谷田部藩は肥後熊本藩(細川氏54万石)の分家である。初代藩主興元は慶長15年(1610)下野国芳賀郡に1万石の領地を賜り、茂木に居を定めた。元和元年(1615)には大坂夏の陣に参戦。戦功をあげた事により、翌年常陸筑波郡・河内郡内に6千2百石を加増され、総石高は1万6千2百石となった。その後藩庁を茂木から谷田部に移し、谷田部藩が成立した。陣屋は明治初期の図面によると敷地面積約6千8百坪で北側と東側には堀を巡らし、内部には役所・藩主住居・文館・武館・馬場等があった。記録によると陣屋は天保15年(1844)に火災によって焼失したが、その後再建された。この幕末の頃、谷田部藩は財政危機に陥り、二宮尊徳の仕法により藩政改革を行なった。明治の廃藩置県後、陣屋は小学校舎や筑波郡役所として利用されたが、郡役所の廃止後は谷田部小学校として今日に至っている。(現地案内板より)
谷田部小学校の地が谷田部陣屋跡です。
このカーブは堀跡かな?
陣屋図(案内板より)
筑波郡役所時代の古写真(案内板より)
石碑もあります〜谷田部城跡…って見栄張って。陣屋跡じゃないの
調べたら元は多賀谷氏の城で、主の佐竹氏が秋田へ移封になり廃城。その
城跡に陣屋を構えたとね。城跡→陣屋のパターン。
陣屋時代に植えられた松がありましたが平成5年に惜しくも枯れてしまったとの事。
その松(千歳松)に使われていた石碑も並んでいます。
都市伝説もある二宮金次郎さん。怒られているワケではありません。
撮影させてくれたお礼を言っているですよ。
金次郎像は皆さんの行かれてた学校にもありましたか?
るなも旦さまも行っていた学校にはなかったですね。
移築された玄関は、谷田部小学校の目の前の公民館に利用されています。
二代目藩主・細川興昌が建てました。
懸魚(でしたっけ?)に細川家紋(九曜紋)付きね。
藩祖・細川興元はガラシャ旦那・細川忠興の弟ですが兄弟仲が悪かったらしく
細川本家を出奔
自力でこの地をゲット!
しかし小藩のため後に財政難に
陥り本家に援助してもらいましたけどね。
横から…よく見ると公民館が顔に見えます

つくば市北中妻のNさん宅に移築された陣屋門〜大きくて立派です。
この前の地震で柱が土台からずれてしまったとの事。
総評 ★★☆☆☆ (旦さま私見 ★2つ)
移築・玄関があるという事で前から気になっていた谷田部陣屋です。
実は御殿として残っているのかと思っていましたが、玄関部分のみが遺構でした
陣屋跡は小学校になり遺構は移築・玄関と陣屋門を除くと何もありません。
校内に二宮金次郎像と並んで石碑があるはずなので校門脇等から覗いたのです
が、見当らず…仕方ないので校庭で遊んでいた女子児童に「二宮金次郎像って
どこにあるか知ってる?(城跡碑って聞いても分からないだろうから)」
「あそこにありますよ(しっかり敬語使えるんだね)」 「その隣りの石碑の写真撮っ
ても大丈夫かな?」「大丈夫だと思いますよ
」 一応許可(?)を得たので急いで
校内に入り写真撮影。石碑は校舎と校舎の間、しかも昇降口脇にあるので平日の
撮影はムリですね。撮影中児童のお母さんが見ていたので、御礼を言って退却。
二宮金次郎都市伝説の一つを…校庭に薪が落ちていて、おかしなぁ〜と思って
いたら夜中に金次郎が校庭を走っていて薪を落としてしまったと…

もうひとつの移築遺構の陣屋門へ。ちょうどお家の方がいらしたので話を伺え
ました。この門は明治に移築されたそうで、馬に乗ったまま通れるように高くなって
います。先日の地震で右の柱が土台からずれて、通用扉が外れてしまいましたが、
倒壊はせずに立派に建っています。さすが陣屋門
陣屋跡を楽しむと言うより地元の方とのふれあいを楽しんだ谷田部陣屋でした。