旦さまと私

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お城散策(東京都)

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旦さまと東京都のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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                          『成宗城』
鎌倉時代に源実朝の御家人、中野左兵衛門之尉成宗が、すぐ南を通る鎌倉街道監視のために築いた城
と伝わる。その後の戦国時代初期には太田道灌の持ち城になったとも。成宗の名はこの付近の旧町名
にもなっていた。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.69565459885744&lon=139.62937413533172&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.695667668635096&hlon=139.62939827521282&layout=&ei=utf-8&p=


台地下から成宗城跡を望む。
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比高5m程度の台地上の様子。
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現在は女子寮が建っています。もちろん部外者は立ち入り禁止で、金網に囲まれています。
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城跡の南を流れる善福寺川は堀の役目をしていたのでしょう。
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その善福寺川に架かる素敵な名前の屋倉橋
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総評 ★☆☆☆☆ (旦さま私見 ★1つ)


杉並区には『堀ノ内』『和田堀公園』とお城の存在を匂わす名がありますが、この成宗城は唯一

文献資料(新編武蔵国風土記稿)にその名が登場するお城です。

現在、共立女子大学研修センター杉並寮が建つ台地上に築かれていたのですが、開発によって

完全消滅かと思われます。案内板等もないので、城跡に来た実感がないですね…(ノ_<。)

金網越しに見るだけなんで内部の詳しい様子は???(^-^ゞ

せめての救いは善福寺川に架かる『屋倉橋』の名前。かつてこの地にお城があった事を伝えます。

もちろん屋倉=矢倉=櫓と変換ネ(*^-^)b
今に残る江戸城の移築遺構と言えば川越の喜多院庫裏が有名ですが、なんと城門が杉並区の海雲寺

あるとの噂!? その真相を確かめに杉並へ!


これが江戸城吹上にあった門です(^○^)/ 
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裏からもじっくり見てみましょ♪
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本堂は明治20年建立ですが風格が漂っています。
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江戸城の城門と云うと高麗門や巨大な櫓門をイメージしていたので見た時はあれ?と…(^-^ゞ

でもこれは城内紅葉山にあった徳川家霊廟山門と知り納得です。

と、いう事で、噂の真相は移築城門ではなく城内にあった山門が移築現存するでした。

どういう経緯で海雲寺に移築されたかは不明ですが、城内にあった貴重な遺構ですね。

地下鉄南阿佐ヶ谷駅南から徒歩で行けますので、近くにお越しの際はぜひご覧下さいね。

でも住宅地に囲まれたとこにあるのでちょっとわかりずらいかも(^-^ゞ

海雲寺は慶長16年(1611)江戸八丁堀で開創されましたが、その後浅草八軒寺町に移転し

明治43年に区間整理のために現在の杉並の地に移転して来ました。
『葛西清重館』
 西光寺は鎌倉時代、関東の豪族として雄飛した葛西三郎清重の居館跡として知られています。
当寺は古くは嘉禄元年(1225)清重の創建と伝えられ、天台宗超越山来迎院と号しています。
また、近くにある清重塚と称す古墳は葛西清重夫妻の遺骸を葬った場所といわれています。
(西光寺の案内板より)
葛西清重館の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.73441529947761&lon=139.8341498889532&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.734471907625235&hlon=139.83412843128136&layout=&ei=utf-8&p=

葛西清重館跡と伝わる西光寺ですが、親鸞が清重の館に立ち寄った際に、清重が親鸞に
帰依して館内に寺を建立したのがはじまりとされています。
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山門脇の塀から案内板が覗いています。
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本堂です。
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境内には清重を祀った清重神社もあります。
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西光寺の南側にある葛西清重夫妻の墓です。境内の外で住所は四ツ木1−25−8です。
案内板に葛西清重について詳しく書かれていたので↓
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 平安末鎌倉初期の下総葛西地区の豪族。鎌倉幕府創立の功臣で平姓、関東八平氏、秩父氏の枝族
である。父は豊島権守清光で葛西三郎清重を称していた。石橋山の合戦に敗れ、安房に辿り着いた
源頼朝は上総、下総、武蔵の豪族に激を発したが清重は千葉常胤、上総守広常らとこれに応じて源
頼朝を助けた。はじめ江戸氏はこれに応じなかったので頼朝は清重を通じて江戸氏を服属し、以後
の合戦を決定的に有利に導いた功績は大きい。
 彼は西国に平氏を追い、さらに奥州藤原氏絶滅に従軍し、数ヶ所に所領を得て奥州総奉行として
とどまり鎮撫の任を果たした。右衛門となり、頼朝寝所の警固などをし、和田の乱にも功をなした
ため、後に壱岐守になり、侍所の重臣として草創期の幕政に参画した。


企画展『葛西清重とその時代』の招待券とチラシですが、これは西光寺の奥さまに頂きました。
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後日、開催地の葛飾区郷土と天文の博物館に行って来ました(*^ー゜)b
展示物の撮影はNGですが入口ならOK!という事なので。でも何気に後ろにお父さん(豊島清光)と
葛西清重(左)の木像が写っていますね(^-^ゞ
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こちらは葛飾区東堀切3−9−3にある普賢寺。ここも葛西氏の居館跡の推定地とされています。
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境内には葛西一族の墓所があります。
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総評 ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★2つ)


源頼朝の御家人・葛西清重の居館跡です。お父さんは以前訪れた豊島清光館の豊島清光さん。

葛西氏と云うと、豊臣秀吉に攻め滅ぼされた東北の葛西氏を思い浮かべる方もいるでしょうが、

彼らはこの清重の子孫です。奥州藤原攻めで功績のあった清重がそのまま奥州に留まり奉行を

務めた事が始まりです。その清重の居館跡と云われている西光寺には案内板と清重神社の小さな

祠がありますが、館の遺構はありません。

案内板にあった葛西清重のお墓が見つからず、お寺の奥さんに場所を尋ねた時に、ちょうどこの時期

に開催中だった『葛西清重とその時代』企画展の招待券も頂きました(*^ー゜)b まさにタイムリー!

本当にありがとうございました(_ _*)_ _*)

企画展に行った時に他にも葛西清重館の推定地がある事が判明。一つは記事にした葛西一族の墓が

伝わる普賢寺の地。もうひとつは時間の関係で訪れませんでしたが、同じ葛飾区の立石の熊野神社

付近です。真相はいかに…?? 同じ一族である畠山重忠の様に北条氏に滅ぼされることなく宿老

として晩年まで幕府に仕えた清重ですから、その館が複数でもおかしくないですけどね。

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                    『中野城山』
 この辺りは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4mほどの土塁が残っていました。
延宝3年(1675)の村の記録には「中野村のうちに9百坪ほど土手を築き、空堀を掘ったところ
があり、これを昔から城山と申し伝えている。そこはもともと名主・堀江卯右衛門の先祖からの屋敷
地で、今は年貢地になり、代々卯右衛門が所持している。」とみえています。
 堀江氏は天正4年(1576)戦国大名後北条氏領中野五郷を治める小代官を務め、次いで豊臣
秀吉の指令もうけた中野の土豪でしたから、戦国末期の城山は、小城砦を兼ねた土豪屋敷であった
事が考えられます。湧水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は、平忠常の
城砦跡、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌砦」跡などとも云われています。
(現地案内板より)
中野城山の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.70259081759337&lon=139.67496784700046&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=off&hlat=null&hlon=null&layout=&ei=utf-8&p=

谷戸運動公園を含む周辺地が中野の城山で居館跡です。
グランド内北部は1993年に発掘調査され建物跡や井戸が確認されています。
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公園には色あせた案内板があります。
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東側の堀跡に沿った道路。
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堀跡の折れの部分。
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2003年に調査された堀跡部分。北条氏お得意の障子堀が見つかりました(*^ー゜)b
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周辺は城山公園通りの名です。
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ちなみに城山公園は城跡ではないので気をつけましょう!(^-^ゞ
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総評 ★☆☆☆☆ (私見 ★1つ)


2010年初のお城巡りは中野の城山でした。このマニアックな感じが良いでしょ(笑)

昭和初期まで土塁、堀など完存していたそうですが、今は大久保通りを一本北に入った道沿いに

ある谷戸運動公園に案内板があるのみで、遺構は宅地化され完全消滅。

城山とは名ばかりで高低差は感じられません。もしや均されてこうなったのかな?

資料を手に堀跡に沿って住宅地を散策。もちろんお年始に訪れた夫婦を装ってね…あはは(^-^ゞ

後北条氏の小代官であった堀江氏が居館を構える以前に中野氏、または平重俊がここに居館を構えて

いた事が発掘調査で確認されました。

規模は東西約100〜110m、南北約120〜130mで、北側が一部張り出し、若干南辺に広い

方形居館です。幅約7m、高さ約2.5mの土塁がめぐり、その外側に幅約7mで深さは2.8m、

溝底幅2.7mの規模の畝堀・障子堀設けていたと。

都内に埋没した城館跡で始まったお城散策ですが、今年も国宝から伝承地まで幅広く巡って行きたいと

思っていますので、どうぞ宜しくお願い致します(_ _*)_ _*)

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          『梶原景時館』
 八幡神社の地が源頼朝の御家人・梶原景時の館跡と伝わる。
梶原景時館の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.65351693&lon=139.27991339&sc=2&mode=map&pointer=on


八幡神社参道にあるその名もズバリ『梶原杉』〜景時手植えの巨木ですが昭和46年に枯れてしまい
根株のみです。
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w(°o°)wでっかい!! 樹高30m、周囲12mあったそうです。
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八幡神社〜建久3年(1192)梶原景時が館内に鎌倉鶴岡八幡宮の古神体を移し祭ったのが
起源と云われています。その後は北条氏照、徳川家康から社領を頂いています。
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神社裏の丘陵地に遺構があると記している城郭本もあるので…
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散策してみましたが…
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ちょっとした溝はありますが…??
少し行くと中央高速道路によって破壊されているため進行不可能。よって散策終了。
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総評  ★☆☆☆☆ (私見 ★1つ)


梶原景時と言えば源義経と気が合わずに、源頼朝に色々告げ口して、義経追放の原因を作った

イヤ奴のイメージがある御家人さんです。いくら義経が掟破りの戦術を使ったとしても、

勝てば官軍、イケイケの性格を許せない生真面目な性格だったのでしょうか。

その景時も最期は他の御家人の反感を買い、正治元年(1200)駿河国孤崎で幕府軍に討たれて

しまうのです。

館についてですが、城郭本によっては「神社裏の丘陵に遺構らしきが認められる」とあります。

遺構「あり」と、書いてあると溝?窪地?でも空堀跡に見えてしまうものです〜(;^ω^A

なので遺構なのかは良く分かりません〜。よって景時の館を偲ぶも物は参道にある『梶原杉』

のみですね。八王子城から近いので八王子城のついでにでも寄ってみて下さい。

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