣の妙安寺へ。
 
門前の案内板に斎藤氏館(屋敷)の記載がありました 
 
記載は斎藤氏から行方氏にお嫁に行った妙安尼さん話が中心で「旦那さんの
 
死後、兄である斉藤政賢の屋敷内に庵を結んだ」の一行ですけどね。
 
妙安尼さん供養塔は本堂向って左手にありました。妙安尼さんのおかげで
 
斎藤氏館の名前が今に伝わったと言っても過言ではないですね。
 
しかし門前の案内板には記載されていますが供養塔の前には案内板もないし、
 
場所も分かりづらいので注意です 
 
さて肝心の斎藤氏ですが行方氏と同じく管領上杉氏から後北条氏に仕え、
 
小田原衆所領役帳に「記吾跡、斉藤二五貫一四文、六郷入不斗」と出ています。
 
行方氏は小田原の役で討死していますが、斎藤氏はどうなったのでしょうか…
 
市街地化で完全消滅の斎藤氏館でした。

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 江戸城の移築遺構と言ったら有名なのが埼玉県川越市喜多院家光
 
誕生の春日局の間がある紅葉山別殿。
 
マイナーなのが東京都杉並区海雲寺紅葉山徳川家霊廟山門。
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埼玉県越生町龍穏寺にある神田橋門に使用されていた石垣の石3つ。
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そして横浜徳恩寺には城内庭園にあっ石灯籠庭石が移設
されています
 

徳恩寺(神奈川県横浜市青葉区恩田町1892)

 
 
 
徳恩寺
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案内板発見!
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これが江戸城より移された石灯龍庭石です
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春日灯籠と案内板にありましたね。
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将軍さまも眺めたのかなぁ〜庭石
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幕末の江戸城明け渡しの際に城内整備の労務にあたった高輪・横河家が
褒賞として受領されたもので、昭和62年に徳恩寺に寄進奉納されました。
 
褒美が石灯龍庭石か…個人的には嬉しいような、嬉しくないような…
ってか運ぶの大変ですよぉ
 
もし江戸城が尼崎城並に完全破壊され消滅していたらこれはメチャ
貴重ですよね。もちろん今でも貴重ですが
 

 
徳恩寺にはもうひとつ興味深いものが…原爆の残り火「こころ」
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原爆を落とされた広島に叔父の安否を気遣い訪れた山本さんは、その惨状に驚きこの憎い火を祖母に見せるため、くすぶっていた火種をカイロに移して持ち帰りました。その後火鉢の炭に移して消さないように保っていたそうです。この火は『恨みの火』からやがて『平和への願いの火』に変わり、山本さんが亡くなった後、故郷の福岡「平和の塔の火」として点火され様々な人に受け継がれて行きました。現在、日本で45ヶ所、外国2ヶ所にあるそうです。
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戦争の悲惨さを後世に伝えるためにも消してはいけないもの。
大晦日には分灯されるそうです。
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江戸城の移設遺構がある徳恩寺平和について考える事をさせて
くれる落ち着きあるお寺でした
 

 行方弾正忠直清は後北条氏の家臣でこの辺りの六郷領を支配していた。直清は小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えらている。円頓寺は直清の居屋敷跡で、直清の弟日芸(寛永20年没)が旧宅を寺院とし、中興開祖になった。(現地案内板より)

 
 
 
住宅街にある円頓寺行方氏館跡
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円頓寺です。
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お寺の由緒記石碑に館の記載があります 読み辛いけどね
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本堂
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境内の様子です。正面に銭湯の煙突が見えます。日帰り温泉、スーパー銭湯の進出の中でも頑張っているのかな。
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江戸名所図絵での行方氏館跡
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小田原の役で討ち死した行方弾正忠直清の供養塔
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総評  ★★☆☆☆   (旦さま私見 ★2つ)

久々の東京23区内の城館跡は狭くて一方通行だらけの住宅街の中にある円頓寺
 
行方氏館跡。はじめ扇谷上杉氏の家臣だった行方氏その後、北条氏に仕え
 
玉縄衆に所属。弾正忠直清さんの時、小田原の役(天正18年)で、豊臣軍
 
攻めて来て上杉景勝、前田利家軍と戦い討ち死。この時弟さん池上本門寺に逃
 
れ、出家と名乗り、文禄元年(1592)亡き兄・直清さんの菩提を弔うため館
 
跡に円頓を建立しました。現在墓地内に大田区文化財に指定されている供養塔
 
があります。現在館跡としての遺構は開発等で完全消滅ですが案内板、お寺の由
 
緒記に館の記載、そして供養塔もありますので訪れる価値はあるかと

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『新編武蔵風土記稿』によると福巌寺の地は戦国時代立川宮内少輔宗恒一族の館跡とある。

 
 
立川宮内少輔宗恒一族の館跡を望む。 
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なにやら扉が…
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第二次世界大戦中に警防団(消防団)が掘った防空壕でした。市内に残る唯一の防空壕。街中に残っているのは珍しいのかも。
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館跡には現在福巌寺が建ちます。 江戸時代後半に寺子屋が開設されたので
昭島市教育の発祥地でもあるとの事。
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案内板に館についての記載がありますが文字が薄くなって読みずらい…
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でも本堂前の石碑にも記載されているので大丈夫
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今年は終戦から68年。終戦記念日近くには特番を放送していますが戦争と平和について考える良いきっかになりますね。池上彰さんの番組が好き。
↑の防空壕と共に手を合わせておきました。
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遺構らしきものは確認出来ませんでした。
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境内から多摩川方面を。  さすがに眺望は良いです
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

立川宮内少輔一族の館跡と云われる福巌寺
 
昭島にも城館跡があったとは。ブロ友さん・はま子さんの記事で知りました。
 
多摩川の河岸段丘上に存在していて駐車場にある文字の薄くなった案内板と
 
本堂前にある縁起を刻んだ石碑に館についての記載があります。
 
立川氏は武蔵七党のひとつ西党の日奉氏からの一族で立川宗恒祖とします。
 
居館跡としてはお隣立川市の普済寺が有名ですが、ここ福巌寺普済寺
 
でもあり密な関係。立地も似ています。
 
立川氏自体史料が少なく不明な点が多いのです。福厳寺では立川宮内少輔宗恒
 
普済寺では立川宮内大夫宗恒となっているし。どっちが正解や??
 
立川氏は戦国時代、北条氏の家臣としてその支城に詰めていたためか居館普済
 
の)は廃されているのでここが居だったのかも…? でも支城説もありそうだし?
 
あ〜考えれば考えるほど迷宮入り〜  

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