旦さまと私

るなと旦さまの歴史バラエティブログ+音楽+美味しいもの

お城散策(神奈川県)

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旦さまと神奈川県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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北条早雲が三浦氏攻略のため築城した玉縄城に行って来ました。

清泉女学院の敷地のため見学出来ないので、石碑撮影の目的で。

清泉女学院の正門左手に石碑があるはずなんですが…
柵の向こうなので、遠目にしか見る事が出来ません。石碑も見せてくれないのかい…(ノ_<。)
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なになに『事前に学校の許可が必要。土・日・祝日・学校行事がある日は見学出来ません』と。
これだと休みの日も平日もダメじゃん。いつだったらOKなんや!
あっ、もしや春・夏・冬休みかぁ(^・ω・^)b  あとは学祭に潜入の手も^^
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しかしダメ元で守衛さんにお願いたら、柵を開けて石碑を見せてくれました(_ _*)_ _*)
「この石碑は他から持ってきたらしく、元は別の場所にあったらしいですよ」と小ネタもゲット。
夕方だったので、下校する女学生さん達の視線が…(;^ω^A
るなぁも昔は女子学生だったんだよなぁ〜o( ̄ー ̄;)ゞ
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「階段の上にもあがりたいのですが…」恐る恐る聞くと…
「すいません、この上はダメです。それに何も無いですよ。」と、NGでした(ノ_<。)
諏訪壇と呼ばれる本丸土塁遺構なのになぁ〜ガックシ(´_`。)
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他に何か無いかと女学院を下って、違う道を上って行くと住宅地に出ました。
向こうが清泉女学院の本丸跡です。住所案内板でこの住宅地名が早雲台'と判明。
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後日、清泉女学院の敷地以外にも僅かながらの遺構や石碑がある事が判明。

(T_T)あちゃ〜やっぱりちゃんと予習しないとダメなんだよ。

それを知った旦さまは悔しさ一杯。リベンジを誓っていました(;^ω^A

なので評価等は『リベンジ!玉縄城』を終えた後にネ。

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                     『荻野山中陣屋』
 荻野山中藩大久保氏は江戸時代、厚木市内に居を構えた唯一の大名です。
初代藩主教寛は、小田原藩主大久保忠朝の2男で、元禄11年(1698)相模国足柄・駿河国駿東
郡内の領地において、新墾田6千石を与えられ、分家しました。宝永3年(1706)には駿河国
駿東・富士2郡の内に5千石を加えられ、1万1千石の大名となりました。この頃屋敷を駿東郡松
永村(現静岡県沼津市)に置き、松永陣屋としました。さらに享保3年(1718)には相模国高
座・大住・愛甲3郡において5千石を加増され合計1万6千石となりました。
その後二代教端のとき3千石を弟に与え、1万3千石となりました。5代教翅の時,天明3年(1
783)陣屋は江戸に近いこの地に移され「荻野山中陣屋」となり、以後明治4年(1871)
の廃藩置県まで、3代、80余年続きました。
 この陣屋は幕末の騒乱の中、慶応3年(1867)12月倒幕運動の一つとして、浪士隊に
襲われ、焼き討ちされました。この事件は京都鳥羽・伏見の戦いの一因となりました。
 廃藩後、山中県、足柄県を経て神奈川県となり、陣屋跡は民間に払い下げられました。旧藩士の
中には明治の自由民権運動に活躍した者もいました。(現地案内板より)
荻野山中陣屋の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.4802526732383&lon=139.3332364315903&z=18&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=off&hlat=null&hlon=null&layout=&ei=utf-8&p=

台地上に位置する山中陣屋跡を望む。
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寛政時代に描かれた山中陣屋絵図
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石碑は『山中城址』となっていますが、もちろん障子堀も畝堀もありませんよ(笑)
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この畑が御殿跡
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陣屋の鎮守だった稲荷神社
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往時からの湧水は、今も生活用水に利用されているそうです。
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この辺りは水が綺麗なのでホタルが見れるそうです。
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カニさん発見!
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市内福伝寺には陣屋門が移築され現存しています。
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横からもう一枚^^
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総評 ★★☆☆☆ (私見 ★2つ)


小田原藩から別れた大久保氏の荻野山中陣屋です。

その規模は約2.07ha(天明時代)で、絵図によると中央に御殿、家臣の長屋、馬場、矢場、

稲荷神社、湧水、井戸、物置などが配置されていました。

現在殆んどが宅地、耕地になっていますが、陣屋の南部分が『荻野山中陣屋跡史跡公園』になって

いて石碑、案内板や稲荷神社があります。

薩摩藩が大政奉還した幕府軍に戦をさせるために、江戸市内で略奪や放火などをしましたが

その流れでこの山中陣屋も浪士隊に襲撃され焼き討ちされてしまいました。主藩の小田原藩同様に

当時はどっちつかずでしたからね。それにしても江戸から離れた片田舎の貧乏藩の陣屋なのにとんだ

災難だった…(ノ_<。) 

この時の戦火を免れたと思われる陣屋門が市内福伝寺(厚木市王子1−11−40)に移築され

現存しています。裏門だったとか。
         『津久井城』
 津久井城は、北と南に川が流れ、周囲が急な斜面に囲まれる天然の地形を生かした大規模な山城
形式の城郭です。山頂部を本城曲輪と飯綱曲輪を中心に形成し、城主や家臣の屋敷を山麓に備えた
成り立ちは『根小屋式山城』と云われています。
 鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を持っていた三浦氏の一族・津久井氏による築城と伝わりますが、
詳細は明らかではありません。現在見られる遺構は戦国時代に小田原を本拠とする北条氏が築いた
ものです。家臣団『津久井衆』筆頭の内藤氏が城主として守っていましたが、豊臣秀吉の小田原城
攻めの際に落城しました。落城後は徳川氏の直轄地になり麓に陣屋が置かれ、代官が政務を執って
いました。陣屋は寛文4年(1664)に廃止され、その際に津久井城は城としての機能を終える
事となります。(パンフより)
津久井城への地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.5799741&lon=139.28180759&sc=6&mode=map&pointer=on&home=off

まずは麓の根小屋地区にあるパークセンターで津久井城の模型を見て登城前の予習です。
パークセンターは津久井城の資料展示、城山案内等の資料館ですよ。入館無料で撮影もOK!
イメージ 1



小田原の役で廃城になった津久井城ですが、江戸時代の慶長13年(1608)から正保元年
(1644)まで守屋行広、行昌の2代に渡って代官陣屋が置かれました。発掘で出土した
礎石の上にこの研修センターが建っています。なので建物の規模は陣屋と同じだと。
内部には陣屋についての資料展示がありますよ☆ 
ちなみに守屋行広のお父さんは津久井衆の一員でした。
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牢屋の沢に架かる城下橋。その名の通り牢屋があったところ。
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城主・内藤氏が屋敷を構えていた御屋敷跡。かなりの広さがあります。
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御屋敷跡上段の菜の花が眩しい^^
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御屋敷跡から山頂に登城するには、急勾配が辛いけど早く着く男坂と、時間をかけてぐるりと
一周するなだらかな女坂があります。花粉症のため調子が悪いので女坂を選びました。
女坂でも石垣遺構や竪堀を拝む事が出来ますよ。
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女坂を進行30分弱で飯綱曲輪と太鼓曲輪の間に到着。
津久井城は東峰の飯綱曲輪と西峰の本城曲輪と二つのピークで構成されています。
まずは飯綱曲輪の先にある東端の鷹射場から西端の本城曲輪へと向かうことにします。
で、ここがその鷹射場
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堀切を渡って飯綱曲輪に登るところがクサリ場になってます。
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宝ヶ池(井戸)を見て烽火台跡へ。元々烽火は狼の糞を燃やして煙を出していたので狼煙
とも表記します。この辺りは国境近くなので烽火台が数多く設けられていました。
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飯綱曲輪には飯綱神社が鎮座しています。社を背に食い違い虎口を見る。
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太鼓曲輪
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引き橋跡
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遺構群要図によると入堀と記されている竪堀。曲輪に入り込んでいるからこの名前?
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米曲輪〜本城曲輪は目の前です。
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本日のゴールであるL字に土塁が残る本城曲輪に到着!!
その土塁上に文化13年(1816)に建てられた『築井古城記』の碑があります。
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総評 ★★★★☆ (私見 ★4つ)


武田の甲斐国と北条の相模国の境目の城でもある津久井城です。

一応北条氏に属していますが、武田寄りの城兵も多かったらしく、三増合戦の時には城から出撃せず、

日和見していたそうです。へたに武田軍を攻撃すれば、その後、武田軍に攻撃されるのは必至。

生き残るために双方に良い顔しなきゃならない、複雑な事情があったのですね…(ノ_<。)

とりあえず北条方には武田の小幡軍に牽制され撃って出れなかったと言い訳がつくし…(;^ω^A

そんな津久井城ですが県立津久井城山公園として麓の根小屋地区は綺麗に整備されていて、多くの

観光客が訪れていました。散策しやすくなっていますからね。そして廃城後に設置された陣屋にも

スポットを当てているのが嬉しい限りですね。

山頂部も整備されていて、時間はかかりますが女坂を進めば、勾配を登らないで、辿り着けますよ。

なので比高180mの山城を登った気がしませんでした(*^ー゜)b

曲輪自体は狭いのですが、保存状態が良く、戦国時代の山城を存分に楽しめます。

規模こそ違いますが根小屋式山城として八王子城と似てますね。音楽に例えると八王子城はギンギン

のヘヴィメタルで、津久井城はPOPな感じですが…(;^ω^A
                                   『田代城』
 田代城は室町時代の山城で、自然の地形そのまま要害とした武士の居館であった。築城年月は
不詳。城域は23.300平方メートルほどの広さを持ち、南の方を表口としていた。
 城主は小田原北条氏の幕下であった内藤氏で、下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行の二代が在城
し、田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯部を領地
としていた。 永禄12年(1569)武田信玄の小田原攻めの際に、この城は落城したと伝え
られる。 城跡には石塁跡と守護の八幡社があり、仕置場、うまやなどの地名を残している。
(現地案内板より)
田代城の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=35.53036054&lon=139.29087754&sc=6&mode=map&pointer=on&home=off


田代城跡の最寄バス停『中学校前』に案内板があります。
イメージ 1



これで〜す。高い位置にあるので道路から読みずらいのですが…
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根古屋跡には愛川中学校が建っています。
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その北側の削平地内はこんな感じ。遺構らしきものは確認出来ませんね〜
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なので土盛りがあると「これは土塁だぁ、きっと!」と勝手に思い込むようにしています…(笑)
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総評 ★☆☆☆☆ (私見 ★1つ)


津久井城の支城である田代城です。

武田信玄が小田原攻め後、甲斐への帰路途中に北条氏照・氏邦の軍勢と戦った『三増合戦』は

この田代城のすぐ北東が激戦地で、この時、武田軍に攻められ落城したと伝わります。

愛川中学の場所を根古屋とし、北側台地上に城を構えた形態の小城だったと考えられますが、

資料が少なく詳細不明。

案内板に記されていた八幡社の祠と石塁跡を探しに校門側から山に入りましたが、見つける事が

出来ませんでした(ノ_<。) 見落としなら、諦めがつくのですが、見つけられないのは、非常に

悔しいいです。しかし、時間の関係で次なる目的地『三増古戦場』へ。

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小田原城・後北条氏時代の遺構を見ようと、小田原城からJRの線路を渡り(青橋)

城山公園を目指したのですが、どこだか分からず

あら〜(ノ_<。)と車を走らせていたら偶然『小田原城跡外郭』の標柱を発見!!

小峯御鐘ノ台大堀切東堀


イメージ 1




おぉ〜これが後北条氏時代の遺構の小峯御鐘ノ台大堀切東堀かぁ!
イメージ 2


空堀内に下りてみました〜この先が折れです。
 もっと先まで行きたかったのですが『立ち入り禁止』なので退却。
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ここはこの部分ですね。
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 小峯御鐘ノ台大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。
北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対して、総構といわれる
周囲約9kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国最大級の
城郭を築きました。
 この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の
尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。総構とともに小田原城の西側を
守る最も重要な場所であったと考えられます。
 東堀は幅が約20mから30m、深さは土塁の頂上から約12mあり、堀の法面は50度
という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。
 発掘調査によると、堀には堀障子や土橋状の堀り残し部分の他、横矢折れとよばれるクランク
部分などが設けられていることが確認されました。こうした堀の構造は北条氏が積極的に用いた
もので、戦国時代の小田原城の特色をよく表しています。



=念願の後北条氏の遺構が見れたので満足して小田原駅方面に戻る途中に
 『堀切、土塁→』の案内板があったのでそちらに行ってみました。

八幡山古郭


山道を上ると小田原高校に到着。校門の横に『八幡山古郭跡』の案内板が!

おぉ〜ここは北条氏時代の本丸跡と伝わる場所だぁ!

ちなみに今の小田原城本丸は平時の居館があったらしいです。

校舎前のテニスコートで試合をやっていたので路駐が多くて、案内板がよく見えませんよぉ。

イメージ 5




ちゃっかり私達もここに路駐して、先ほどの『堀切、土塁→』の案内方向に歩いていきましたが、

それらしきモノは無く、散歩していた夫婦に道を聞きやっと辿り着けました。

小峯御鐘ノ台大堀切東堀


そして林の中に土塁発見!
イメージ 6


案内板によると、さっき見てきた小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北側なのですね。
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写真では伝わらないと思いますが、深さ、幅とも凄いです!
ここも『立ち入り禁止』なのですが、下りたら上って来るのは大変ですよ〜。
 
イメージ 8


案内板にあった『東堀は幅が約20mから30m、深さは土塁の頂上から約12mあり、

堀の法面は50度という急な勾配〜』はここの事を言うのですね。

これは見れば信玄、謙信の攻撃を退けた名城と納得できます、中世城郭ファン必見!!

場所は森林公園慰霊塔の裏側に位置しています。

小田原城は何度も訪れているのですが後北条氏時代の遺構を見るのは今回が初めてで、

戦国最大の城郭の一端を見れただけで感激です。

この小峯御鐘ノ台大堀切東堀の他にも外郭遺構が残っている場所がたくさんあるので

まだまだ小田原を訪ねる回数が増えそうです。

後日調べたら総構は天正18年(1590)春頃完成で小田原開城が7月なので

完成後数ヶ月で北条氏は滅亡しているのです。その後慶長19年(1614)大久保忠隣改易に

伴って総構は破却されたそうです。

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