旦さまと私

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お城散策(東京都)

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旦さまと東京都のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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                     『太田道灌斥候台』
 太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、眺めの良いこの地に「物見塚」と呼ばれる
斥候台(見張り台)を造ったという。寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称
する掛川藩主太田氏などが、道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。塚は鉄道敷設でなくなり
この碑だけが残った。この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で
「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。(標柱説明より)
太田道灌斥候台の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.72492778&lon=139.77279894&sc=3&mode=map&pointer=on


日暮里駅陸橋から斥候台が置かれた本行寺を望む〜斥候台部分は鉄道工事で削り取られて今はナシ。
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本行寺山門〜大永6年(1526)江戸城内平河口に太田資高(道灌の孫)によって開基され、
宝永6年(1769)この地に移転してきました。
境内には大河ドラマ『新選組!』で佐藤B作が演じた永井尚志の墓もあります。
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本行寺の前は「御殿坂」と呼ばれ、江戸時代に将軍さまの御殿があったと云われています。
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本行寺境内にある標柱
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道灌物見塚の石碑
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物見塚を詠んだ小林一茶の碑〜住職さんと一茶は交際があったそうです。
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月見寺とも呼ばれた本行寺からの眺望
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本行寺を進むと『夕焼けだんだん』(階段の名前)の向こうは『谷中ぎんざ』です。
下町風情の残る商店街で、30円のコロッケなど安いお惣菜屋さんがいっぱいあります☆彡
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「花より男子f−ファイナル」の特番で加賀まり子さん、井上真央ちゃんが紹介していた
『ちょんまげイモ』も食してみました。'さつま芋に胡麻がかかっている’〜そのままの味でした。
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総評  ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


住所だと西日暮里ですが、最寄駅は日暮里駅。その駅前の本行寺の地が「江戸城を造った山吹の男」

太田道灌さんが物見台(斥候台)を置いた地と伝わります。

物見台が置かれるくらい眺望の優れたこの地は、その跡地に越して来た本行寺が観月の名所とされ

「月見寺」の異名で呼ばれたのも頷けます。現在は月より駅前に出来た高層マンションの方が

眩しいのですが…(ノ_<。)

西日暮里駅前の道灌山城との距離が僅か400mくらいで、同じ台地上に位置している事から、

この台地一帯を道灌は物見として使用していたと思われます。と、いう事は道灌山城と斥候台は

同じお城(物見)だった…?

本行寺にあった物見塚はありませんが、説明が記された標柱と石碑があるのが、嬉しいですね。

『この物見塚→上野戦争時の弾痕のある経王寺→谷中ぎんざ→谷中墓地で徳川慶喜のお墓参り』の

コースが私達の谷中散策おススメです(*^ー゜)b

それにしても『○○銀座』って名前の商店街って多いですよね。日本にいくつあるのでしょうか?^^
        『長沼城』
 この地はその昔、源頼朝に仕えた武将、長沼五郎宗政一族の館(長沼城)のあった所と
いわれ「新編武蔵風土記稿」また江戸時代中期に建立され、明治の末年廃寺となった報恩寺の
跡地でもある。(現地石碑文より)
長沼城石碑の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.63506321&lon=139.50250756&sc=3&mode=map&pointer=on


三沢川にかかる亀山橋前に長沼城跡の石碑があります〜これでも元は山城だったんですよぉ(;^ω^A
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長沼城跡に明和年間(1764〜72)に創建され、明治30年に廃寺となった報恩寺の跡でも
あります。
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彼岸花〜実は毒があるんです。
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往時には長沼城を守っていたと思われる三沢川を亀山橋から一枚カシャ。
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総評  ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


昭和38年頃に土砂採掘のために丘陵ごと姿を消した長沼城です。よって遺構はナシ。

城跡は住宅地と、大丸城と同じパターンですが、発掘調査をして詳細な資料が残されているだけ

大丸城の方が全然マシですね〜(;^ω^A

長沼城のあった尾根を亀山(ぎざん)といい、その名残で石碑のある橋が亀山橋なのです。

城主の長沼氏は西党、日奉氏の庶流ですが鎌倉時代以降は記録に登場しません。

石碑のみですが、石碑フェチの私達には、これだけでも嬉しいでのです〜(;^ω^A

しかし『稲城市』と言う「城」の名が付く市のわりには、そのお城を破壊しまくっていまね〜

稲穂の取れる所(米どころ)+稲毛氏の支配地+中世にお城があった=稲城市になったそうですよ。

稲城市内で、ちゃんと遺構のあるのは小沢城だけですね。
               『大丸城』
 中世の時代に築かれた大丸城は山頂部に主郭を置く山城である。主郭上には小建物跡と柵列跡が
あり、主郭の周りには深さ2m〜3mの空堀と土塁状の腰曲輪(第二郭)が廻っていた。この結果
見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代(14〜16世紀)頃使われた事があきら
かになった。                         (現地案内板より)
大丸城跡案内板の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.6442786&lon=139.49245936&sc=3&mode=map&pointer=on


大丸城跡〜かつての山城は開発に攻められ住宅地になってしまいました。
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住宅地内の道に案内板があります。
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「ふむふむ〜砦程度のお城だったんだぁ」
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大丸城図
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昭和55〜61年に多摩ニュータウン造成工事に先立って行われた発掘調査時の様子
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ここまで地肌が露出していると面白い 〜このまま保存して欲しかったなぁ(ノ_<。)
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最後に復元模型で往時の大丸城の姿をどうぞ〜
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総評  ★★☆☆☆  (私見 ★2つ)


多摩ニュータウン造成時に丘陵ごと削り取られてしまった大丸城、遺構は何もないのですが

川崎街道を駅入口で南下、一本目の住宅地の路地を左折したところに案内板があります。

久々の再訪城でしたが、城跡内に日帰り温泉施設(稲城天然温泉・季乃彩)も出来ていました。

築城者、城主は不明ですが、すぐ北に多摩川の是政の渡しがあり、この監視も含めた物見砦

だったと思われます。扇谷上杉〜後北条氏と使用されたのでしょうか?

大丸城跡の南西に城山公園がありますが、こちらは大丸城跡ではないのでご注意を。

発掘調査で古代の古墳、武蔵国分寺の瓦を焼いた窯跡、平安時代の経塚なども発見され、古代から

中世に渡る長い時代に使用された貴重な複合遺跡である事が判明。その使用期間更新として現代も

宅地として使用されているのです… (;^ω^A あはは
                『成瀬城』
 古くから「城山」と呼ばれてきたこの地は、近くに根古屋の地名もあり、中世の城跡であると思わ
れる。城主や築城年代については明らかではないが、平安末期から鎌倉初期にかけてこの地を所領し
たとされる横山党の鳴瀬四郎太郎の居館と云われている。
戦国期には小田原北条氏の所領となり小机城の支城として改修され、天正18年(1590)小田原
開城で廃城になったと思われる。

 昭和40年代後半から城山を含む付近一帯の開発が進み、空濠・土塁・櫓台など、城郭遺構の大半
が消滅した。現在残されているのは城郭の一部であり、実際の規模はもう少し大きなものであったと
思われる。昭和47年町田市教育委員会によって発掘調査が行われ、また昭和63年および平成元年
町田市教育委員会の呼びかけに応えた「成瀬城をしらべる会」による市民主催の発掘調査が行われた。
成瀬城の地図↓



天然の濠、恩田川を背にする成瀬城。
恩田川越しに対峙するのは豊臣軍ではなく今や高層マンションです(;^ω^A
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住宅地の中の城山公園が成瀬城跡です〜こうして見ると城跡っぽく見えますね。
しかし居住者さん達の車がよく通り、まさに「くるまにちゅうい」です(°°;))
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城山公園は変哲のない公園で、こんな感じ。
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遺構は何もないけど城跡碑があるのが嬉しいです。「ありがたや〜ありがたや〜」
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総評  ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


成瀬城は宅地化で見事に破壊され、今やコンクリ城壁に守られた小さな公園(城山公園)と化して

います。しかし公園から恩田川を見下ろすと高台に築かれていたのが分かり、要害振りを窺い知る

事ができます。かつては恩田川を挟んで秀吉の北条征伐軍と対峙しただろう成瀬城ですが、今は高層

マンションと決着の付かないにらみ合いをしています(;^ω^A

発掘調査で矢倉の柱穴、井戸跡などが確認されましたが、城山公園の地が成瀬城のどの位置にあたる

かは不明です。堀跡利用らしき道くらい無いかと探しましたが、やはりお手上げです。ヽ(  ̄д ̄ノ

以前は石碑の隣に案内板があったのですが、今は消息不明…(ノ_<。) 撤去された?

城山公園南西の松葉公園がかつての本郭跡との説もありますが、機会があったら松葉公園の方も

散策したいと思っています。

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                  『中世の館・長島高城の推定地』
 小田原北条氏が関東一円を支配していた時代の記録『小田原衆所領役帳』に江戸川区内16の郷村
名が登場しますが、その中に「長島高城」があります。時代は下りますが寛延2年(1749)青葉
某の書いた「葛飾記」には『此所は昔、長島殿と申す城主の城下の湊のようし』と記述されている事
から、これが「長島高城」呼ばれた中世の館ではないかと推定されます。清光寺周りには、城にちな
む小字がとりまくように残っています。この辺りは古くから交通の要衝として栄えた所でもあり、長
島高城が館とすれば現在の清光寺の境域にあったのではないかと考えられます。(案内板より)


長島高城の中心部と推定される清光寺です。
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入り口には案内板があります〜ありがたや、ありがたやヾヾ(^−^)
「日本城郭体系4」には『長島屋敷』と表記されています。
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正円寺〜「日本城郭体系4」によるとここも城域と推定されています。
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正円寺入り口から清光寺を望む〜この辺りはこのように細い路地が入り組んでいるので
車で来られる方は清光寺でお参りして、境内に駐車させていただてダッシュで散策しましょう。
もちろんお賽銭は奮発しなきゃ!ですよ(^O^)
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正円寺の北にある香取神社〜この辺りが城の北端と推定されています
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総評  ★☆☆☆☆ (私見 ★1つ)


『日本城郭体系4』によると清光寺を中心に正円寺・香取神社辺りまでが推定地となっているので

この辺を散策して来ました。細い路地の住宅密集地帯で遺構は全く無し。

そんな寂しい雨降りの午後、清光寺にある案内板が神々しく輝いて見えました。

地名は東葛西ですが元は「長島町」で、この様に歴史のある地名が変更されることは非常に

残念です。城に関する小字は土地の者ではない私達には、表示がないから分からないし…

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