旦さまと私

るなと旦さまの歴史バラエティブログ+音楽+美味しいもの

お城散策(千葉県)

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旦さまと千葉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 馬加城の築城は、大須賀庄本郷に所領を与えられた千葉常胤の四男大須賀胤信によって治承4年(1180)に行われたとされる。胤信は後に埴生郡に移された。
時代は下り室町時代後期には千葉満胤の長庶子馬加康胤が拠り、享徳の乱乗じて原氏組んで千葉胤直を滅ぼし、宗家の座を奪った。事態を知った将軍足利義政が介入したため原氏、馬加氏の支配は長くは続かなかった。馬加城の廃城時期は不明だが千葉胤豊が天文年間に在城したとの記録があり、戦国時代後期まで維持されたものと考えられている。
 城は花見川と浜田川とに挟まれた舌状台地上に位置する。開発により遺構は消滅したが、伝承等から城域が台地上に広く取られていたものと考えられている。(Wikipediaより)

 
 
すっかり日が短くなりました。日没後の馬加城跡を望む。ある意味凄く
目立つ城跡です。
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城跡の台地上に聳える高層マンション。ここには『ヤカタ』の地名が
残ります。
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城跡北部は京葉道路が貫通してますが…
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馬加城跡と同じ台地の南東に鎮座する三代王神社武石胤盛(子孫が馬加氏を名乗る)が領内の守護神として創建した明神神社に始まり、馬加氏に縁ある神社。
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今はコンクリ塀となっていますが2004年神社の斜面工事中にらしき
が二筋検出されました。
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なのでここは馬加城域と考えられています。馬加氏の本城だったので
それなりの規模だとしてもおかしくないのです。
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馬加城跡のある幕張と言ったら幕張メッセ。この日開催されたSKE48ミニライブ&握手会に参加して来ました。
旦さま木崎ゆりあちゃんるな松井玲奈さんと握手して夢心地に うちら相変わらずミーハー夫婦なのです
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総評  ★★☆☆☆  (私見  ★2つ)

馬加城〜決して『バカ城』と読んではいけませんヨ
 
そしたら殿さまはバカ殿になっちゃうし… 志村けんさん?
 
正解は『まくわり城』です。 まくわり→まくはり=幕張の語源になって
 
います。殿さまもまくわりし=馬加氏
 
高層マンション建設時に城跡の台地は削られ、均され遺構は消滅。この時
 
中世の遺物は検出されなかったそうです。マンションに帰るため自転車
 
押して坂道を登るおじいちゃんを見ましたが、辛そうでした。おじいちゃ
 
にとっては今も要害の地のようです。
 
三代王神社の伝説〜馬加康胤奥さんの出産時に三代王の神さま
 
康胤夢枕に現われ『私は安産の神です。私を手厚く保護すれば無事に
 
産出来ますよと告げました。康胤は祈祷し、出産後にはお礼にと、
 
社殿を造営したそうです。
 
神社の斜面より検出された堀らしき溝が馬加城の遺構だとしたら
 
唯一、貴重なものですね。今はコンクリで覆われただの壁ですが
 
マンションの台地から南東約400mくらいなので併せての散策をオススメ
 
します。オススメと言っても城跡標示もないので妄想力をフルに使わないと
 
楽しめませんが 

 かつて東葛地方には使役や軍役に用いる馬を確保するために小金牧という大きな放牧場がありました。金ヶ作陣屋は牧の管理を司る在地の役所でした。(現地標柱より)

 
 
新八柱駅北口を真っ直ぐ北上。この辺りが金ヶ作陣屋跡
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柏葉台ハイツの前に標柱あり
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標柱の側面に説明書あり 右端に今や珍しくなった電話BOXがありますね。
昔、原宿で外人が度数の減らない改造テレカ売っていたのを思い出しました〜
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住所もズバリ陣屋前
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でも地名に残るのみですが…
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

千葉県の北総台地には江戸幕府が軍馬育成のために設置した広大な牧場
 
小金牧(5つの牧場からなる)がありました。その牧場の管理等をしていたのが
 
金ヶ作陣屋です。
 
今と違って昔馬は大事な交通手段であり、また武士のタシナミとして日頃より
 
鍛錬されていたのもの。なので馬の育成も大事な仕事だったのでしょうね。
 
陣屋のはっきりとした設置年は不明ですが享保17年(1732)くらいと考えられ、
 
長い歴史の中、常勤陣屋から出張陣屋に変わりましたが明治維新で廃されるまで
 
続きました。
 
現在陣屋は都市化の波で完全消滅。マンション前の標柱と『陣屋前』の地名のみ
 
が伝わるだけです 今度は小金牧の跡も見学も見学したいなぁ〜と。馬が脱
 
して周りの田畑などを荒さないように構築した土塁や堀が残っているところもある
 
そうなので

 鎌倉時代初め頃、相馬小次郎の三男行常戸張八郎が居城し、約200年間続いたと伝えられています。2つの郭を直線的に配した連郭式の中世城郭。

 
     
詳しい地図で見る
 
戸張城を南から望む。かつては手賀沼に浮かぶ舌状台地。
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城内には文京区立柏学園が建っているので金網の中に切岸
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期待の膨らむ切岸。でもどこまで続く…
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校門前に到着。中に美味しい遺構ちゃんが見えます。しかし〜正月休みのため
(実は違った〜後述)閉ざされていますが… 
この門の前で何百人のお城ファンが涙を飲んだ事か…大袈裟に言うとこんな感じ
かね
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よくネットに出ている写真は柵越しに撮ったものなんだぁ 左の土塁は櫓台
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右側には見事な堀と土塁が残っています。この堀端に遺構図付き案内板がある
らしいですが…生徒と先生しか見れないやんけ!
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本郭と二の郭の間の虎口の土塁 
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二の郭内には体育館が建ちます。片隅には弥生式住居が復元されているとの噂。
許可なしに探すのはマズイでしょ。
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本郭の堀は建物建築のため半分のみです。
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堀の内側には土塁
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本郭内には校舎が建ちます。
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見  ★3つ)

ネットの下調べで城内が建っていて入れないのは分かっていましたが、
 
見事な堀の写真も掲載されているのでその部分だけ見れるのかと思っていたら
 
校門越しでした 学校側に了解を得たら見学可の噂もあるので交渉人・真下
 
義=旦さまはすかさず学校に電話でも出ません。正月の5日だからね
 
休日当番の先生制度ってもうないんだぁ。「誰もいないなら本郭の堀だけ撮影させて
 
もらおうかなぁ〜」と旦さま。本郭虎口脇からおじゃま。でもやましい気持ちのせい
 
誰もいない校舎から誰かが覗いている気がする」〜と(出ません。オイオイ
 
変な噂立てるなよ〜) 小心者丸出し速攻のご還でした(笑) 
 
結局遺構は正門前の二の郭の堀と土塁本郭の堀と土塁が残っています。
 
その後問い合わせして判明したのは柏学園は普通の学校ではなく文京区郊外
 
でなんと現在閉園中! なので常勤職員がいないので校内の城跡
 
学不可との事。 どうりで電話が通じない訳だぁ
 
もしこの先廃校になっても遺構はちゃんと保存して欲しいですね。その後の利用希
 
望は堀と土塁を復元しちゃって戸張城跡史跡公園

 「城成就して、3日に1度づつ雨降ること21度なりしかば」(『久留里記』)と言う説から、別名を「雨城」と言います。戦国期の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城もその一族の居城でした。天文年間(1532〜55)の後半になると、安房の里見義尭は上総に進出し、本拠地を久留里城に移します。永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は北条氏に敗北、久留里城も一時、北条氏の手に落ちています。しかし、2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧します。その後、北条氏の勢力に押され、天正五年(1577)、里見義弘は北条氏と和睦します。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房の岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれています。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、里見氏は勝手な行動を取ったという理由から、上総の所領を没収されました。以後、関東は徳川氏の支配となり、久留里城には大須賀忠政が三万石、慶長7年(1602)には、土屋忠直が2万石で入城します。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家二代目の利直に仕え、18〜21歳までの青年期をこの久留里で過ごしています。三代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、領地召し上げ、廃城となります。
 約60年後の寛保2年(1742)、黒田直純が三万石の藩主となり、幕府から五千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興しています。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、九代直養の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられます。(案内板より)

久留里城図 山麓の近世部分と城山があります。大きなお城ですね。
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三の丸から城山を見上げる
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資料館(一階は撮影OKですが二階は。天守のみの模型は二階のため撮影
出来ませんでした)の模型で見てみましょう。
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三の丸は耕地や宅地になっていますが、土塁や田んぼとなったでその姿
を垣間見る事が出来ます。
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駐車場から舗装された心臓破りの坂道で  尾根道では曲輪堀切などの遺構を
登城。途中尾根道のハイキングコースへ。 見る事が出来ます。 火薬庫跡
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       堀切             舗装道路側はコンクリで埋められています
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薬師曲輪から山麓の三の丸&外郭を。
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久留里城資料館新井白石像がある二の丸にはが復元されています。
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    天神曲輪              水が豊富で籠城戦を持ち堪えられました。
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昭和54年生まれです〜の模擬天守に到着。内部に資料展示はなくザ・展望台
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浜松城模擬天守を模したので久留里城モギモギ天守?
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隣には発掘され保存されている天守台  本物はこんな感じの天守だったそうな
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本丸から南東(怒田方面)尾根の遺構散策へ  岩盤堀切がお見事。
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小さめの曲輪が連続。             尾根の最端 二重堀切
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総評  ★★★★☆  (旦さま私見 ★4つ)

二度目のくるりん久留里城ですが前回は駐車場→舗装坂道→資料館→模擬天守
 
の王道観光ルートでしたので今回は尾根伝いの遺構と山麓近世遺構も含めて
 
散策して来ました 全部は見れなかったけど…
 
土屋氏時代に廃城になった久留里城を寛保2年(1742)再び整備した黒田直純
 
すが、この時山麓に三の丸外郭を構築して、山城(里見氏本拠だけあって元から
 
大きい)部分と合わせて巨大なお城になりました。でも良く使われていたのは山麓部
 
分でしょう。三の丸部分は縄張図を見堀に沿って道路があるし、低くなっていま
 
すが櫓台跡の土盛も分かります。城山みたく「○○跡」の標柱があればもっと楽しめ
 
るの
 
駐車場から舗装道を登り、途中「探鳥路」の→に従い尾根道を行けば比較的大き
 
な曲輪をいくつか通過しながら資料館のある二の丸へ辿り着きます。
 
資料館は無料だし、全体の推定復元模型、天守の推定復元模型、絵図もあって
 
ここは必見です。天守は模擬天守のような高欄付き望楼風ではなく一層目だけ下
 
張り至ってシンプルな白亜二重天守(形は宇都宮城の櫓似)だったようです。
 
史実とは違いますが、残念ながら模擬天守(でも天守はあったから復興天守??
 
の方が全然カッコイイ
 
本丸から一段下っての怒田方面尾根里見氏時代遺構と云われています。
 
岩盤を利用した堀切二重堀切など、お馴染みの中世城郭の景色。ここも
 
ハイキンコースになっているので散策しやすいです。
 
北西尾根と尾根続きの古久留里城は時間の関係で見れませんでしたが、遺構
 
があり、標柱も多く、尾根も整備され、無料(ここが重要ね)資料館、天守もあると、
 
二度目にして好印象な久留里城でした。

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 慶安元年(1648)に保科弾正忠正貞が築造した陣屋跡である。正貞は信州高遠の城主保科家に生まれ早くから家康に仕え、大阪夏の陣で大いに活躍をした。慶安元年(1648)6月大阪城番となり前封と合わせ1万7千石を候籍に列し飯野を居所とした。元来陣屋とは陣営の事であるが江戸時代には城を持つことを許されなかった小藩主の居所を称した。この飯野陣屋は面積約13万平方m余で周囲に土塁や濠を廻らした広大なものであったと伝えられる。その堂々たる威容は城郭と比しても遜色なく後世、日本三大陣屋の一と称されたと言う。濠跡は幅5m、底部がV字形の薬研堀で、濠に沿って高さ約2mの土塁の一部も形を止めている。
 会津藩は本家にあたり、会津藩が相模と房総沿岸の警備を命ぜられた時、飯野藩が名代となり、弘化4年(1847)より嘉永6年(1853)迄、房総沿岸警備を命ぜられた。
飯野藩歴代の藩主は、大阪定番、加番や江戸城門番を勤めることが多く、陣屋には代官がいた。禄高のうち、飯野周辺は3千石で、大部分は関西地方にあった。(現地案内板参照)
 

    
 
 
飯野陣屋縄張図  大手口が複雑ですね。
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大手口にある石碑&案内板
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大手口横の
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大手門跡土塁です。縄張図によると枡形2連チャン?だった。
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陣屋内は広いぃぃ…  遠くに見えるのは飯野神社
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参道より本丸東南方面
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飯野神社が鎮座するのは二の丸です。
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三条塚古墳の先端とです。古墳は物見に使ったのかな。幕末の藩校造営で
古墳の東側を一部削ったらしいです。いつの時代も史跡破壊はあるのね
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陣屋を取り囲むをぐるっと歩くとその広さを体感出来ますね。
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でもでも…一部はゴミだらけ
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BEATLESファンの旦さまが思いきり食い付いた陣屋のすぐ近くにある
CUT STUDIO〜その名も『BEATLE』
Sがないから著作権には引っ掛からないのかなぁ??もちろん得意はマッシュルームカット?
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ところ変わり浄信寺(富津市青木887)の飯野藩2代目藩主・保科正景のお墓。
地元にお墓があるのはこの正景だけだそうです。
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飯野藩会津藩のお話…
会津初代藩主・保科正之飯野初代藩主・正貞義兄弟なのです。正貞は文禄3年(1594)子のいなかった兄で遠藩主・保科正光の養子になりましたが元和3年(1617)徳川秀忠の隠し子正之が養子になると廃嫡。元々兄と仲が悪かったので元和8年(1622)保科家を出て諸国を放浪。桑名藩に身を寄せていた寛永6年(1629)幕臣に取立てられました。その後1万7千石で大名になり飯野藩が成立。大名出世に関しては保科正之将軍家光にお願いしたらしいのです。保科家当主の座を奪った形になったのを詫びたのかな。正貞正之から保科家の宝物などを譲られます(これって返却?)「これから正貞どのが保科家嫡流ですぞぉ」とね。と、言う事で飯野藩会津藩保科家(後に松平ね)の支藩となりました。
 
 
正景のお墓の隣には静廣院のお墓。この方は会津鶴ヶ城に籠城したあの照姫さま
のお母さんです。
イメージ 6
 
 
時代は下って…会津戦争の首謀者とみなされた「会津藩家老・萱野権兵衛を斬首せよ!」の命令が新政府から飯野藩主・保科正益に下りました飯野藩は新政府に帰順。しかし会津支藩なので正益は謹慎処分)一族だからわざとやな〜正益の実妹である照姫さま権兵衛に切ない思いを歌に詠み伝えました。正益は命乞いは無理なので、せめて武士らしく死なせてやりたいと権兵衛を切腹させてやりました。新政府には斬首したと伝え…
 
 
 

総評  ★★★☆☆  (旦さま私見 ★3つ)

かつては日本三大陣屋の一つ(どうだぁ)!と称えられた飯野陣屋です
 
日本三大陣屋と言っても日本三大名城と比べちゃぁいけませんぜぇ
 
ちなみに他の2つは敦賀陣屋(福井県)と徳山陣屋(山口県)なんだって。
 
高山陣屋は入っていないんだぁ… お城みたいな構え陣屋ベスト3なのかな。
 
今も広大な敷地の陣屋を囲むが残っていますが、南側のにはゴミがいっぱい
 
捨てられていて非常に腹立だしい… せっかくの三大陣屋の名が廃りますぜぇ。
 
往時は本丸・二の丸・三の丸が存在していましたが、区間していたが殆んど埋
 
められてしまっているので現状では巨大な単郭陣屋のようになってます 陣屋内
 
部は民家、畑、飯野神社、古墳で公園として整備されているわけじゃないので
 
ごちゃごちゃした感は否めない。広大な遺構なのにもったいないです。
 
会津戦争で鶴ヶ城に籠城した照姫さま(来年の大河では稲森いずみ)は飯野藩主・
 
保科正丕(まさもと)の三女として生まれ、10歳で会津藩主・松平容
 
養女となりました。鶴ヶ城落城後は和歌山藩お預けでしたが後に飯野藩
 
かりになり何十年振りかに実家に戻った事になりますね。なので飯野陣屋
 
姫さ生の地かと思ったら、生まれたのは江戸の飯野藩上屋敷でした…

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