旦さまと私

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お城散策(神奈川県)

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旦さまと神奈川県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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 神明大神宮の周辺一帯は、大庭御厨の領主で源氏の御家人・大庭景能(景義)の懐嶋館があった地です。景能は土地の名前から懐嶋氏と姓を改めます。嫡子・景兼の時代に和田の乱が起こり北条氏と戦いましたが戦死。所領も没収され懐嶋氏は滅びました。

 
 
懐嶋館跡である神明大神宮
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がん封じの石 お参りしなきゃ
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注目して欲しいのは案内看板じゃなく看板の横にある小さな石碑
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懐嶋館土塁址の碑ですから
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石碑もあります。 あれっ後ろに誰かいるぞぉ〜?
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「みなさんコンニチワ私が懐嶋景能です」 おやぁ〜どこかで見た顔だぞぉ?
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畠山重忠ですが、私に何か?」  懐嶋景能さんと似ている??
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景能公の供養碑
 高橋庄平家、屋敷内に大正15年10月9日に建立された供養碑は高橋藤吉氏が眼を患ってからある夜、大庭景能が夢枕に立ち、自分の供養碑の建立を懇願され、目の完治を約束た。兄、高橋豊蔵氏と共に懐島館の西方内堀北側に供養碑を建立するとたちまち、眼は治癒し効果が現れ、平成16年11月21日境内に移された。(案内板より) ←内堀跡に高橋さん宅があった?
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   懐嶋ゆかりの五輪塔
供養碑建立時に内堀跡から出土。       供養碑と五輪塔の案内板
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懐嶋景能公・景兼公の層塔と顕彰碑
景能ゆかりの鶴岡八幡宮源平池、鎌倉懐嶋平権守景能邸跡、大庭小次郎景兼ゆかりの和田塚、三か所の土をいただき、鶴岡八幡宮若宮において、お祓いを受けて層塔内に納めお祀りしています。(案内板より)
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吾妻鏡の碑 景能について記載されている部分が刻まれています。
810余年前のことです。源頼朝は、命令に従わない奥州の藤原泰衡を討つために、多数の軍勢を集めて、後鳥羽天皇からの出陣許可を待っていました。しかし、なかなか許可が下りません。困った頼朝は、兵法に詳しい景能を呼んで意見を尋ねました。「泰衡はあなたの部下です。部下をこらしめるのに天皇の許可はいりません。直ちに進発なされるがよい」と。なるほどと決心のついた頼朝は大変喜び、景能に馬一頭を授けて感謝しました。(案内板より)
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江戸時代に出土した館跡の礎石
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沢山関連モノがあるので境内案内図を見て見落としがないようにしましょう
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堀跡と思われる耕地
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見  ★2つ)

 サザンオールスターズ復活記念と言うことで(深い意味はナイですよ
 
サザンビーチのある茅ヶ崎市懐嶋館を紹介します。
 
懐嶋=ふところじまさん〜珍しい苗字ですなぁ。源義朝に従い保元の乱に参戦。
 
しかし源為朝の強弓を膝に受け負傷。この時為朝「自分の矢が外れたのは不思
 
議だ。日本中で運の良い武将を探しても大庭景能ほどの者はいないであろう」
 
口惜しく語ったそうです。為朝大河でカッコよかったですねぇ。
 
館の鬼門に伊勢神宮を勧請したのがはじまりと伝わる神宮大神宮を含む一帯が
 
館跡で、遺構はありませんが、境内には懐嶋景能公像をはじめ、城址碑供養
 
顕彰碑連モノがいっぱい。まさにミニ懐嶋景能テーマパーク
 
地元の方に愛されいるお方のようですね
 
また、よ〜く注意しないと見過ごしてしまいそうな小さな土塁址碑も見所のひとつ。
 
埼玉の山根城跡碑、東京の奥沢城跡碑も小さっと思ったけど多分今まで見た中で
 
一番小さい碑かも 

 三浦一族滅亡の地、新井城は、面積約128ヘクタールの天険をそのまま利用した自然の要害でした。すなわち、相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と、油壺湾にはさまれて、三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通ずる路は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。引橋は後に地名になりましたが、ここで北条勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間もちこたえたのですから、三浦一族の執念もさることながら、城としても、すぐれた構えであったのでしょう。いずれにしても、室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことが出来ます。 (現地案内板より)

新井城図(『関東の名城を歩く〜南関東編』より) 赤線はハイキングコース
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内の引橋跡  三方を海に囲まれた新井城はここにあった引橋を離すと陸路は
なく要害堅固な島城になりました。ガードレールの下には堀切が確認できます。
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東大地震研究所入口から郭沿いにハイキングコースがあります
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城塁を見ながらのハイキングコース
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ハイキングコースを進むと主郭の堀が右に現れます。しかし!郭内は東大地震研究所敷地のため立ち入り禁
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 仕方ないのでフェンス越しに主郭(左)の堀を見学
ここから先がお城ファンにとって夢のワンダーランドなのに
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ハイキングコース左手に広がる油壺湾 新井落城時、多くの城兵らが身投げし、
海面はその血で油のように赤黒く染まったと謂れがあります
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主郭先の二の郭立ち入り禁止
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荒井湾から望む新井城  安政の大地震、関東大震災により断崖絶壁の岩場
地形が今みられる岩と砂浜になったそうです。
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三崎まぐろラーメンも食べれる油壺マリンパークがあるのは三の郭跡
旦さまは小学校の遠足でここに来たそうなので、人生初の中世城郭跡訪問は
新井城となりますね
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マリンパークの駐車場内に怪しげな茂みが…
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その中には…新井城の石碑発見
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その隣に三浦義意公(同寸公の息子さん)の墓所
このお方は身の丈7尺あまり、分かりやすく言うと約2、1mでジャイアント馬場さんとほぼ同じ。75人力と言われその剛勇ぶりが伝わります。
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出郭跡にある三浦同寸公の墓所への道。両サイドは深い
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三浦同寸公の墓所 鎌倉御家人からの名門家を自らの力で継ぎましたが、
新興勢力北条氏によりどんどん追い詰められてしまいました。皮肉なもので
三浦氏を追い込むのはいつでも北条氏…鎌倉時代は北条氏、戦国時代
北条氏
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辞世の句…
  「討つものも 討たるるものも かわらけよ くだけてあとは もとの土くれ」  武士の無情さが心に沁みます
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見  ★3つ)←非公開の遺構が見れたと仮定して。

三崎城の次と言えばこの新井城でしょ!
 
油壺マリンパークのある半島がその地で、遺構が良く残る東大地震研究所
 
地は主郭部と考えられています。しかし非公開で涙、涙…
 
情報によるとかなり美味しい部位があるそうですよぉ。
 
ハイキングコースで見れる部分を楽しむしかないですね。
 
他にも遺構は散在しているのでそれらも探して楽しみましょ
 
しかし風光明媚な観光地油壺の名前の由来が戦に関係したオドロオドロしたもの
 
ったとは…
 
さてさて新井城と言えば北条早雲・氏綱対三浦同寸・義意(共に親子)
 
3年間に渡る籠城戦! 里見氏、正木氏により海路からの補給により耐えた
 
三浦軍。しかし3年後、海陸からの総攻撃により落城。同寸は切腹。息子・義意
 
は最期に死花を咲かす〜!と出撃。北条軍を蹴散らし、そろそろ良い頃だなぁ〜
 
と自らの首を斬って自害。しかしその首は西方へ飛び、小田原の海岸の松に引っ掛
 
かり、首だけになっても死なず、小田原の高僧が手厚く経を唱え3年後にやっと
 
目を閉じたそうです… また三浦氏没後北条氏三崎城を再利用しています
 
が、なぜ要害性で優れているここ新井城じゃなかったのか?それは三浦氏の怨霊
 
が漂う地で、それを早雲が嫌ったためと伝わります。『北条五代記』によると天正
 
18年秀吉の小田原征伐により北条氏政・氏照兄弟が切腹したのが7月11日
 
奇しくも三浦同寸(義意?)が切腹したのと同じ日でした。しかも時刻も同じ虎の刻
 
だったと…  北条氏滅亡は三浦同寸怨霊の祟り」と記しています…
 
信じるか、信じないかは貴方次第ですので…
 
でも今は三浦同寸公、義意公親子のお墓も建てられ、ちゃんと供養されているの
 
ご安心を。でも行かる方はお墓参りもしてね 
 
 

  このあたり一帯は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀をいく重にも組み合わせた中世の山城、築城の年月は不詳であるが永正15年(1518)7月11日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に亡ぶ時、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗をつづけたという。
 その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていったが、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後を護る重要な支城であるとともに水軍の根拠地でもあったといわれている。 落城の後、北条氏はこの城に五代にわたり兵を置いたことから今に北条山の地名が残っている。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡にともない三崎城は廃城となった。 (現地案内板より)

三崎城絵図(関東の名城を歩く〜南関東編より)
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大手口
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体育館が建つ本丸跡の土塁
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石碑と案内板
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搦手口
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二の郭跡の土塁 
昼寝中のネコさんに「慰霊堂がある郭跡はどこ?」と尋ねたら…
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          「オイラが案内してやるよぉ。ついてきにぁ〜」と
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 道案内をしてくれました。
 
 
 
 
 
 
 
その郭跡(伝笹郭)入口の堀切
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その郭跡(伝笹郭)です。台地の東先端で海上の見張り目的の郭?
ここまで案内してくれたネコさんはちょうど散歩に来ていたと睨み合いに!
結局、吠えられて切岸から海方面へダイブ!! ネコさん無事だったかなぁ…
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出丸へ向う途中かつての堀跡の道路から見る主郭部のある台地
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出丸跡に建つ本瑞寺源頼朝の別荘・桜御所跡でもあります。
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桜御所跡から三崎港を望む源頼朝演じる るな です。
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本瑞寺光念寺の間に残る出丸跡土塁
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では最後にもう一度三崎港城ヶ島(出城があったとか)を
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総評  ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)

三崎にまぐろラーメンを食べに行ってから早1年、記憶を辿りながら三崎城です
 
北条早雲との戦で奮闘した三浦氏のお城ですが、現在城跡台地には市役所、
 
体育館、中学校などの公共施設が立ち並び、所々に残る遺構を探して楽しむ
 
感じ その三浦氏の時代は新井城とこの三崎城は一つのお城で、後北条氏
 
が修復使用の時に別々のお城にしたとの説があります。
 
遺構は慰霊堂入口の土塁とその慰霊堂のある小さな郭跡(伝笹郭)が一番良い
 
状態ですかね。また石碑のある場所が馬出跡らしいのですが今の地形からは想像
 
出来ません…
 
市役所前の道路(堀跡)を挟んだ台地が出城跡本瑞寺光念寺の間に仕切り
 
よう土塁が残っています。
 
三浦氏滅亡後北条氏は先に述べたように三崎城里見氏の水軍拠点として
 
大改修。また風光明媚な地なので静養目的に早雲氏康が訪れていますので、
 
頼朝同様に別荘地としても利用していたようです。当時もマグロで一杯やって
 
いたのかも知れませんね  

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 安政6年(1859)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪:砲台中心部分)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、萬延元年(1860)6月竣工した。明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。(現地案内板より) 

 
 
神奈川台場絵図  
陸地と二本の渡り道でつながる(間は船溜り)形状が特徴。品川台場が嘉永7年
(1854)完成なので当時の台場では最新式&最大規模でした。
しかし実際の砲撃はなく、諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用されました。
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神奈川台場今昔図 台場内部はJR貨物駅になっています。
遺構が見れるのは駅を挟んで二ヶ所。
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古写真 この古写真は海外インターネットオークションにアメリカの骨董品屋が
出品したものを横浜在住の山本博士さんが落札したもの。落札価格は日本円で
約1000円だったとか。海外にはこうした日本の古写真が沢山眠っているのかも。
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民家の間の道を進むと石碑。
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石垣 もろ民家の裏です。
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ひろさんのブログで知った台場公園西取渡り道の跡。
案内板が数種類、石垣も再現されています。
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線路を渡り反対側へ  星野町公園にある新しい石碑
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オブジェっぽく石垣を展示?
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西側の倉庫敷地内の石垣
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星野町公園に隣接するマンション「ヒストリアレジデンス海舟」は要注目!
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1階の「喫茶&バー海舟」(お茶も飲めます)でマンション建設時に見つかった
石垣遺構を見る事が出来るのですよぉ ちなみに勝海舟は台場の設計者ネ。
今年(2012)の4月27日にオープンしたばかり
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室内には資料も展示されています。料金100円を箱に入れるシステム。
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これがマンション建設時に見つかった石垣です石垣の間から水がチョロチョロ
流れ出ているのですがこれは海水。海に浮かんでいた姿を想像しましょ。
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石垣はマンションの外にも繋がっています。
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こんなものも売っていました。銘菓・勝サブレ 
↑のマンション斜め前のプラザ栄光・生鮮館の販売コーナー。
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中身はこれ。台場の形をしたサブレに設計者・!(縁起が良い意味も含む)の
焼印。台場についての小冊子付き。5枚入り(630円)を購入。10枚、15枚入り
もありました。サクサクです。
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

横浜のお台場と言えばこの神奈川台場です
 
今までの台場跡は貨物駅の前、民家の奥に石垣が残り、石碑がポツンでしたが
 
2009年の横浜開港150周年を機に開港シンボルとして新たな調査がされ詳し
 
解説付きの案内板も数種設置されました
 
遺構が見れるのは昔からの石碑&石垣、開港記念に整備された西取り渡り道跡
 
台場公園がある北ゾーン、新しい石碑のある星野町公園、発掘石垣が展示さ
 
れている喫茶&バ海舟のある南ゾーン。しかし双方の間にJR貨物駅があるた
 
め、ぐるっと回り道をしないと線路を渡れないのが難点
 
マンション建設で見つかった石垣を保存するために本来は商業施設が入るはず
 
だった一階を資料室にして保存してくれた建設会社の会長さんに感謝
 
本来の石垣なのですが残っているのは2段。しかしここの石垣は5段
 
会長さんの「貴重な遺構を後世に伝えたい」〜この想いに応えるためにも多くの方
 
見て欲しいです 
 
最近の調査によると廃されてから台場は破壊されず埋められたので、そのまま
 
地中に残っている事が分かりました。ぜひ復元を!の声も多いと聞きました。
 
復元されたら新たな名所になるかも… お土産には勝サブレがあるしね。

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 北条早雲古参の家臣・多米氏代々の居城。権現山城と国道、線路を挟んで隣接する本覚寺の地が城跡。権現山合戦の後、天文年間(1532〜55)に築かれたと云われる。天正18年(1590)小田原の役の時、城主・多米長定は玉縄衆に加わり山中城で討死。青木城は北条氏滅亡と共に廃城。

  
     
詳しい地図で見る
 
江戸時代末期?明治初期?の絵だと権現山と尾根続きだった事が分かります。
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青木城跡本覚寺を望む
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本覚寺山門は日本ではじめてペンキを塗られた日本建築だとか
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本覚寺は歴史の時間に習った日米修好通商条約を結んだ後にハリスがいた
アメリカ領事館跡地でもあります。
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日本の皆さんこんにちわ。私が初代・駐日本アメリカ合衆国弁理公使の
タウンゼント・ハリスです。大河・篤姫将軍・家定に謁見した場面をやって
いましたね。家定が何段にも重ねた畳の上で「いよぉ〜〜〜」と(笑)
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ハリスと交渉した岩瀬忠震の碑。大坂じゃなく横浜開港を強く説いた人。
現在の横浜の発展はこの方のおかげと言っても過言じゃない?
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境内はこんな感じです。
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一番の高地である墓地が主郭跡かも知れませんね
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

権現山城の次と言えばこの青木城でしょう
 
権現山合戦の後、城の一部だったとも云われる本覚山に築かれたお城で、
 
本覚寺を含む周辺が跡地にあたります。
 
日米修好通商条約が結ばれた時、神奈川奉行が用意した場所を断りハリス
 
自ら海も見渡せる眺めの良い高台のここ本覚寺アメリカ領事館に定めました。
 
戦国時代の要害の城跡を選ぶとはやりますね。
 
領事館として使用されたのは約3年間。この間お坊さんは退去させられ、賃貸料の
 
15両中々支払われなかったとの話も残っています
 
領事館時代に白いペンキを塗られてしまった山門。今も唐獅子とかに微かにペンキ
 
の跡が残っているそうですが全然気がつきませんでしたよぉ。
 
同じ館跡の碑でもあるのは領事館跡の石碑。案内板はありますが青木城について
 
の記述は一切ナシ。開国の街・横浜の扱いはやはり城跡<領事館跡
 
ちょっとくらい触れてくれても良いのに。
 
本堂から見ると墓地が一番の高台。ここが主郭跡かもしれませんが、民家も
 
あり遺構はナシ。お城ファンには物足りないかも知れませんが、幕末ファンには
 
楽しめる青木城跡、いや本覚寺です(笑) 

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