天満八軒家にあった船宿京屋は新選組の大坂でも活動拠点のひとつで、徳川家茂警護で下向した文久3年4月の壬生浪士時代から鳥羽伏見の敗戦で江戸に敗走するまで利用された。大坂城京橋口から土佐堀通を西に向うと、かつて水の都・大坂の船着き場と
して賑わった八軒家の跡があります。八軒家の名前は八軒の船宿や飛脚宿が
あった事が由来ですが幕末には10軒の宿が軒を連ねていました。
昆布処永田屋本店前に八軒家船着場の跡石碑発見!
水運交通の重要地点のここで新選組が検問をしていた事もあります。
また鳥羽伏見の敗戦後大坂城に入った徳川慶喜が「江戸城がダメでも水戸城が
ある!よしやったるぜぇ!
八軒家船着場の跡をさらに西へ。するとフロマージュ天満橋店(チーズ屋さん)
この周辺が新選組大坂での常宿・京屋忠兵衛の跡です。
お店の入口横に銘板
京屋は間口11間、奥行9間。現在で言うとフロマージュ天満橋店+東隣の空き+
西隣のビルの敷地で八軒家の中で大きな船宿でした。
大河・新選組!でも描かれたお相撲さんとの大乱闘事件や商家での金策も
京屋宿泊の時。鴨ちゃん大暴れの後、ここ京屋に戻りでご就寝
京屋主人・忠兵衛さんと近藤先生はかなり親しい間柄だったようで、深雪太夫を身請け出来たのも忠兵衛さんの周旋のおかげだとか。
さらに深雪太夫が亡くなった後に妹・お孝さんを身請け(先生お好きですなぁ
京屋の前は土佐堀通 土佐と言えば龍馬じゃき。龍馬と言えば奥さんのお龍さん。
お龍さんは独身時代に妹を大坂丼池まで救出に行った時、京屋を利用したと回想録『反魂香』の中で語り残しています。ちなみに龍馬の常宿は京屋並びにあった堺屋だそうです。新選組と龍馬がニアミスしていた可能性アリ
新選組が最後に京屋に宿泊したのは鳥羽伏見敗戦後の大坂入りの時。
満身創痍の隊士達を迎えてくれた京屋。
しかし、しかし慶喜逃亡…
忠兵衛さんと近藤先生は別れの言葉を交わせたのかな…
大阪で誠の文字が見れたのは意外です。なので余計に嬉しいですね
新選組の歴史の中で一番輝いていた京都時代(大坂も含む)
その中で京屋での思い出も多いでしょうね。
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