旦さまと私

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お城散策(千葉県)

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旦さまと千葉県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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「まりが谷城」とも呼ばれたこの城は、戦国時代の初期にあたる康正2年(1456)上総国に
進入した甲斐(山梨県)の武田信長(武田信玄の五代前の先祖)が庁南城(夷隅郡長南町所在)
と共に上総地方を支配するため築いたもので、この地方の中心となった山城といわれています。
 城は千畳敷と呼ばれる主郭(本丸)を中心に東西700m、南北400mにわたって山全体を
大きく人工的に造り変えています。城は主な出入口となる大手道を守るように四つの部分からなり
敵の進入を防ぐための土塁や曲輪などが造られています。主郭の前面(南側)には、自然の谷を利
用して大きな掘切(大掘切)を設けています。非常時の逃げ道となる搦手道を主郭の北方の尾根
に造り、万田野を通って市原方面へ退くよう造られています。
 この真里谷城は、永正4年(1517)から天文3年(1534)までの約20年間が全盛期で
あったようで、武田と里見の連合勢が北条勢にやぶれた国府台合戦(1536)以後、武田氏一族
の勢力が衰えるとともに力を失い、豊臣秀吉が関東を平定した天正18年(1590)、真里谷信
高の代に城は廃止されました。(案内板より)
真里谷城の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.3438177563218&lon=140.11220873437284&z=17&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.343642726882045&hlon=140.11229992947952&layout=&ei=utf-8&p=

真里谷城概要図〜山全体に構えられた曲輪から成るお城です。
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四の郭〜車で主郭に上る途中に四の郭、三の郭があります。でもヤブだらけ(^-^ゞ
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主郭部到着寸前に我々の前に立ちふさがる立ち入り禁止のフェンス…よく見ると車両通行禁止でした。
よってここから徒歩で散策。正面に少年自然の家管理練があります。
本来は麓にあった駐車場に停めるのでしょうね。
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城山神社
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城山神社の本尊である武田信長公像。分かりずらいでしょうが、胸には武田菱が。
武田信長は甲斐国13代当主・武田信満の次男で康生2年(1456)古河公方足利成氏の命を受けて
上総に侵入し、真里谷城、庁南城を築きこの地方を支配しました。房総武田氏の祖です。
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堀切
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バンガローとキャンプ施設のある東腰曲輪からの眺め〜山深いところです。
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主郭の南に位置する南腰曲輪
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千畳敷とも呼ばれる広い主郭
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主郭の土塁上から下を見るの図
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主郭虎口
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西腰曲輪〜ここにもバンガローとキャンプ施設が並んでいます。
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大堀切〜標柱もあるのですが、竹ヤブでよく分かりません(;^ω^A
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)


『まりや嬢?』…かわいい名前と思っていたら『まりがやつ城』でした…(^-^ゞ

関係ないけどT−BOLANの歌は「マリヤ」じゃなく「マリア」でしたね。

他にも「マリア」って曲あったなぁ〜黒夢とか。あゆは「M」か…

話を真里谷城に戻しましょう。主郭下腰曲輪にキャンプ施設(少年自然の家)があり、そのおかげで

主郭部周辺は整備されていて散策しやすいです。

しかし、その他の曲輪(三の郭、四の郭も)は凄いヤブで突入する気力が失せました…( ̄△ ̄)

真里谷城最大の見所はその名前の通りに広くて千畳敷と呼ばれる主郭の土塁と桝形虎口ですネ。

土塁はこの手の山城には見られないほどの高さがあり、しかも幅広です。

枡形虎口は正面の壁が高く、その上、枡形部分が長大で横堀の底にも思えます。

そして気になるのは築城者の武田信長公(*^ー゜)b  武田信玄と織田信長の夢のコラボ??

このお方は戦国初期の武将なので信玄や信長が生まれるずっと前からこの名前だったと。

名前もそうですが、甲斐から遠く離れた木更津の地を武田の分家が治めていたとは驚きです。

さすが甲斐源氏、手広くやっていますね。途中から真里谷氏を名乗ってしまうのが残念ですが…

木更津市街地から離れた山奥にありますが、見応えあるお城でした(*^ー゜)b
                           
 戦国時代に造られた城跡は東葛地方でも数多く確認されていますが、市内ではっきりと城跡と
確認されているのは佐津間城だけです。この城跡は手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約25mの台
地上に立地し、規模は100m四方あり、北側と西側には土塁と堀が比較的良好な状態で残って
います。
 南北朝時代頃(14世紀)まで佐津間村は今の取手市辺りを中心に支配していた相馬氏の領地
でした。しかし、戦国時代後半には大谷口城(松戸市小金)の高城氏の支配下にあったと考えら
れているので、その配下の豪族の砦として利用されたものでしょう。なお、城跡北西側に隣接し
た地点から、文亀3年(1503)銘の題目板碑が出土しています。また、付近には「北根郷屋」
や「屋敷裏」など、城と関連する小字地名が残っています。(現地案内板より)
佐津間城の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.7979160883084&lon=140.00335326414955&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=35.79792914130567&hlon=140.00334253531346&layout=&ei=utf-8&p=

東より佐津間城を望む
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北側に城跡の名残らしき林が…
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台地下には案内板があります。
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台地上の民家脇の駐車場からを見下ろす。
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堀底です。
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郭内〜小さな祠が祀られています。ここは主郭なのかな。
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郭内には土塁もしっかり残っています。
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虎口らしき場所。倒れた竹が立ち入り禁止のようにも見える…
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帰りもを渡って城壁をよじ登らないと出れません…( ̄。 ̄)
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)


千葉県にあるけど佐津間(さつま)城です(^-^ゞ

比高10m程度の台地上にあるのですが、東側から眺める古城の佇まいが良いです。

案内板横の階段を登ると城内に入れるかと思いきや、そこは住宅地!

入口がなぁ〜い( ̄Д ̄; 台地上の民家横の駐車場から堀が見えるので、ここから堀に下り、

城壁をよじ登って郭内に侵入です。実戦さながらやないかい〜ヽ(´o`;

久々の荒れた城内にドキドキ。昔に捨てられたと思われるゴミもあるし…怖いなぁ。

郭はこの一つのみが残っているのですが、完存です。(たぶん(^-^ゞ)

北から西にかけての堀も、郭を廻る土塁もお見事!ヾ(@^▽^@)ノ 櫓台と思われる箇所もあります。

ただし荒れ放題(ノ_<。)

せっかくなんだから整備して公開すれば良いのに。

虎口らしき箇所から城外に続く道を辿ると、案内板横の民家の庭先に出られるようです。

しかし、思い切り母屋の前を通らないとなので、この道はダメ。仕方ないのでまた堀を渡って脱出。

遺構は見事ですが、疲れた佐津間城探検でした。
                       『若宮館』
 鎌倉時代の中頃、下総国の守護千葉頼胤に仕えた富木常忍は、八幡荘若宮と呼ばれたこの地に館
を構え、幕府のある鎌倉との間を往復しました。そこで、たまたま布教に懸命だった日蓮と出会い
熱心な信者となったのです。
そうしたところから、文応元年(1260)日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷で焼き討ちにあったとき、こ
の常忍を頼って若宮に難を逃れました。この時、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮を迎えて説法
を願いました。さらに若宮に身を寄せました。この若宮法華堂で開かれた日蓮の説法は、実に百回
に及んだといわれます。この地が日蓮の「初転法輪の旧跡」とされるのは、この理由からです。
このことで中山の大田乗明、曽谷の曽谷教信など、日蓮の信者になった人々は多く、また日蓮にま
つわる数多くの伝承も残されています。
 弘安五年(1282)日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺と称し
ました。この法華寺は後に中山の本妙寺と合体して法華経寺となり、日常を第一世とし、法華寺は
奥之院と称されるようになりました。
 いまでも土が高く盛られ、大樹の繁っている部分は、往時の館を取り囲む土塁の一部で、この館
の跡を「若宮館跡」と呼んでいます。(現地案内板より)
若宮館の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.72132480175164&lon=139.95359698013283&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=off&hlat=null&hlon=null&layout=&ei=utf-8&p=

法華経寺の奥ノ院若宮館跡です。
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石碑もあります。
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同じ内容ですが案内板はふたつあります(*^ー゜)b 昭和版は手書き。
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そして平成版です。両案内板の挿絵はこの館の法華堂で説法する日蓮さん。
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本堂です。
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境内を取り巻く土塁(西側)
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本堂から土塁を見下ろす。
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こちらは南側の土塁です。
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館主・富木常忍改め日常上人の像
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総評 ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


日蓮ゆかりの地でもある若宮館跡です。

中山の法華経寺には何度か初詣に行きましたが、その奥ノ院が鎌倉武士の館跡だと初めて知りました。

奥ノ院の四方を囲む土塁は入口部分を除いて良く残っていますよ。

ただコンクリ塀に囲まれているのが残念ですが。お寺に沿った道は堀跡かな。

境内にお坊さんの像があったので「おぉ日蓮だ」と思ったら、日常(富木常忍)でした。

館としてより日蓮史跡として注目される若宮館跡ですが、土塁遺構、石碑、案内板も2種類あります

ので鎌倉武士館跡としては中々のとこかと。
                『貝渕陣屋(桜井陣屋)』
 11代藩主・徳川家斉のお側御用取次役・林肥後守忠英は文政10年(1828)若年寄に
昇進、3000石の加増を受け大名となり、その後、5000石の加増を受け、貝渕に陣屋を
構築しました。しかし、家斉没後に忠英は職を免じられ隠居。後継者となった忠旭は嘉永3年
(1850)に真武根陣屋を築き移ったためにこの貝渕陣屋は廃されました。
 慶応4年(1868)徳川家達の駿河移封にともない松平(滝脇)信俊が上総に移封、翌明
治2年(1869)旧貝渕陣屋の地に藩邸を移し、桜井陣屋としました。明治4年(1871)
7月廃藩置県が行なわれると11月には上総・安房地域の16の県が再編され、木更津県が旧
桜井藩邸を庁舎に、選擇寺(木更津市中央)を官舎に発足しました。しかし明治6年6月、木
更津県は廃止され、千葉町に県庁を置く千葉県が誕生しました。
貝渕陣屋の地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.36844617&lon=139.9251019&sc=2&mode=map&pointer=on&home=off


貝渕陣屋は宅地になって消滅。その中に説明板、石碑が建っています。
イメージ 1



石碑と言っても『陣屋跡』ではなく『木更津県史蹟』ですが…
案内板には陣屋についての記載があります。
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この植え込み、実は土塁跡なんです。
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南側の植え込み〜これも土塁跡ですよぉ!
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総評 ★☆☆☆☆ (私見 ★1つ)


真武根陣屋の前に請西藩が陣屋を構えていたのが、ここ貝渕の地です。

真武根に陣屋が移った後にも下屋敷として機能していました。

林忠嵩さんの戊辰参戦後に請西藩は取り潰され、領地は飯野藩の預かりとなっていましたが、

徳川宗家の駿河移封で押し出された小島藩主松平信俊がこの貝渕陣屋を使用して桜井藩を

立ち上げたので、貝渕陣屋は桜井陣屋として復活を遂げたわけです^^

その桜井陣屋は木更津県庁に変身!と、言う経緯で『木更津県史蹟』碑が建っているのです(*^-^)b

石碑が建つ植え込み(?)なのですが、往時は方形に囲んでいた陣屋の土塁跡で、西と南側部分が

残存しています。
               『真武根陣屋』市指定文化財
 真武根陣屋は徳川幕府の譜代大名であった二代藩主の林播磨守忠旭が、嘉永3年(1850)に
造営した請西藩の陣屋です。藩主及び家臣の詰め所として使用され、貝渕の陣屋を下屋敷というの
に対し、上屋敷と呼ばれていました。
 請西藩は石高1万石の小藩ながら、伏見奉行など幕府の要職を勤めていた家柄です。また、故事に
習い将軍が元旦に食べる雑煮に入れた兎肉を代々献上していました。
 慶応4年(1868)4代目藩主の林昌之助忠嵩は、戊辰戦争において佐幕派に属し、木更津に集
結した遊撃隊の伊庭八郎と共に箱根や奥羽地方を転戦した後、仙台にて降伏しました。この出陣の際
自ら火を放ち真武根陣屋は焼失、その後、領地も新政府に没収されました。(現地案内板より)
真武根陣屋への地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.36285127&lon=139.93948721&sc=6&mode=map&pointer=on&home=off


真武根陣屋跡推定復元図
イメージ 1



木更津中央霊園前に建つ真武根陣屋跡石碑
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二種類の石碑にはそれぞれ説明文が刻まれています。
イメージ 3



陣屋跡は荒れ放題
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西端に『請西藩戊辰殉難者慰霊碑』があります。
殆んどの家臣は忠嵩さんと行動を共にして転戦しました。
イメージ 5



陣屋跡からの眺望はこんな感じで、請西城跡の丘陵南部を利用して築かれています。
イメージ 6



この林の中に遺構が眠っているかも…?荒れ放題で突入は無理×
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「さぁ〜帰りますか」と車に戻ったら、「み〜」と子ネコちゃんが登場。
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v(≧∇≦)vきゃ〜♡あまりの可愛さに記念写真。
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総評 ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


戊辰戦争に参加して昭和16年まで生きた、正真正銘のラスト大名・『林忠嵩』の請西藩の

真武根陣屋です。戊辰戦争が勃発すると19歳の若き藩主・忠嵩さんは自ら脱藩して、真武根陣屋

に自ら火をかけ、旧幕軍の遊撃隊らと共に官軍と戦います。しかしこの時、林家を良く思わない水野

忠邦に任された河川工事のために藩の財政はすでに破綻寸前で、一か八かの苦肉の策だったとも…

後継者を定めてなかった忠嵩さん、仙台で降伏後、戊辰戦争で唯一のお家取り潰しになった藩になっ

てしまいました。明治になって許され士族として困窮した生活を送っていましたが、最後は従五位を

授かり、昭和16年1月22日娘さんの経営するアパートで江戸、明治、大正、昭和と4時代、94歳

の波乱万丈の人生を終えました。『アパート』の響きが、現代まで生きていた方と実感。

もっと知りたくなったので、『脱藩大名の戊辰戦争〜上総請西藩主・林忠嵩の人生』(中公新書)を

購入することにします(*^-^)b

さて真武根陣屋ですが、石碑ある場所のみが史跡指定されていますが、ここは陣屋のはずれで肝心の

陣屋跡は荒地です。

しかも地主さんが史跡に理解の無い方らしく、遺構を徐々に破壊しているらしいのです…(ノ_<。)

石碑から見える更地の遺構はすでに破壊されていて、林の部分に遺構が眠っているらしいのですが、

これまた凄いヤブで突入は不可能、縄張り図にある複雑な土塁を見る事は出来ませんでした。

博物館職員の方が調査願いに訪れても「何しに来た!帰れ〜」と追い帰される始末だとか…

歴史に埋れた忠臣、脱藩大名・忠嵩さんの貴重な遺跡なのに…残念でなりません。

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