旦さまと私

るなと旦さまの歴史バラエティブログ+音楽+美味しいもの

お城散策(静岡県)

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旦さまと静岡県のお城巡りをした記事です。歴史なんかも簡単に載せてあります。
九州旅行の書庫にも熊本城、知覧城などの記事がありますので、興味のある方は見てみてください♪
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沼津の長浜城&海鮮丼

前回紹介した小田原の前に訪れたのが長浜城

長浜城と言っても秀吉さんはいません。伊豆・長浜城
(静岡県沼津市)
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北条水軍の拠点で去年の5月24日に史跡公園として

開園(国指定特別史跡)。それに伴い北条水軍祭りも開催さ

れたそうです。

富士山も見えちゃう風光明媚なお城なのです
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沼津行ったら海鮮食べなきゃ!と。で沼津港へ。二度目だけど相変わらず観光客いっぱい。行列のお店もあったけど
「今なら席ありますよ〜」の声でさすよ亭に決定。
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るなは駿河湾の地魚丼。カニ汁付きだぜぇ
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旦さまは生桜えび&生しらす&釜あげしらす丼。秘密のケンミンショーで静岡県の人は伊勢海老より桜えびってやっていたけど本当かな?
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やっぱり新鮮なのかな〜海鮮を量食べれないうちらも
ペロッと完食。美味。個人的に焼津港の海鮮より沼津港
の方が合います 

富士山も見えちゃう北条水軍の長浜城記事は次回にネ



 曳馬城の築城者、築城年代には諸説あり定かではない。永正9年(1512)斯波氏の被官・大河内貞綱が曳馬城を占拠。しかし今川氏親が貞綱を滅ぼし、飯尾賢連が城主となった。永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で戦死すると徳川家康が自立し、曳馬城主の飯尾連竜も家康に通じ、今川氏と絶縁。これに対して今川氏真は曳馬城を攻撃した後に和睦。しかし氏真は駿府に連龍を呼び出し暗殺、飯尾氏は滅亡。その後城代として江馬氏が入ったが内紛により滅亡。家康は空白地域となった曳馬城に酒井忠次を派遣して接収。そして元亀元年(1570)本拠地とするために曳馬城を城域に取り入れ新城を築いた。それが浜松城である。

比高10m程度のこの台地が曳馬城跡
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往時の堀跡を利用した道路
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台地上には東照宮が鎮座。明治29年に創建されたのですが太平洋戦争で焼失。
今の神社は昭和34年に再建されたもの。
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境内は曲輪跡になりますね。
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小さいながら石碑が嬉しいネ
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浜松城時代には米蔵、屋敷が建っていました。で囲んだ部分ですが
浜松城の天守曲輪+本丸+清水曲輪くらいの規模があったんですね。
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総評 ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

浜松城の前身である曳馬城跡は浜松城公園駐車場の先、国道52号を越えたとこ
 
ろにある元城町東照宮の地です。
 
新領主の権力象徴として前領主のお城を取り込んで規模の大きい新城を築くパター
 
は多いですよね。那古野城→名古屋城、千葉城→熊本城とか。
 
また中世城郭跡に陣屋を構える別パターンもありますが、こちらは規模拡張では
 
なく規模縮小ね
 
現在遺構は見当りませんが絵図同様に台地が四分割されているのが確認出来て
 
「おぉ〜」と唸りました  
 
元亀元年(1570)から築城工事が始まった浜松城ですが元亀3年(1572)の
 
三方ヶ原の戦時点でまだ工事中。なので家康が命からがら逃げて来たのは
 
こちら曳馬城の方だったとも云われています。そうなると「これは焼き味噌じゃ!」
 
脱糞を誤魔化した現場になりますね(^-^ゞ 

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 浜松城は徳川家康が築いたものです。家康は、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して曳馬城をはじめ諸城を従えると共に、浜松城の築城に着手しました。
 元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城を譲って自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めました。家康は29歳の時この浜松城に移り天正14年(1586)45歳で駿府城に入るまで、在城17年の長きに及んでいます。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦もみなこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦でした。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の年でもあったわけで、浜松城が出世城といわれるのも当然といえます。

 城郭は、南北約五〇〇メートル、東西約四五〇メートルの地域にわたり、三方原台地の斜面に沿って天守閣、本丸、二の丸、三の丸、がほぼ一線に並び、いわゆる梯郭式の築城法に属しています。その他作左曲輪、出丸等もあり、古城と称する個所は、曳馬城の跡といわれています。また現存する石垣は、築城当時そのままのもので野戦城にふさわしく粗削りの岩を使って頑丈に構築してあります。
 家康の後、浜松城は豊臣の家臣堀尾氏が城主となりましたが、江戸に幕府が開かれてからは、代々譜代大名にこれを守らせました。その石高はおおむね五万石前後でしたが、松平(大給、本庄、大河内)、水野、高力、太田、青山氏等が在城し、井上氏になって明治維新を迎えました。城主として特に有名なのは天保の改革を行った水野越前守忠邦です。忠邦は肥前唐津にいましたが、その栄達を望んで、すすんで浜松城主になったといわれています。
 明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃に帰して、苔むす石垣にわずかに当時の面影を偲ぶばかりですが、昭和33年春、浜松市民の努力が実を結び、旧天守閣跡に立派な新天守閣の再建を見るにいたりました。(現地案内板より)

浜松城縄張図
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天守を見上げる〜良いねぇ 
現在は浜松城公園ですが、この駐車場は嬉しい事に無料です
 
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野面積み石垣がお見事
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ついつい見惚れてしまいます
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本丸には若き日の徳川家康公像…これって若いのかぁ?老けて見えるんですが
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天守〜外観的には好きなタイプ。
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別角度から。でっかい石落としが一つ♪
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外は暑かったでしょ〜さぁお風呂へどうぞ…天守穴蔵の井戸やないかぃ!
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模型です。やっぱり天守はありませんね。
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高欄回廊が好き                 三方ヶ原古戦場方面を望む。
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天守曲輪の井戸
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埋門跡から退城して浜松城の前身・曳馬城跡へ向いました
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)

徳川家康出世城として名高い浜松城ですが現在残っている部分って実は少ない
 
のですね。ほぼ完存は天守曲輪くらいで、本丸、二の丸の一部、そして曳馬城跡
 
でもある米蔵跡くらいでしょうか。
 
家康の居城だからと期待して行ったら「あれれ〜もう終わり」と肩透かし…(^-^ゞ 
 
でも素晴らしい野面積み石垣が見れたからいいかぁ〜(フォローね)
 
家康築城時ものと言われる自然石の積み上げは荒々しくまさに戦国です。
 
昭和33年に復興された天守ですが、元々天守があった記録がない(堀尾時代に
 
あった説あり)ので分類すると悲しいかな模擬天守です。でもそんなに城郭研究が
 
盛んじゃなかった昭和33年に模擬とは言え、現代にも通じる「こんな天守ならOK」
 
な姿を設計した先生凄いなぁ〜と。越前大野城をはじめ浜松城天守をモデルに
 
したお城あるしね。
 
天守の中は狭いのに展示物が所狭しと並んでいます。一階にはお土産コーナ
 
もありますよ。 
 
浜松城公園の中にある日本庭園の池はを利用したものだそうです。
 
今回浜松城にはいきなり行くことになったので三方ヶ原古戦場築山御前史跡
 
には寄りませんでした。次回はセットで訪問したいですね。
 
考えてみると三方ヶ原長篠小牧長久手など有名な合戦に家康送り出し、
 
また戦で疲れた家康を出迎えたのもこの浜松〜う〜む感慨深いなぁ。
 
最後に朗報を…ご存知の方もいると思いますが天守門(2011年着手、13年までに完成)富士見櫓(2016年着手、20年までに完成)が再建されるそうですよ。
市の発表後に東日本大震災が起こったのでどうなるか…完成予想図↓
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天守曲輪で囲まれ賑やかになる浜松城に期待しちゃいます!

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               『八幡山城』
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は周辺の要所要所に城塞を築いて、駿河
防衛の万全を期した。八幡山城もその一つである。
文明8年(1476)今川氏のお家騒動で、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。
この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。 

八幡山城は、駿府城へ1.5m、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方安倍川を
隔てて持舟城まで5km、それらは全て指呼の間に一望することの出来る重要地点であった。そこ
で、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当たっていた。長享元年
(1487)小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、新九郎は興国寺城へ移った。
永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の
城塞と同じくここを使用した。天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正
18年(1590)関東へ移った後、廃城になったと思われる。 
城跡は標高63.7m、南北500mの独立丘陵で、近年公園となり、大きく変貌したが、今なお曲
輪や空堀などの遺構を見る事が出来る。(現地案内板より)
八幡山城の地図↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=34.97011543108305&lon=138.4012165158403&z=17&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=34.97028467222106&hlon=138.4013264864093&layout=&ei=utf-8&p=%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E9%9D%99%E5%B2%A1%E5%B8%82%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%8C%BA%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B1%B1


八幡神社背後の山が八幡山城です。
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拝殿横の階段を上がると社が。ここから登山道が出ています。
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途中腰曲輪と思われる削平地があります。
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この二の曲輪が一番広いですね。
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苔むす石碑があるのも二の曲輪ですよ。
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二の曲輪本曲輪の間にはがあったと思われます。
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本郭隅の矢倉台
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本郭に到着!(*^ー゜)b
城跡は八幡山公園として整備されているし、標高63.7mなので麓から10分強の行程。
このくらいだと遠征先でも苦になりませんね(^-^ゞ
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本郭から富士山を♪もちろん市街も一望出来ます。
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)


静岡遠征でこの八幡山(やはたやま)城を選んだのは、あの戦国初期のヒーロー『太田道灌』と

『北条早雲』がたった一度の出会いを果たしたお城だからです♪ まさに一期一会ネ(*^ー゜)b

道灌は今川家のお家騒動を鎮めるため扇谷上杉定正の命により300騎を率いて八幡山城に布陣。

この動きに対して当時、今川家の食客だった北条早雲が道灌の元を訪ね「これは今川家の問題なので、

私が責任もって解決します。もう少し時間を下さい(_ _*)」と。一目見て早雲の並みならぬ才能を見

抜いた道灌はこれを承諾。見事にお家騒動を静めた早雲の働きを見届けて、兵を引きました。

道灌、早雲共に45歳、お互い認め合った相手とは二度と会うことはありませんでした。

もし、この後も道灌が生きていたら…早雲は戦国大名として世に出ることは出来なかった?

または関東の地で一戦交えていた? 想像する事の楽しさが、歴史好きの楽しさでもあります(*^ー゜)b

道灌布陣後、今度は早雲が居城にした歴史的注目なお城なのですが、公園化の際にかなり手が加えら

れたらしく、遺構的なものは曲輪の削平地、物見矢倉台と思しき高台くらいなのが非常に残念…(ノ_<。)

でも本曲輪からの富士山がでっかくて気持ち良かった!

道灌と早雲も富士山を眺めながら会談したのかなぁ〜。まさか富士山を見ながら「連れ○○」はして

ないでしょうね(笑)←秀吉と家康で有名なあれネ(爆)

しかし、道灌!道灌!と騒いでいるのは関東人のるな&旦さまだけで、ここ静岡ではそれほどでもない?

そんな気がした八幡山訪城でした…(ノ_<。)

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紹介し尽くされた感のある駿府城ですが、頑張って紹介させて頂きますネ
 
駿府城と言ったらこのアングルですよね。巽櫓東御門の雄姿
L字形の巽櫓は平成元年、東御門は平成8年に復元。内部には資料が展示されています(200円也)
ボランティアガイドさんがとても親切で好印象
ちなみにこの反対のアングルだと巨大な静岡県庁別館が目に入るのでかっこ悪い…
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写真撮影には邪魔な静岡県庁別館ですが、その21階の展望室からは駿府城が見下ろせて便利。
賤機山城と雪斎でお馴染みの臨済寺もバッチリ見えますよ。臨済寺は非公開なので行きませんでしたが。
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この上にのるとキケンでござる!  武士言葉で注意を促すとはさすがですな(byじぃ)
東御門・渡櫓門の石落としです。一度でいいから石落し体験してみたいです。糞尿はNG
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天守復元模型も展示されています。大御所さまにしては珍しく派手な天守ですね〜
天守は3度建てられていますが、この模型は3代目で寛永12年(1635)に焼失。この時
城代のお城だったので、天守の必要性がなく以降再建されませんでした。
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こちらが案内板のみで、なぁ〜にも無い天守跡です。天守焼失後も天守台はあったのですが、
明治29年に歩兵第34連隊が置かれた時、邪魔になるので取り壊されてしまいました。同時に本丸堀も
埋められてしまいました。
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なんだか大御所さまの後ろ姿も寂しそう…
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見所の一つとして、お城本に紹介されている本丸堀と二の丸堀とをつなぐ水路です。
本丸の水位を保つための役目をしています。4回も折れているのは珍しいとネ。
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さぁ〜ここで問題です。これは何でしょうか?  答え…パワースポット
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このパワースポットは駿府公園内に3ヶ所あります。
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 ←ここが一番
パワーを感じます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
パワースポットの場所は3つのと記されたとこ。
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二の丸南西の坤櫓跡石垣は修復工事完了してました。
二重三階で七間四方の大きな櫓で復元されるとの噂〜ワクワク
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去年の地震で崩れた石垣復元工事は二の丸と三の丸で行なわれていました。
こちらは三の丸の草深御門跡東側の工事の様子です。
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その草深御門跡東側の石垣に小峰白河城でお馴染みのぐるぐる石垣を発見!
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ☆3つ)

大御所さまの隠居城の駿府城です。竹千代の人質時代を過ごした今川館跡に建てた駿府城に
 
晩年住む…子どもの頃の思い出を払拭したかったのか、ただ単に駿府の地が気に入ったのか?
 
再建された巽櫓と東御門内の展示資料はへたな資料館より見応えアリですよ。
 
その中でも大御所さまの人形(はじめて大納言兼加賀守さんのブログで見た時は衝撃的でした)、
 
お城全体と天守復元模型、竹千代手習いの間(なぜかここのみ撮影禁止)は必見。
 
そして驚きのパワースポットの存在。2007年の「大御所スタイルフェスタ」という記念イベントの時に
 
風水の李家先生が城内(駿府公園)のパワースポットを分かりやすく、石で囲んだそうです。
 
明治神宮の加藤清正の井戸に大行列が出来るパワースポットブームの今、これはぜひパワーを
 
もらわなきゃ!と。場所の地図を撮影して向ったのに、これが見つけずらかったのですよぉ。
 
石も3年の歳月で目立たなくなってしまった…(^-^ゞ 神聖な場所のせいか案内板はありませんので。
 
地図の下のパワースポットはパワーを感じると思うと、感じる気がする程度。 しかし上の右側
 
では身体にジリジリする感じが…「おぉ〜これがパワーなぁんだぁ!」って驚き。嘘じゃないって^^
 
本当なんですぉ。でもこの左側では何にも感じませんでしたが…(笑)
 
長らく天守復元の可能性が討議されていた模様ですが、どうやら断念したようです。
 
その代わりなのでしょうか、今度は天守台を復元する計画があるとか…天守台の古写真は残って
 
いるそうなのですが、資料的に充分なのかな? 天守台も良いけど、まずは本丸堀を完全復元して
 
欲しいですね。本丸堀がないせいで本丸と二の丸が合体した駿府公園が、ただのだだっ広い公園に
 
思えてしまいますので…(^-^ゞ
 
あと駿府公園のイメージから駿府城に変身するのには大御所さんグッズや静岡名産を販売する
 
お土産屋も必要でしょ! 城内にお土産屋がないと寂しいですよぉ(ノ_<。)
 
静岡市(県?)さん、色々と整備、復元大変でしょうが、宜しくお願いします〜(*^ー゜)b

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