旦さまと私

るなと旦さまの歴史バラエティブログ+音楽+美味しいもの

お城散策(長野県・新潟県)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]

                  『小諸城』
 小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて『源平盛衰記』や『平家物語』に登場する
小室太郎光兼(木曽義仲の武将)が現城址の東側に館を築いた。またその後、大井光忠が小室氏の
勢力をおさえて鍋蓋城を築きその子光為がさらに出城として乙女坂城、別名白鶴城(ニの丸跡)を
構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘助や馬場美濃守
信房に命じて築城したのが、現在の小諸城で酔月城とも云われている。
 その後、織田信長の将滝川一益、徳川家康の将松平源十郎康国が城主となった。さらにその後、
仙石秀久が城主となってニの丸・黒門・大手門を建て、その子忠政が三の門・足柄門を建て現在の
小諸城が完成した。その後、城主は徳川・松平氏など六氏に代わり、元禄15年(1702)牧野氏
になり十代続いた。
 この城の特徴は、全国でも珍しい城下町より低い『穴城』で、浅間山の火山灰で出来ているため
水を用いらず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっている。明治4年(1880)廃藩置県で役目を
終え、明治13年(1880)に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになった。(小諸城パンフより)


小諸城のシンボル三の門〜『懐古園』の大額は徳川慶喜の後宗家を継いだ家達の筆です。
イメージ 1



ニの門跡〜二層切妻造りの枡形門で二の丸と南丸をつなぐ渡り櫓門となっていました。
イメージ 2



黒門橋と黒門跡〜黒門橋を渡ると本丸です。黒門は市内正眼寺に移築現存しています。
イメージ 3



御駕籠台跡
イメージ 4



おぉ!模擬天守か模擬櫓かぁ…答えは本丸に鎮座する懐古神社の社務所でした(;^ω^A
イメージ 5



山本勘助が研磨して使っていたと云われる鏡石〜しっかり顔が映りますよ♪隕石かもってか?
イメージ 6



天守台〜天正13年(1584)完成した3層の望楼式天守で寛永3年(1626)落雷により
焼失したと云われています。ここから金箔瓦、金箔を張った鯱瓦が発見されました。
天守台ゆがんでいる気が…
イメージ 7



『ゴアさん』のブログみたく天守台上端っこから地獄覗きだぁ〜そんなに高さはないのに怖い!!
イメージ 8



武器庫〜文化14年(1817)牧野康長が建てたものを復元
イメージ 9



お城の南北は深い谷で守られています〜これは北側のその名も『地獄谷』
イメージ 10



駅の東にある大手門〜ただ今修理中!
イメージ 11



総評  ★★★★☆ (旦さま私見 ☆4つ)


上田城から小諸城に着いたのが午後4時ちょい前で、閉園まであと1時間!!とりあえず微古館で

100名城スタンプ押して駆け足の散策となってしまいました。

上田城が賑やかな観光地だとしたら、小諸城は静かなる観光地ですね。

なんと言っても苔むした石垣がいいですね〜野面積みの天守台には感銘を受けました。

古城の佇まいが感じられて、次回はもっとじっくり時間をかけて散策したいです。

三の門を入ってニの丸へ進むとやっぱり下ってますね〜まさに『穴城』の異名通りです。

駅向こうの大手門は明治維新後は民有となって小諸義塾教室となり、島崎藤村も教鞭を

とっていた事があります。かなり大きな楼門ですが来年の3月まで修理なのでその姿をが拝見する

事ができず(ノ_<。)です。

とにかく時間がなくて足柄門が移築された光岳寺も見つける事が出来なくてグルグル回っていたら

日が暮れてしまい泣く泣く小諸を離れて、東京に向かいました。
                『上田城』
 上田城は、真田真幸によって天正11年(1583)から築城が開始された平城である。
城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、
他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防禦陣地としている。この上田
城の特性は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際
に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。
 しかし、真田氏の上田城は、関が原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣
は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて、仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
 仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請(土木工事)は完成
したものの、櫓や城門を建てる作事(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。本丸には天守は
建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によっ
て確認されている。上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
 現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口(城郭の出入り口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建
造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(西櫓・北櫓)は、明治初期に民間に払い下げられ、
市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和十八〜二十四年にかけて現在の場所
に復元したものである。これら3棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和34年
に長野県宝に指定された。
 3棟の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行五間、梁間四間の妻入り形式である。屋根は
入母屋造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁で、腰下見板張り、内部は白漆喰塗りの真壁
となっている。窓は白漆喰塗りの格子窓で、突き上げ板戸が付いている。
 なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成
果などをもとに、平成六年に復元したものである。櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋には、
両側に武者立石段と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
              (上田城案内板より)




真田ファンにお馴染みの上田城〜ここで真田昌幸・幸村親子が采配をしていたと思うと感激!
平成6年2月復元の東虎口門と北櫓です。
イメージ 1



城内側から北櫓
イメージ 2



北櫓二階内部〜南櫓、東虎口門、東櫓共に内部公開されています。
イメージ 3



北櫓二階から東虎口門と南櫓を望む
イメージ 4



民家になった北櫓と南櫓の古写真(南櫓内部に展示)
明治になって払い下げになった北櫓と南櫓はつなぎ合わさて遊郭の建物として用いられた後に
民家に転用されました。ちなみに明治の払い下げ時になかなか買い手がつかず値下げして櫓一基6円、
しめて12円で落札されました。(今のお金で100万に満たない金額)
昭和22年再び城内に移築復元。
イメージ 5



本丸には真田神社が鎮座しています〜本殿には上田原の戦いの時に武田信玄と真田幸隆が兜を掛けた
云われる兜松で作られた『真田幸村公碑』が。
ちなみに幸村の本名『信繁』は武田信玄の弟で勇猛果敢の典厩信繁にあやかるべく真田昌幸がつけた
名だそうです。
イメージ 6



西櫓〜当時からここにずっとある唯一の櫓(非公開)
上田市博物館が出来るまではこの西櫓が資料展示の『微古館』として公開されていました。
イメージ 7



かつての尼ヶ淵は駐車場になっています。
イメージ 8



本丸土塁の隅おとし〜
上田城の特色の一つで『鬼門除け』として丑寅の方角の隅を切り込んであります。
イメージ 9



博物館にある上田城模型
イメージ 10




総評  ★★★★☆ (旦さま私見 ★4つ)


二度に渡って徳川軍の攻撃を退けた真田さんの名城・上田城です。

関ヶ原後に真田親子が九度山に流され、上田城は徹底的に破却され今残る城は仙石忠政が

築いたものです。しかし真田びいきの私達はここを真田築城の上田城として思いを馳せます。

小さなお城ですが尼ヶ淵跡から見上げる三つ子櫓(3基の櫓はどれもそっくりなので三つ子櫓と命名)

に要害堅固な上田城の姿を垣間見ることが出来きます。

旦さまは昔NHK人形劇『真田十勇士』を見て真田のファンになったそうで、本宮ひろ志の

『真田十勇士』の漫画を売ってしまった事をいまだに後悔しております(あ〜もったいない)。

南櫓や博物館にある復元模型を見ると分かるのですが、上田城本丸には7基の櫓と2基の櫓門

があるのですが(御殿はない)、二の丸には土塁の櫓台だけで建物はありません。三の丸にも。

藩政は城外に構えられた屋敷で行われ城内は倉庫として利用されていたそうです。

やがて木が茂り森のようになり、しまいにはカラスの巣でいっぱいになってしまい…

カラスだらけの城内に詰める藩士が嫌がったと、ガイドさんから聞きました。

戦国時代には素晴らしい働きをした上田城も天下泰平の時代にはカラスの城になってしまったとは…
           『荒砥城』
 荒砥城は今から約400年前にこの地を治めていた村上氏の一族である「山田氏」によって築かれ
た城で、郭(くるわ)が連なるように並んでいたところから「連郭式山城」と呼ばれています。
 この時代は、全国各地で戦(いくさ)が繰り広げられていた戦国時代という時代です。この地も例
外ではなく、荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、天文17年
(1548)上田原の戦い、や天文19年(1550)戸石城の戦いで、甲斐(現在の山梨県)の
守護大名武田信玄との戦に勝ち、領地を守ってきました。しかし、武田氏の圧倒的な軍勢の前に、
天文22年(1553)ついに葛尾城は落城し、村上氏はこの地を追われ、山田氏は滅亡、荒砥城は
城主を失いました。その後、有名な川中島の戦い(1553〜1564)を経て荒砥城は越後の大名
上杉氏の治める城となりますが、海津城の副将であった屋代秀正は上杉に背き海津城を出て、荒砥城
に籠もります。そこに上杉軍が攻め入り、屋代秀正は逃亡、荒砥城は落城しその後廃城となり、城と
しての役割を終えることになります。                  (荒砥城パンフより)


荒砥城鳥瞰図〜
戸倉上山田温泉背後に聳える比高215mの山城で千曲市城山史跡公園として整備されています。
この日は『荒砥城まつり』開催のためにシャトルバスで行きましたが、普段は車で上れますよ。
イメージ 1



管理棟横の削平地が四の郭〜
『荒砥城まつり』戦国チャンバラ大会の会場です。
頭と背中に付けた紙風船を割るゲームで、るなは見事旦さまをやっつけました。
イメージ 2



本郭に行く途中にあった石垣〜これって遺構?
イメージ 3



ニの郭矢倉門〜おぉ、TVと同じだ(笑)
平石積みの石垣が関東人の私達には珍しくて興味深いですなぁ。
イメージ 4



井楼矢倉には上れます〜
イメージ 5



井楼矢倉からの眺めは素晴らしい!!〜戸倉上山田温泉や千曲川、そして葛尾城等が望めます。
長野の山城は本当に高い山に築かれてますよね、これじゃ詰める武士も大変だったでしょうね。
イメージ 6



ニの郭〜『荒砥城まつり』で狼煙をあげています。
城山麓で開催される『そば祭り』がこの狼煙を合図に始まるという戦国方式!粋な演出♪
イメージ 7



ニの郭兵舎内部は資料展示と荒砥城の歴史ビデオ上映(唐突な終わりで?な内容ですが)
やはり観光客の目を引くのは『風林火山』関連資料ですね〜台本です。
イメージ 8



本郭からニの郭
イメージ 9



本郭矢倉門を入ると枡形に沿って上ります。
イメージ 10



本郭には城主の館と兵舎が再現されています
イメージ 11



館内部には無視されがちな生活用品もあってよりリアルに感じられます。
「瓶の中には何も入ってないよ〜」
イメージ 12



『荒砥城まつり』最大の呼び物『戦国汁』の無料振る舞い!
(ちなみにおまつりなので入城も無料でした)
キノコいっぱいの豚汁なのですが、この雰囲気も手伝って美味しさ倍増v(≧∇≦)v
イメージ 13



総評  ★★★★☆ (旦さま私見 ★4つ)


念願の荒砥城に行ってきました〜しかも偶然『荒砥城まつり』開催日で盛り上がっていましたよ。

大河ドラマ『風林火山』でこの荒砥城の存在を知ってから恋焦がれていたのです♡ (#ノ▽ノ#)

その荒砥城ですがまさに夢の戦国テーマパーク♪ 

木が伐採されて360度視界が開けて、柵・館・兵舎・井楼矢倉とそれはまさしく戦国の姿・感動…

逆井城の様に遺構と戦国建物が共存しているわけではないので、評価が分かれるところでしょうが、

大峰城みたく天守じゃなく史実に基づいた復元なのでバンバンザイでしょう。

ロケに使われたおかげで一般の方々にも知られて(私もですが(;^ω^A )麓の戸倉上山田温泉にも

少し賑わいが戻ってきたようです。

驚いたのは史跡公園として整備される前は本郭に観覧車(あの狭い敷地にかぃ!)、三の郭に植物園・

動物園、四の郭には城泉山観音と温泉客のためのレジャー施設だったのです。なので城山はかなり

手が加えられたと思われます。しかしバブルが弾けたおけがで、こうして戦国山城として蘇えった

わけですから、私達お城ファンとしては嬉しい限りですね。人に歴史あり城に歴史あり。

開く トラックバック(1)

                           『松代城』
 松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、武田方の前進基地と
して築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3年(1560)頃に普請が完了したものと
伝えられています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸、
三の丸を整備し、土塁を石垣に築き直したものと考えられています。
元和8年(1622)に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、
松代藩真田家10万石の居城となりました。
 松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に
向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。
 明治5年(1872)の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56年(1981)本丸を中心
とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。


江戸時代末の松代城の図
イメージ 1



今や松代城の顔・太鼓門!〜内枡形で平成16年に北不明門と共に復元完成。
イメージ 2



本丸戌亥隅櫓台〜かつては天守台と云われていました。上にるながいまぁ〜す。
イメージ 3



北不明門〜かつては千曲川の河川敷に面していたので水ノ手御門とも呼ばれていました。
イメージ 4



ニの丸御殿跡を土塁上から〜整備前はテニスコートでした(みやけんさん談)
イメージ 5



ニの丸土塁の埋門〜今回の復元時に通路のために造ったと思ったら松代城図にしっかりと
描かれている埋門でした。一瞬沖縄の城門にも見える…かも(;^ω^A
イメージ 6



本丸を東から。
イメージ 7



新堀〜濠というより池。それにしても周囲の山々が綺麗です。
イメージ 8



ニの丸南門跡の土塁上には『風林火山』〜山本勘助が縄張りしたと云われている海津城ですから。
イメージ 9



ニの丸売店に大きなワンちゃんが〜ミックス?秋田犬にも見えるけど…ハチ公かな。
イメージ 10



総評  ★★★★☆ (旦さま私見 ★4つ)


川中島合戦で有名な海津城こと松代城です。

10年振りに訪れましたが、見事に復元整備され復活しましたね、素敵♪

曲輪内に木が少ないので凄く広々とした印象です。

栩葺で葺かれた太鼓門、北不明門の武骨な姿が松代城と海津城を=で結び付けていますね。

そう云う意味では松代城は白亜の城でなくて良かったかも。

でも風林火山ブームの今は「海津城」の名前の方が断然メジャーでしょうが…

本丸が狭く感じたのですが、これは海津城の規模のままなのでしょうか?

戌亥隅櫓は絵図によると他の本丸櫓同様に二重櫓ですが櫓台の大きさから言っても天守代わりの櫓

であったと思われます。ちなみにここから見える皆神山が世界最古のピラミッドと云われている山

でUFOがよく現れるそうです。


今回松代城見学にあたって『へっぽこ道中一人旅』http://blogs.yahoo.co.jp/miya38ken

みやけんさんにご一緒していただきました。感謝です(_ _*)_ _*)

整備される前の松代城の話とか山を越えての通学の話とか地元の方ならではの話がいっぱい聞けて

とても楽しかったです。みやけんさんは本当に気さくで人当たりの良い方でしたよ♪ 

こうしてブログを通じて知り合った方とお城巡りを一緒に出来るってとても素敵なの事ですよね。
      
イメージ 11
 

開く トラックバック(3)

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 前のページ ]


.
るな
るな
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事