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お城散策(茨城県)

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水海城主・簗田氏の家臣岩瀬豊前の館と伝わる。岩瀬氏は大坂の陣後に帰農。

 
        
詳しい地図で見る
 
磯部館は国道354を古河市街地方面へ向かうと左手にあります。
この道は古河駅前の丸満餃子行くときによく通っていたのに城館の存在に
気がつきませんでしたよぉ
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なかなかのでしょ
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堀底におじゃまします
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北西の角部は矢倉台でしょうか。かなりの高さがありますね。
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↑を曲がるとこんな感じ。
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堀底を進むと畑に出ました。
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最後に郭内を。現在も末裔の方がお住まいです。
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

以前紹介した静御前像のある国道354号を古河市街方面に進みます
 
しばらくするとバス停「磯部」があり、このすぐ先の林が磯部館
 
国道からもが確認出来ます。元は方形館ですが現在残るのは西
 
L 字に。郭内には岩瀬氏の末裔の方のお宅がありますので見学のみ
 
でもも思いきり私有地だなぁ〜と遠慮気味に散策していたら堀の先にある畑
 
から堀底を野菜を持った女性が歩いて来ました。一瞬まずい!!と
 
とにかく不審者と間違われないように明るく挨拶を…
 
「こんにちわここってお城の跡ですよね。見学させて頂いても大丈夫ですかね?
 
と旦さまが尋ねると、偶然にも末裔さんの奥さまでした 
 
奥さまにいくつか話しを聞かせて頂きました…
・国道沿いの木々を伐採したら堀が良く見えるようになって、時々見学に来る人が
 いますよ。
・以前堀は四方をぐるっと囲っていたらしいのですが今は埋めてしまいこれだけ。
・この堀は今も大雨が降ると水が溜まって水堀みたくなります。等…
 
奥さま、見学許可とエピソードありがとうございました。
 
お城ファンに理解のある方で本当に助かりましたよ
 
おかげさまで好印象の磯部館でした。 
 

 永享元年(1429)開基の古刹で、鎌倉公方足利氏の家臣であり関宿城を築いた簗田満助の菩提寺として建立された東昌寺には堀や土塁が残り城郭遺構であると考えられる。

 
 
中の島公園から山王山砦=東昌寺の遠望
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この山門は寛文6年(1666)時の関宿城主・牧野成貞公の奥さんが寄進したもの。立派な楼門です。これ以降代々の関宿藩主に庇護されました。でも山門下はお寺の方の駐車場?と化している?
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山門右側の土塁
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山門左側の土塁と堀
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 土塁
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県指定の文化財である梵鐘〜元享年間(1321年ごろ)に下野国の鋳物師・大工甲斐権守卜部助光が制作したもの。
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本堂
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メディア掲載の切り抜き〜『秀吉ゆかりの名刹・東昌寺』 梵鐘が有名なのは
調べて知っていましたが、豊臣秀吉の書状あると書いてあります。これは凄い!これについて訊ねたら見せて頂ける事になりました
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寺宝である豊臣秀吉の禁札
豊臣秀吉が天正18年(1590)の奥州討伐の際、この地を通り、東昌寺に滞在した折に記した書状といわれています。赤印は高貴な人しか使えなかったと。
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その隣にもこれも貴重そうな書状が飾ってありました。でも「これは?」と聞くの
忘れてしまいました
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お寺の北側にも土塁が残っています。
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ここはも確認できます。
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関宿城正保絵図 対岸の○印の山王村に城郭遺構が見られますが、これって山王山砦跡??
この規模だと村全体を囲んでいた…??謎です
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中の島公園から密接な関係の関宿城を。が綺麗な季節でした。
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総評 ★★★☆☆  (旦さま私見 ★3つ)

資料によってマチマチ山王山砦は川を挟んで関宿城と対峙しています。
 
古刹東昌寺の地こそが北条氏照が永禄11年(1568)に関宿城を攻略する
 
ため不動山砦と共に築いた山王山砦じゃないかぁ?とする方が多いようです。
 
判明はしていませんが当ブログでも山王山砦で記載させて頂きます。
 
この事について住職さん訊ねたら「徳川家康公が小田原の役の際、ここに
 
関宿城を攻めた。堀や土塁も残っている。」と教えて頂きました。氏照公
 
は…? またお寺の由緒書には…↓

前文略〜現在地(鎌倉時代は関宿館の出城として空堀に囲まれている)に帰転し七堂伽藍を建立再建する。天正18年豊臣秀吉の副師として徳川家康小田原攻めの折、北条支城の関宿城・水海城を攻撃するため東昌寺を宿泊本陣とす。後に家康公より「馬じるしの旗」と「桧の扇子」を賜る。その年の6月豊臣秀吉公東征の折、立ち寄り御朱印状(禁札)拝領〜後文略

とあり、北条氏照に関しては記されていませんね。どちらにせよ鎌倉時代に城と化
 
た施設であった模様ですね。山門脇とお寺の北側に土塁、堀が残っています。
 
一時現・栃木県野木市に移った東昌寺が現在地に戻ったのは戦国初期の永享
 
年(山門の案内板には寛文6年とありますが…)。
 
本堂前で話をしていたらお寺の娘さん(綺麗な方「どこからいらしたのですか?
 
良かったら本堂でお茶でも飲んで行って下さい」と声をかけてくれました。
 
お言葉に甘えてお邪魔させて頂く旦さま&るな ご住職さんも面白い方で、話を
 
目当てでお寺を訪れるファン?もいるそうです。
 
本堂の奥に飾ってある秀吉の書状も見せて頂いた上にお茶とお菓子もご馳走にな
 
りとても楽しい思い出になった山王山砦・東昌寺した。

 築城は承安2年(1172)と伝わる。大掾直幹の子・長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、郡家の場所に築城した。以来真壁氏の居城として続いた。
文献上で真壁城が初出するのは興国2年(1341)12月で、北畠親房の「御方城々」として、真壁城がみえ、南朝方の城であった。のち北朝方に立場を変え、真壁氏は地頭職を有している。応永30年(1423)、真壁慶幹のとき小栗満重の乱に小栗方で参加したため足利持氏軍によって落城したが、その後の混乱の中で慶幹の従兄弟・朝幹が真壁に復権した。
17代久幹のときに次男義幹が柿岡城に分家し、18代氏幹に至って甥の柿岡城主房幹(義幹の子)に家督を譲ったため、真壁城は真壁本家の城ではなくなった。その後、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田転封の際、佐竹氏の家臣団化していた真壁氏も出羽角館へ移住し、真壁城は空城となった。そののち慶長11年(1606)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石を与えられ、同16年(1611)に長政の跡を継いで真壁城に浅野長重が入城した。 元和8年(1622)、浅野長重は加増され、真壁は領有し続けるものの常陸笠間へ移動となり、真壁城は廃城となった。(Wikipediaより)

真壁城図『茨城県の城郭』より。アオさんも執筆しています。)
西に主郭を置き、それを同心円状に囲む二の郭、並んで三の郭外郭があります。外郭南東端に鹿島神社が鎮座。
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いきなり体育館の主郭
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主郭の稲荷社は鬼門除け。      その下の濠は整備されてないのかなぁ?
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主郭と二の郭間の堀
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二の郭から三の郭、外郭方面を望む。
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でっかい土塁!やっほ〜 この階段が復元っぽい??
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外郭東側の外濠
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鹿島神社 この境内奥に土塁があります。
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城内は広いぞぉ〜                   見事に枡形を復元
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でっかい真壁城跡の看板
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あれれ〜訪れたのは平成24年5月だから工事はすでに終了??
どう見ても終わってないでしょ
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雨引観音(桜川市本木1)に移築された城門
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反対側はこんな感じね。ここは有名なお寺らしく大勢の観光客で賑わって
いました。茨城の高尾山薬王院って感じ 
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見  ★3つ)

県道41号にあるセブンイレブンを曲がると体育館に出ます。来訪者用に広い駐車
 
場有りかぁ〜と思ったらそこはもう真壁城主郭跡でした。主郭跡は体育館建設で
 
壊されていまが東側に連なる他の郭は良く残っています
 
現在史跡公園として発掘&整備中とのネット情報でしたが、実際訪れたら郭内は
 
下草ボウボウ… GW中の5月5日にしてすでに草原状態
 
やはりここも冬の時期の方が各曲輪の区間である堀が確認しやすいのでしょう
 
中には復元された堀や土塁もあるそうですが(どこがそうなのか標示がないので分
 
りません)、細かい事抜きにすれば見応え充分のお城です。規模の大きさにも
 
驚かされます。復元された枡形が美しい 
 
あと何年後かは分かりませんが、整備完了後に再訪したいですね。
 
一面緑(下草のせい?)のノッペリした感があるので整備後に城門などの建物
 
を復元したらワンポイントになって良いかと思いマスゼぇ
 
城門と言えば雨引観音移築城門があります。主家の佐竹さんについて秋田へ
 
行く時に真壁房幹が寄進した物だとか。この境内から眺める筑波山最高でした。

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 古間木城は沼地に突出した舌状台地上の築かれた渡辺氏代々の居城です。渡辺氏は始め豊田氏の家臣でしたが天正4年(1567)に多賀谷氏に攻められ落城。この時城主・元義は討死。嫡男・勝重は多賀谷氏に従いましたが、多賀谷氏改易で帰農しました。

   
    
 
 
古間木城跡図
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古間木城跡之略図(石碑より)
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北方向から城跡を望む。主郭跡(株)渡辺食品の敷地です。
往時はこの田んぼが沼で天然の濠でした。
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立派な石碑ですが説明文が難しい…
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土塁・濠跡は←とあります。会社敷地内なので見学の許可を取って散策させて
頂きました
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土塁と道路になってしまった堀切跡。左が主郭跡、右が二郭跡になります。
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会社内には城跡を意識したっぽい。一応模擬塀としておきましょうか
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敷地の奥に土塁がありました。
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↑の右にも土塁
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二の丸跡切岸(右)と腰曲輪
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総評  ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ) 

 古間木城「こまき」かと思ったら「ふるまき」でした。
 
城跡に今も末裔さんが住んでいるパターンはありますが、ここの場合は家でなく
 
末裔さんが経営する会社(渡辺食品)が建っています。
 
戦没者慰霊碑、城址碑、城址之略図、土塁・濠←碑等も末裔の渡辺さん建立に
 
よるもの。先祖の功績を後世に伝えようとする想いが伝わりますね。お城ファンとし
 
ても嬉しい限り
 
会社入口の緩やかな坂道は堀切跡で、主郭内部は会社敷地。見学をお願いした
 
快く許可して頂きました。でも…突撃インタビューするのを忘れてしまい裏話を
 
聞く事が出来ませんでしたぁ 
 
土塁はどこにあるのかなぁ〜と思ったら会社敷地奥にありました。これは入口から
 
だと遠くて見えませんね。
 
二の郭は民家になり消滅していますが、地形は伝わりますよ。
 
以上、末裔さん経営の会社が建つ古間木城記事でした。

 栗橋城は北条氏照が北関東方面に攻め入る足場として、それまでの野田氏の持ち城であったこの城を拡張し、戦略拠点としたものです。五霞村城山は、当時の水運の便を考えるとどうしても必要だった考えられます。
 旧権現堂川を掘ったため、城跡は2つにわかれてしまったが、当地は、松本好司氏宅を中心に、北方に若宮八幡、愛宕権現を祀る社にあり、付近には、七曲りと称せられる、浅いところでは、3〜4メートル、深いところでは、10メートル位の空堀が現存しています。(図説・中世城郭事典+案内板より)

 
 
 栗橋城縄張り図(『図説・中世城郭事典』より転載) ピンク枠が残された
遺構部分。本が刊行されたのが1987年。2012年現在遺構部分はさらに
少なくなっているのが残念。
イメージ 1
 
 
道沿いで案内板発見。結構年代物で文字もかすれて読みづらいし…
今からおおよそ五百年前の室町時代、鎌倉の北条氏照氏が〜』と記されていますが、『小田原の
北条氏照氏が〜』正解かと。五霞町さん正確な案内板を新しくお願いします
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看板の道を進むと曲輪内の個人(たぶん地権者の松本さん)宅。勝手に入っては
ダメダメ。両脇がで、普通るなの立つ場所は土橋にあたりますがここは後世に設けられた通路です。
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↑の左の堀〜凄いヤブで底が見えません ↑右の堀は少しヤブで中々。
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法宣寺の墓地脇のから散策する事にしましょう。
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見事に残っているです〜見所 左の切岸内は松本さん宅がある曲輪
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本堂背後に続く
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↑の左側の曲輪はヤブヤブぅ〜
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↑を左に下りると広い幅の堀 見所
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↑に突き出ている巨大な土塁見所
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↑を下側に進むと祠のある曲輪。祠の背後に低いながら土塁が残ります。
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さらに進むと耕地に出ました〜耕地の向こう側から。
先ほどまで探検していたのが右の林。左の民家の微高地も曲輪跡と思われます。
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天然の要害・権現堂川〜この河川工事と耕地で壮大な栗橋城は現在の遺構
のみになってしまいました。
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見 ★3つ)

我が多摩地区を代表する戦国武将・北条テルテル(氏照)の持ち城だった
 
栗橋城。現在は一部しか遺構が残らないのですが、その一部が素晴らしい
 
整備されていないので散策と言うよりは探険でしたが…
 
案内板のある道を奥に進むと地権者の松本さん宅です。しかし、こここからの散策
 
出来ませんので法宣寺の墓地脇のからの突入になります。
 
何度かアップダウンがあり縄張り図を見ながらじゃないと迷子になってしまう感じ
 
の技巧的なお城です。さすがテルテル(笑) でもジャングル状態
 
高さもある巨大な土塁から堀底を見下ろすと折れ(七曲り)の一部も確認出来て、
 
往時には凄いお城だったんだなぁ〜と感じられますね。祠のある曲輪を抜けると開
 
け(ジャングルからの脱出成功!?)耕地に。耕地と権現堂川の間にもいくつもの曲
 
輪が配置されていたのですが今は民家ある微高地に面影を残すのみ。
 
真冬に訪れてもジャングルでしたので今の季節はさらに厳しそう…ご注意。
 
いつの日か残された貴重な遺構部分が保存整備される日が来ますように…
 
じゃなとモッタイナイですよぉ

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