神明大神宮の周辺一帯は、大庭御厨の領主で源氏の御家人・大庭景能(景義)の懐嶋館があった地です。景能は土地の名前から懐嶋氏と姓を改めます。嫡子・景兼の時代に和田の乱が起こり北条氏と戦いましたが戦死。所領も没収され懐嶋氏は滅びました。
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神明大神宮の周辺一帯は、大庭御厨の領主で源氏の御家人・大庭景能(景義)の懐嶋館があった地です。景能は土地の名前から懐嶋氏と姓を改めます。嫡子・景兼の時代に和田の乱が起こり北条氏と戦いましたが戦死。所領も没収され懐嶋氏は滅びました。
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三浦一族滅亡の地、新井城は、面積約128ヘクタールの天険をそのまま利用した自然の要害でした。すなわち、相模湾に突出したこの小半島は、小網代湾と、油壺湾にはさまれて、三方がいずれも海で、しかも切り立った断崖であり、陸地に通ずる路は、北方約3キロメートルの大手の引橋で、この橋を切って落せばどこからも攻めこまれないようになっていました。引橋は後に地名になりましたが、ここで北条勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては大軍をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で三年間もちこたえたのですから、三浦一族の執念もさることながら、城としても、すぐれた構えであったのでしょう。いずれにしても、室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことが出来ます。 (現地案内板より)新井城図(『関東の名城を歩く〜南関東編』より) 赤線はハイキングコース
内の引橋跡 三方を海に囲まれた新井城はここにあった引橋を離すと陸路は
なく要害堅固な島城になりました。ガードレールの下には堀切が確認できます。
東大地震研究所入口から郭沿いにハイキングコースがあります
城塁を見ながらのハイキングコース
ハイキングコースを進むと主郭の堀が右に現れます。しかし!郭内は東大地震研究所敷地のため立ち入り禁止
仕方ないのでフェンス越しに主郭(左)の堀を見学
ここから先がお城ファンにとって夢のワンダーランドなのに…
ハイキングコース左手に広がる油壺湾 新井落城時、多くの城兵らが身投げし、
海面はその血で油のように赤黒く染まったと謂れがあります
主郭先の二の郭も立ち入り禁止
荒井湾から望む新井城
地形が今みられる岩と砂浜になったそうです。
三崎まぐろラーメン
旦さまは小学校の遠足でここに来たそうなので、人生初の中世城郭跡訪問は
新井城となりますね
マリンパークの駐車場内に怪しげな茂みが…
その中には…新井城の石碑発見!
その隣に三浦義意公(同寸公の息子さん)の墓所
このお方は身の丈7尺あまり、分かりやすく言うと約2、1mでジャイアント馬場さんとほぼ同じ。75人力と言われその剛勇ぶりが伝わります。
出郭跡にある三浦同寸公の墓所への道。両サイドは深い堀。
三浦同寸公の墓所 鎌倉御家人からの名門家を自らの力で継ぎましたが、
新興勢力北条氏によりどんどん追い詰められてしまいました。皮肉なもので
三浦氏を追い込むのはいつでも北条氏…鎌倉時代は前北条氏、戦国時代
は後北条氏
辞世の句…
「討つものも 討たるるものも かわらけよ くだけてあとは もとの土くれ」 武士の無情さが心に沁みます
総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)←非公開の遺構が見れたと仮定して。三崎城の次と言えばこの新井城でしょ!
油壺マリンパークのある半島がその地で、遺構が良く残る東大地震研究所の敷
地は主郭部と考えられています。しかし非公開で涙、涙…
情報によるとかなり美味しい部位があるそうですよぉ。
ハイキングコースで見れる部分を楽しむしかないですね。
他にも遺構は散在しているのでそれらも探して楽しみましょ
しかし風光明媚な観光地油壺の名前の由来が戦に関係したオドロオドロしたものだ
ったとは…
さてさて新井城と言えば北条早雲・氏綱対三浦同寸・義意(共に親子)の
3年間に渡る籠城戦! 里見氏、正木氏により海路からの補給により耐えた
三浦軍。しかし3年後、海陸からの総攻撃により落城。同寸は切腹。息子・義意
は最期に死花を咲かす〜!と出撃。北条軍を蹴散らし、そろそろ良い頃だなぁ〜
と自らの首を斬って自害。しかしその首は西方へ飛び、小田原の海岸の松に引っ掛
かり、首だけになっても死なず、小田原の高僧が手厚く経を唱え3年後にやっと
目を閉じたそうです…
が、なぜ要害性で優れているここ新井城じゃなかったのか?それは三浦氏の怨霊
が漂う地で、それを早雲が嫌ったためと伝わります。『北条五代記』によると天正
18年秀吉の小田原征伐により北条氏政・氏照兄弟が切腹したのが7月11日、
奇しくも三浦同寸(義意?)が切腹したのと同じ日でした。しかも時刻も同じ虎の刻
だったと… 「北条氏滅亡は三浦同寸怨霊の祟り」と記しています…
信じるか、信じないかは貴方次第ですので…
でも今は三浦同寸公、義意公親子のお墓も建てられ、ちゃんと供養されているの
でご安心を。でも行かる方はお墓参りもしてね
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このあたり一帯は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀をいく重にも組み合わせた中世の山城、築城の年月は不詳であるが永正15年(1518)7月11日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に亡ぶ時、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗をつづけたという。
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北条早雲古参の家臣・多米氏代々の居城。権現山城と国道、線路を挟んで隣接する本覚寺の地が城跡。権現山合戦の後、天文年間(1532〜55)に築かれたと云われる。天正18年(1590)小田原の役の時、城主・多米長定は玉縄衆に加わり山中城で討死。青木城は北条氏滅亡と共に廃城。江戸時代末期?明治初期?の絵だと権現山と尾根続きだった事が分かります。
青木城跡の本覚寺を望む
本覚寺山門は日本ではじめてペンキを塗られた日本建築だとか
本覚寺は歴史の時間に習った日米修好通商条約を結んだ後にハリス
アメリカ領事館の跡地でもあります。
日本の皆さんこんにちわ。私が初代・駐日本アメリカ合衆国弁理公使の
タウンゼント・ハリスです。大河・篤姫で将軍・家定に謁見した場面をやって
いましたね。家定が何段にも重ねた畳の上で「いよぉ〜〜〜」と(笑)
ハリスと交渉した岩瀬忠震の碑。大坂じゃなく横浜開港を強く説いた人。
現在の横浜の発展はこの方のおかげと言っても過言じゃない?
境内はこんな感じです。
一番の高地である墓地が主郭跡かも知れませんね
総評 ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★2つ)権現山城の次と言えばこの青木城でしょう
権現山合戦の後、城の一部だったとも云われる本覚山に築かれたお城で、
本覚寺を含む周辺が跡地にあたります。
日米修好通商条約が結ばれた時、神奈川奉行が用意した場所を断りハリス
自ら海も見渡せる眺めの良い高台のここ本覚寺をアメリカ領事館に定めました。
戦国時代の要害の城跡を選ぶとはやりますね。
領事館として使用されたのは約3年間。この間お坊さんは退去させられ、賃貸料の
15両も中々支払われなかったとの話も残っています
領事館時代に白いペンキを塗られてしまった山門。今も唐獅子とかに微かにペンキ
の跡が残っているそうですが全然気がつきませんでしたよぉ。
同じ館跡の碑でもあるのは領事館跡の石碑。案内板はありますが青木城について
の記述は一切ナシ。開国の街・横浜の扱いはやはり城跡<領事館跡
ちょっとくらい触れてくれても良いのに。
本堂から見ると墓地が一番の高台。ここが主郭跡かもしれませんが、民家も
あり遺構はナシ。お城ファンには物足りないかも知れませんが、幕末ファンには
楽しめる青木城跡、いや本覚寺です(笑)
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