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お城散策(長野県・新潟県)

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 鎌倉時代〜室町時代に活躍した伴野氏の居館(野沢館)と考えられている。また戦国時代頃に館を兼ねた城として増改築されたと考えられている野沢城の主郭部分にあたる。16世紀末に戦乱のすえ廃城となるが、佐久地方に侵攻して来た有力氏の支配拠点などとして利用された。江戸時代には官庫・陣屋・藩出張所などとして存続し、明治時代以降は神社境内や官公地として、現代は公園と境内地として利用されている。                      平成14年〜16年に環境整備にともない、史跡内の一部と土塁・堀の一部の確認調査を実施し、南側入口付近で戦国時代と考えられる石積で補強された土橋と底面まで緩やかに傾斜する堀が発見された。東側の土塁確認調査では15〜16世紀に推定される土塀の基部状の石積みを持つ土塁が現在の土塁下部で見つかっている。(現地案内板より)

城山公園として整備されている伴野氏館(城)です。
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三方に土塁が残っています。
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お決まりの土塁上散歩
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案内板には伴野城跡と表記されていますね。
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南西の土塁は物見矢倉跡です。
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矢倉跡上で石碑発見!
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矢倉跡からの眺め。結構高さがありますよ。下は大伴神社です。
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土橋
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綺麗な
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北側のは古城らしい雰囲気です。
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城山公園からすぐのぴんころ地蔵さん 健康長寿のお願いを
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成田山・薬師寺にあります。参道にはお店が並んで賑やかなのですが、陽も暮れたこの時は
みな終わっていました
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総評  ★★★☆☆  (旦さま私見 ★3つ)

夕闇迫る佐久で、最後に訪れたのがこの伴野氏館です。
 
佐久市観光マップを見てたら市街地にあるこの城館を発見。佐久は山城のイメージが強いのですが、
 
ここは嬉しい事に平城で城山公園として整備されていました。
 
公園として残っているのは伴野氏館の居館部分(東西74〜85m、南北110m)で、この部分を室町〜戦国期
 
に本丸として、二の丸、三の丸、出丸などを順次造営してお城へと進化。
 
現在他の曲輪跡は確認出来ませんでしたが…
 
規模拡大につき名前も野沢城に改名(?)しますが、天正11年(1583)徳川家康の家臣・芦田信蕃に当時本城
 
だった前山城もろとも攻められ落城し、廃城になりました。
 
現在南部分を除きコの字に残っている土塁は高さ幅とも十分で見応えあり。
 
南側の濠は最初は池?と思うほどですが、他の濠は幅も短く、道路も含めたのがつての濠幅かと。
 
市街地になのにこれだけ遺構が残っている伴野氏館は素晴らしい!
 
ここに向う途中に何度か見た「ぴんころ地蔵→」の標示。インパクトのある名前が印象的なので行って
 
みる事に。そうしたら城山公園のすぐ隣でした。
 
実は有名なとこで、健康で長生きし(ぴんぴん)楽に大往生(ころ)を願って建立された長寿地蔵尊でした。
 
可愛いその姿に癒されますので、伴野氏館とのセット訪問をオススメ!
 

 岩村田藩は元禄16年(1703)に武蔵赤松から内藤正友が入封した事に始まる。その子孫で最後の藩主であった正誠は、安政5年(1857)に城主郭となったこれを機に文久元年(1858)により築城が始められたが、完成に至らぬまま廃藩置県を迎えた。               計画では本丸はいびつな方形であり、外郭は折を多用した塁線となっていた。現在、岩村田城跡は主要部が岩村田小学校になり、わずかに土塁が残るのみである。

岩田村城絵図〜城内に家臣屋敷が設けられているのが特徴。
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道路で分断されていますが画像右が招魂社、左が藤城神社、正面が岩村田小学校です。
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まずは天守建設予定地だった招魂社側を。
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鳥居脇に残る土塁
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境内の様子です。
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次は火薬庫跡である藤城神社側を。
火薬製所も城内にあり、かなりキケンと思われますが、風雲急を告げる幕末の城なので
そんな事は言ってられない状況だったのでしょうか。
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土塁上部には藤城神社、石碑、由来碑が並んでいます。
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これは立派な城址碑だなあ。
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眺望を。どこだか分かりませんが大井城もこの方向に見えているハズ
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こちらところ変わって中嶋公園(佐久市野沢)です。
この場所に移築された岩村田城があったはずなのですが…
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総評 ★★☆☆☆  (旦さま私見 ★2つ)

完成から僅か7年で廃藩置県になってしまった命短し、悲劇の岩村田城です
 
やっと城持ち大名になったのに切ない内藤さん。
 
しかもお隣の田野口藩は現在も信州の五稜郭として脚光を浴びているのに対してこの岩村田城は
 
土塁の一部を残して消滅と。 岩田村小学校の地が本丸御殿のあった場所で、そのすぐ前に土塁が
 
残る招魂社と藤城神社があります。真ん中を道路が貫通していますが、これは後世に造られたもので、
 
堀切を利用したものではなさそうですね。
 
藤城神社は明治になって火薬庫跡に歴代藩主を祀ったものです。
 
気になるのはお隣、招魂社の「天守建設予定地」 大名になったら天守を持ちたいと思うのは当然。
 
しかしいくら幕末で幕府の権力が弱まり、一国一城令が済し崩しとなっていても、1万6千石の小大名。
 
周りの目も気になるので、もう少し様子を見て天守建設を考えようと、その用地だけを確保しておいたのです。
 
結果は天守建設を考えるまでもなく、廃藩置県で廃城。
 
でも信州一の貧乏・藩だったので金銭的にも無理だったかもね。夢を見るのはタダだから
 
移築建造物マニアでもあるので、城跡散策の後、蔵が移されている市内・中嶋公園に向いました。
 
しかし…公園内の蔵があるはずの場所は空き地になっていて影も形もありません。
 
まじっすかぁ  公園内をくまなく探してもやっぱり見当らないし。 その旨の案内板もなし。
 
佐久市文化財センターに問い合わせしたところ、その蔵の存在すら知らなかったと… あれまぁ
 
確かに平成18年まではあったのです。 もしや老朽化ために壊した?? 謎の移築蔵は何処へ

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高島城は天正18年(1590)、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉によって設計され、文禄元年(1592)着工、慶長3年(1598)完成した。
高島城は、諏訪湖と数条の河川が周囲をめぐり濠の役をつとめ、諏訪湖の波が城の石垣に迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれ慶長六年(1601)初代藩主諏訪頼水から十代藩主諏訪忠礼に至る二百七十年間、諏訪氏の居城としてその威容を誇ってきた。
 明治4年(1871)廃藩置県となり、明治八年(1875)廃藩置県によって天守は撤去され、翌明治9年(1876)五月高島城址は「高島公園」として、一般に開放された。
 朝夕の「時の太鼓」が鳴らなくなって百年、諏訪の住民の「高島城」に寄せる愛着は強く、昭和四十五年(1970)春、ここに「高島城」は復興された。
 
定番アングルですが、この景観は良いですね。
イメージ 1
 
 
昭和45年復興の天守。高さ20,2m、天守台は12,54m。
あれ、よく見ると天守は天守台より小さいんだぁ。
往時の屋根は諏訪の寒冷に耐えられる瓦が調達できなかったために杮葺きでした。
今は銅葺きです。
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冠木門脇のが木に破壊されている…
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川渡門跡です。浮城の時代にはここから船で諏訪湖に出ました。
現在建つ門は三の丸御殿裏門で、昭和63年に移築。
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訪れたこの日はお諏訪祭りが開催されていて、屋台も出ていましたよ。
中でも注目なのはシロホルモン、横手焼きそば、富士宮焼きそば、肉巻き
おにぎり、くるくるソーセージetcB級グルメを一度に食べれる夢のような
屋台。偶然にもこの日に開催されていた厚木の本家(?)B級グルメ大会まで
行かなくても大満足でした(笑)
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お諏訪祭りの出し物(?)の一つ、狼煙実演!
狼煙有賀城、桑原城にあがりました。(画像は有賀城ね)
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現在では、かつて浮いて(浸かって)いた諏訪湖とは700mの距離があります。
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最上階で復元模型発見!
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現在は市役所敷地の南の丸跡。江戸幕府の罪人を預かった場所で
周囲は湿地帯で堀と柵とで厳重に囲われていました。
この地にはじめて流された松平忠輝を祀る小さな祠があります。
法華寺にお墓がある吉良義周さんもここに流されました。
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かつては家老屋敷(後に藩校・長善館)や馬場などがあった二の丸跡
現在は市街地化。でも街中に天守が見れるって良いなぁ
橋の下は濠の役割をしていた三之丸川が流れています。
イメージ 2
 
 
三の丸には温泉施設がありました。その名は三の丸温泉〜そのまんまや
7代藩主・諏訪忠粛が天明6年(1786)に下鶴沼に湧いていた温泉を木管で引い
て(約300m)造らせたもの。
驚くことにその姿を変えながらも平成8年まで使われていました。
現在でもその名残でしょうか、温泉が出ています。しかもこれが熱い!!
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道の先のクランクしているとこが大手門跡
この橋の下も濠の役割をしていた衣之渡川が流れています。
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最後にもう一度天守を眺めてバイバイね
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総評 ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)
 
 高島城には何度か訪れていますが、いずれも「松本城の帰りに寄った〜」のオマケ的訪城でした(^-^ゞ
 
皆さんの中にも松本城とセット訪問された方は多いのでは?
 
しかし今回は初の高島城メインの訪問で、今まで散策した事のない本丸以外の郭も散策して来ました。
 
案内板は本丸以外だと、「南の丸跡」、「三の丸跡」、そして高島城と城下町を繋いでいた道路の「縄手」
 
に設置されています。 
 
驚きは三の丸に温泉施設が設けられていた事ですね。城内に温泉を引いていたなんて、さすが温泉
 
地にあるお城ですネ。三の丸跡案内板前の「丸高味噌」には足湯(現代の)があります。
 
出来れば天守が見える場所に足湯があればよいのになぁ〜。
 
南の丸は幕府の罪人が流され、幽閉される郭で、そのために増築されました。
 
諏訪って(高遠もそうですが)罪人が流されるほど辺ぴなとこじゃないと思うのですが…
 
諏訪の人に失礼や〜
 
でも諏訪の地に返り咲いたのは徳川さんのおかげ…諏訪さんも文句を言えなかった?
 
日根野氏築城時は諏訪湖に浮かぶお城でしたが、諏訪氏は水害防止と農地開拓のために干拓を実行
 
し、浮城から平城に移行してしまったのです。なんか残念…
 
窓の後ろに光るガラスと、復興時に増やしてしまった華灯窓のためか、非難を浴びる事のある天守。
 
でも、その外観は個性的で良いと思うのですが… そうそう復元模型を見て知ったのですが、小天守
 
が連結されていたのですね。復興時には形状が不明のため造られなかったとの事。
 
小天守があれば評判悪い城内側からの眺めも見栄えが良くなったのにネ
 
天守内部の展示資料もリニューアルしたみたいで、以前より充実していましたよ。
 
今回散策してみて、オマケじゃなく、メイン訪城でも充分楽しめる事が分かった諏訪高島城でした
今回は諏訪高島城の移築遺構が残る温泉寺を紹介しますね。
 
温泉寺は臨済宗妙心寺末寺で寛永17年(1640)二代目高島藩主・諏訪忠恒
の開基によるお寺です。
 
温泉寺(長野県諏訪市湯の脇1−21−1)
 
この山門が高島城からの移築城門です。
しかし城内のどこにあった門かは不明… 
明治3年お寺の火災後に城内より移築されました。
イメージ 1
 
 
横から見るとこんな感じです。
塩尻市片岡の常光寺にも移築城門がありますが、今回はパス。
イメージ 2
 
 
この本堂高島城能舞台を改築したもの。なかなかカッコイイやん〜
文政10年(1827)に本丸御殿脇に建てられたもので、城門とともに明治3年の
お寺の火災後に移築されました。
イメージ 3
 
 
あっ!獅子象さんの彫刻
イメージ 4
 
 
多宝塔もあります。この中に寛永8年(1632)諏訪忠恒が再造した石造りで
高さ2mの塔が安置されているそうです。元は諏訪神社上社の御神体だった
「石之御座多法塔」で、明治の神仏分離で放置されたものをここに安置。
イメージ 5
 
 
諏訪高島藩主の墓所です。中央の覆屋は温泉寺を創建した二代藩主・諏訪
忠恒の石塔が納められて、その周りに三代〜八代藩主の石塔が並んでいます。
イメージ 6
 
 
平安時代の歌人・和泉式部のお墓も。
歌の才能はバツグンですが、私生活では恋多き女。その素行はよく批判された
そうです
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高島城遺構と共に見たかったのは天正10年(1582)織田信忠が武田討伐の際に、伊奈郡市田村の安養寺から略奪して神宮寺(前に紹介した法華寺)まで引きずって来て捨てた(!)梵鐘です。温泉寺創建にあたってこれを流用したとの事。
その案内板はあるのですが…
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梵鐘はどうやら公開されていないようなので高島城で購入した資料から写真を。
 
イメージ 9
約85mの道を引きずって来たので、鐘の文字は削れてしまっているそうです。
戦利品とはいえ、こんな重い物を
よく持って来ようと思ったものです
よね〜。
結局は放置だし…
 
あ〜でも本物を見たかったなぁ
 
 
 
 
 
境内からは諏訪湖も眺められますよ
イメージ 10
 
 
高島城遺構と梵鐘目当てで訪れましたが、他にも思わぬ史跡があって
とても楽しめた温泉寺でした   次回の予定は高島城です。

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 真田信之は真田昌幸の長男として永禄9年(1622)に生まれた。弟に信繁(幸村)がある。
元和8年(1622)上田から松代に移り10万石を領した。民政に力を用い名君とうたわれ松代
藩の基礎を固めた藩主。松代藩主として35年、明暦2年(1656)子の信政に家督を譲って
近臣と共に柴村の館(大鋒寺の地)に隠居して2年後の万治元年(1658)10月17日93歳
で死去した。館の地で荼毘に付しその灰塚の地に墓碑が建てられた。信之の館をそのまま寺にした
とも、館の材を用いて改築したとも云われるが信之の法号に依って大鋒寺とした。(案内板より)


真田信之の遺言で隠居館跡に建立された大鋒寺〜
山門前に幸村の記念碑を発見。しかし何の記念碑だか確認忘れました(_ _*)_ _*)
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書院跡に建つ御霊屋〜
ここが墓所かと思ったら御霊屋でした。近くで拝もうと思ったら凄い蜘蛛の巣で…(ノ_<。)
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 松代初代藩主真田信之の隠居所書院跡に建てられた霊屋。信之は明暦2年(1656)隠居し、
翌3年7月、新造の隠居所に移った。同4(万治元年)93歳の天寿を全うして没し、遺命により
隠居所を寺とし、真田林大鋒寺と号した。大鋒は信之の院号である。2代信政は父より先に没した
ので、3代幸道の時、伽藍が建てられた。
霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。
正面3間、奥行5間、奥行の柱間は狭く、4、5尺である。宝形造・カヤ葺きである。外陣の欄間
には36歌仙画が飾られているが、残っているのは24枚である。内外陣の柱2本が円柱で、その上
に木鼻付の出組があり、ここだけが仏寺用の木組になっている。
 内陣中央に阿弥陀三尊、向って左に信之像(厨子入)、右に2代信政の画像を安置してあったが、
明治4年、松代花の丸御殿にあった8代幸貫の像を移し、内陣奥に主張りを新造して三尊を安置し、
幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。この霊屋は由緒がはっきりしており、近
世初期の建築で、文化的価値の高い建築物である。         (案内板より)



信之の墓〜長野市指定文化財です。
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千曲川堤防上から見た大鋒寺〜
館としての遺構はないですが真田ファンとして歴史的価値は高いです。
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総評  ★★★☆☆ (旦さま私見 ★3つ)


真田信之のイメージって『真面目でしっかり者の長男』ですね。関ヶ原の時に家名を残すため

敵味方に別れ、合戦後に命乞いをして昌幸と幸村の命を助け、九度山に仕送りをして…と。

信之がいなかったら真田の武勇もこんなに今の世に伝わらなかったでしょうね。

また幸村が大坂に入城したと聞いてどんな気持ちだったのでしょうか?

信之は病気理由(仮病?)で大坂の陣には出陣せず、息子達が出陣したわけですが。

きっと「さすが我が弟よ、やってくれるのぉ」と誇らしげに思ったのでしょう♪

その信之の隠居館跡の大鋒寺は山本勘助の墓と千曲川堤防を挟んですぐ近くにあります。

民家に囲まれていて分かりづらいので堤防から畑に入らないように注意して下りていくのが

近道です。

風林火山で賑わう勘助の墓と対象に大鋒寺はひっそりとしていて、人の気配も無くて無人寺?

と思うほどで、正直寂しいです。同じく信之の墓のある長国寺の方は立派なのに…

松代の町をつくった名君のためにも真田信之主役で大河ドラマを是非!昌幸、幸村も活躍して

風林火山級の大ヒット間違いなし!!

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