旦さまと私

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お城散策(千葉県)

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旦さまと千葉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 石橋山の戦い後に頼朝が兵を整えた鷺沼旅館をこの鷺沼城に比定する向きがあり、この説を容れれば築城時期は平安時代に遡る事になる。その後の鷺沼城に関しても詳細は明らかではないが、千葉郡誌に正応年間(1288年-1292年)に鷺沼太郎源太光義が拠りその墓が高台の南西部に築かれたとあり、本丸内の祠がその墓であると伝わる。時代は下って室町時代、享徳の乱に乗じて馬加康胤が原胤房と組み千葉氏本家に弓を引き家を乗っ取った際、康胤の旗下に鷺沼兵庫という武将が見える。

 城跡に建つ昭和34年建立の石碑碑文によると、六百年前の正応年間に市川城主の里見氏と鷺沼源太満義ら下総の諸将が北条氏康と戦って敗れたとあり、第二次国府台合戦に鷺沼氏の末裔が加わった可能性が考えられるが、内容がひどく混乱しており、また、前述の鷺沼太郎源太光義と読みが同じであることから、光義の事績が誤って伝わったものとも考えられる。(ニッポン城めぐり参照)


 


菊田遊歩道の下は鷺沼城の濠の役目をしていた菊田川
(暗渠)。
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入口です
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縄張図じゃないけど…案内図
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ガス供給所跡〜何でもここを掘ったら天然ガスが出て、昭和33年にガス供給事業を開始。その後、東京湾への廃水規制が強化されたため、平成9年に井戸からの天然ガス汲み上げを休止。平成18年にすべての井戸を廃坑にした…との事
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さぁ〜登りましょ。
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結構広い。
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鷺沼源太満義の碑。このお方が城主。
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碑文
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石碑の後ろに源太宮満義さんのお墓説アリ。
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ふと横を見ると誰かいる
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はにゃ〜埴輪くんでした
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鷺沼城内には古墳(鷺沼古墳)が二つあります。こちらは箱式石棺がある古墳B先ほどの源太宮場所が古墳A
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石棺から猫さんお出まし…「吾輩の名前は鷺沼源太満義じゃ
〜(う)」
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遊具の前に堀が再現されてる??
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ほらほら堀でしょ
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眺望
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総評  ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★2つ)

新春第一弾のお城記事(行ったのは去年だけど)は鷺沼城址

公園として整備されている鷺沼城

台地上の広い曲輪は区画も不明で遺構は見当たりません

が雰囲気はあるかなぁ

歴史公園と言うよりは近所のおじいちゃんが散歩に来てうた

た寝しちゃうような憩いの場的な公園ですね。でも滑り台の前

にはお城を意識したと思われる(勝手に思わせてもらいますヨ)

横堀が再現されています

歴史もハッキリしてなくてデカデカと名前が刻まれた鷺沼源太

満義さんについても??が多い。同じ読みで鷺沼光義さん

て方が室町期に登場。『吾妻鏡』に源頼朝が石橋合戦後に

兵を駐屯させた場所として『鷺沼旅館』が出てくるのですが、

この『鷺館』がこの鷺沼城だとも云われています。

とにかく鷺沼氏のお城だったと言う事ですね


 市川城は、享徳の乱初期に発生した千葉氏内紛の際に、宗家側の生き残りであった千葉実胤・白胤兄弟が籠城したが康正2年(1456)、足利成氏に組する馬加康胤、原胤房に攻められ陥落(市川合戦)。この事により水運にて栄えた市河津を背後に持ち府中として栄えた市川は大きく衰退し、軍事的・経済的な要所は宗家方勢力(武蔵千葉氏)が落ち延びた武蔵国石浜城や江戸城、反宗家勢力(下総千葉氏)の拠点の1つであっ小金城に移ることになる。(Wikipediaより)

       
詳しい地図で見る
 
 
市川城の推定地・真間山の弘法寺
 天平9年(737)行基菩薩が建立して「求法寺」と称し、のち弘法大師によって伽藍が造営され「弘法寺」と改められたと伝えられています。元慶5年(881)天台宗となり、さらに建治2年(1276)法華経寺の開基
日常上人の義子日頂によって日蓮宗に改宗されました。(市川市
HPより)
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仁王門
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仁王門脇の土塁
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東の土塁上には鐘楼堂
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土塁上
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客殿
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伏姫桜 さすが里見ゆかりの市川
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眺望
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太刀大黒尊天
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里見龍神
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弘法寺の近くにある木内ギャラリー
明治から大正時代に活躍した政治家・木内重四郎が、別邸
として真間の高台に建築した和洋折衷様式の大正近代建築
物を保存するため、洋館部分のみを移築し、ギャラリーとして
公開しています。
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

康正2年(1456)千葉実胤・白胤兄弟が拠って市川合戦
 
台となった市川城(市河城)です。しかし場所は特定されてい
 
ませ 市川城国府台って同じじゃないのぉ?説もありま
 
が、当ブログでは違うお城とします。国府台城太田道灌
 
陣城が始りと云われていますし。
 
さて市川城国府台の台地のどこかにあった事は確実なの
 
ですが戦時中高射砲陣地となり台地は掘り起こされたりして
 
かなり改変されてしまっているので遺構は見つけられません。 
 
有力推定地が真間山の弘法寺を含む一帯
 
仁王門の脇に土塁がありますがこれ市川城のものなのか
 
は??眺望も利くし、元亨3年(1323)に千葉胤貞より寺領の
 
進を受けていて千葉氏と強い繋がりがある弘法寺、お寺を
 
陣城として利用したとも考えられす。真相は専門家の方々
 
の研究を待つことにして素人お城ファンのうちらは弘法寺散策
 
を楽しんで来ました 

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 茂侶神社周辺が花輪城跡。詳細不明だが交通の要所を押さえた戦国時代の城と考えられている。

 
 
花輪城跡茂侶神社  
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では境内に 右は『延喜式内 茂侶神社』の石碑
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堀跡
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切岸
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前方に土塁
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下から四段の平場があります。
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茂侶神社  通称・茂侶浅間神社。創建年代等は不詳ですが、延喜式神名帳に記載されている「茂侶神社」に比定される社。
城が機能していた頃からあったのかその後移転して来たのか…不明
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隣接する宮本中学も郭跡
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弘法大師が錫杖で掘ったところ、湧水が出たという伝説の
天の真名井。 学校グランド造営で水が枯れたしまったとか
学校の西側にありますがフェンスに囲まれていて入りずらい
感じ。でも鍵も開いていたし全然ウェルカム
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

東船橋駅の南西にある茂侶神社周辺花輪城跡です。
 
花輪城と言えば流山市にもありますが、ここ船橋の方がマイ
 
ナーですね
 
現在神社周辺には家が立ち並び窮屈状態ですが
 
かつては江戸名所図絵にも書かれた眺望の良い台地でした。
 
城跡の名残なのか神社南の参道から本殿まで四段の平場
 
なっていて参道途中左手に堀跡と云われる窪地と切岸が確認
 
出来ます。また三段目の平場には土塁らしき土盛り。
 
このようにホンの僅かですが城跡らしさが感じられます。
 
ちなみに石碑、案内板の類はありません
 
神社に隣接する宮本中学も城域だったらしく神社との間の道
 
堀跡の可能性があるとか。
 
中学校の西の天の真名井(湧水)。往時は水の手として利用
 
されていたでしょうね 
 
近くに京葉道路花輪ICがありますが、花輪城からの由来
 
なのか…もしや逆?? 謎多き花輪城でした。

 徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの1回だけであったが、秀忠は其の後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永7年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。(現地案内板より)

 
 
海老川の西側に船橋御殿はありました。海老川の名前は昔
この地に住む村人が源頼朝にエビを献上した事からとの説
もあるそうですよ
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御殿跡南の商店街を御殿通りと呼びます。
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御殿通りにある郷御蔵跡(年貢米などを保存していた蔵)
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御殿通りで道標を発見 ここで曲がります。この辺りはすでに御殿跡敷地ですが遺構は市街地化で消滅
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道の先に御殿廃止後の貞享年間に建立された東照宮
見えます。
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東照宮と御殿稲荷(右) 『全国で一番小さい東照宮』
謳っていますが…
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確かに狭い境内
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手水舎の横には感謝の木札が
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横から見るとこんな感じ。宅地の中に埋没状態
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以前訪れた埼玉県鴻巣市の東照宮(鴻巣御殿跡)
こちらの方が小さいと思うのですが…石祠だから比較対象
じゃない??
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所変わって船橋大神宮です。 東照宮(常盤神社)が造営されるとか。
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来年=平成27年10月にここに船橋・東照宮が完成…
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

全国で一番小さい東照宮』の東照宮ある船橋御殿跡
 
よくある鷹狩御殿=地方宿泊所で東金御成街道の監視等も
 
担っていました。徳川家康は一度だけ宿泊しています。
 
この地には船橋大神宮の宮司・富氏の館が中世からあって
 
御殿造営のため徳川幕府に土地(館ごと??)を献上しました。
 
伊奈忠政はここに船橋御殿造営。御殿廃止後に富氏に返
 
されました。そして御殿跡に富氏東照宮を建立 
 
現在の社は安政4年(1857)再建で1927年に修繕された
 
ものです。社の中家康像があるかなぁ〜と覗いてみると
 
像じゃなく家康の遺訓「人の一は重荷を…」の言葉が飾ら
 
れていました。手水舎には「家康公・秀忠公に感謝」の木札が。
 
数ある東照宮でもちゃんと「ありがとう!」を掲げているのは
 
ここだけかも。良いぞぉ
 
徳川との繋がりがある富氏船橋大神宮境内に元々あった
 
のかなぁ?キラキラ東照宮(常盤神社)造営されるようで
 
すが御殿跡の東照宮の影が薄くなっちゃう!?と要らぬ
 
心配をしてしまいました

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 千葉常胤の三男・三郎胤盛が武石郷を拝領し承安元年(1171)に構えた城館。胤盛は武石氏を名乗る。

 
    
詳しい地図で見る
 
まずは真蔵寺
武石胤盛が入水自殺した母の菩提を弔うために造営しました。
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応永2年(1294)武石当主となった武石胤晴胤盛の母の供養のために建立
したと云われる板碑。元は須賀原の愛宕古墳にありましたが開発のため真蔵院
移されました。
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正元元年(1259)武石長胤が建立。胤盛の守り本尊が祀られている波切不動堂
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波切不動堂横から裏の台地へ  
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台地上が武石城跡です。
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城跡の愛宕神社
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城跡は現在耕地。このラインが城跡っぽいですね。
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

京葉道路武石インター近くの真蔵院の裏の台地が武石城跡です。
 
現在『武石』の読み名は行政により『たけいし』に統一されていますが、昔は
 
たけし』でした。なので武石城=たけし城正しい読み方かと。
 
千葉の風雲・たけし城』です
 
現在城跡は耕地、宅地になり完全消滅ですが真蔵院には武石氏ゆかりの
 
モノも多く、馬加城跡同様に想像力を働かせて楽しみましょう。
 
源頼朝の御家人として平家追討、幕府開府に貢献した武石氏はその後、戦国
 
時代まで続きましたが、天文7年(1536)第一次国府台合戦で武石胤親
 
討死。武石氏は途絶えてしまいました。

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