馬加城の築城は、大須賀庄本郷に所領を与えられた千葉常胤の四男大須賀胤信によって治承4年(1180)に行われたとされる。胤信は後に埴生郡に移された。
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馬加城の築城は、大須賀庄本郷に所領を与えられた千葉常胤の四男大須賀胤信によって治承4年(1180)に行われたとされる。胤信は後に埴生郡に移された。
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かつて東葛地方には使役や軍役に用いる馬を確保するために小金牧という大きな放牧場がありました。金ヶ作陣屋は牧の管理を司る在地の役所でした。(現地標柱より)新八柱駅北口
柏葉台ハイツ
標柱の側面に説明書あり
昔、原宿で外人が度数の減らない改造テレカ売っていたのを思い出しました〜
住所もズバリ陣屋前
でも地名に残るのみですが…
総評 ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★2つ)千葉県の北総台地には江戸幕府が軍馬育成のために設置した広大な牧場
小金牧(5つの牧場からなる)がありました。その牧場の管理等をしていたのが
金ヶ作陣屋です。
今と違って昔馬は大事な交通手段であり、また武士のタシナミとして日頃より
鍛錬されていたのもの。なので馬の育成も大事な仕事だったのでしょうね。
陣屋のはっきりとした設置年は不明ですが享保17年(1732)くらいと考えられ、
長い歴史の中、常勤陣屋から出張陣屋に変わりましたが明治維新で廃されるまで
続きました。
現在陣屋は都市化の波で完全消滅。マンション前の標柱と『陣屋前』の地名のみ
が伝わるだけです
走して周りの田畑などを荒さないように構築した土塁や堀が残っているところもある
そうなので
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鎌倉時代初め頃、相馬小次郎の三男行常戸張八郎が居城し、約200年間続いたと伝えられています。2つの郭を直線的に配した連郭式の中世城郭。戸張城を南から望む。かつては手賀沼に浮かぶ舌状台地。
城内には文京区立柏学園が建っているので金網の中に切岸
期待の膨らむ切岸。でもどこまで続く…
校門前に到着。中に美味しい遺構ちゃんが見えます。しかし〜正月休みのため
(実は違った〜後述)閉ざされていますが…
この門の前で何百人のお城ファンが涙を飲んだ事か…大袈裟に言うとこんな感じ
かね
よくネットに出ている写真は柵越しに撮ったものなんだぁ
右側には見事な堀と土塁が残っています。この堀端に遺構図付き案内板がある
らしいですが…生徒と先生しか見れないやんけ!
本郭と二の郭の間の虎口の土塁
二の郭内には体育館が建ちます。片隅には弥生式住居が復元されているとの噂。
許可なしに探すのはマズイでしょ。
本郭の堀は建物建築のため半分のみです。
堀の内側には土塁
本郭内には校舎が建ちます。
総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)ネットの下調べで城内に学校が建っていて入れないのは分かっていましたが、
見事な堀の写真も掲載されているのでその部分だけ見れるのかと思っていたら
校門越しでした
正義=旦さまはすかさず学校に電話
休日当番の先生制度ってもうないんだぁ。「誰もいないなら本郭の堀だけ撮影させて
もらおうかなぁ〜」と旦さま。本郭虎口脇からおじゃま
か「誰もいない校舎から誰かが覗いている気がする
変な噂立てるなよ〜
結局遺構は正門前の二の郭の堀と土塁、本郭の堀と土塁が残っています。
その後問い合わせして判明したのは柏学園は普通の学校ではなく文京区の郊外
施設でなんと現在…閉園中!
は見学不可との事。 どうりで電話が通じない訳だぁ
もしこの先廃校になっても遺構はちゃんと保存して欲しいですね。その後の利用希
望は堀と土塁を復元しちゃって戸張城跡史跡公園ね
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「城成就して、3日に1度づつ雨降ること21度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城」と言います。戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532〜55)の後半になると、安房の里見義尭は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条氏の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直に仕え、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。
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慶安元年(1648)に保科弾正忠正貞が築造した陣屋跡である。正貞は信州高遠の城主保科家に生まれ早くから家康に仕え、大阪夏の陣で大いに活躍をした。慶安元年(1648)6月大阪城番となり前封と合わせ1万7千石を候籍に列し飯野を居所とした。元来陣屋とは陣営の事であるが江戸時代には城を持つことを許されなかった小藩主の居所を称した。この飯野陣屋は面積約13万平方m余で周囲に土塁や濠を廻らした広大なものであったと伝えられる。その堂々たる威容は城郭と比しても遜色なく後世、日本三大陣屋の一と称されたと言う。濠跡は幅5m、底部がV字形の薬研堀で、濠に沿って高さ約2mの土塁の一部も形を止めている。 |
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