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下総流山で拘束された近藤勇(大久保大和)が板橋宿の東山総督府に送られて来たのが、
慶応4年(1868)4月4日。その板橋宿を散策して来ました。
板橋
中山道筋の石神井川にかけられた板橋区の名前の由来にもなった 板橋です。
挙兵後の 源頼朝が陣を張った所でもあります。江戸時代に中山道が敷かれ、板橋をはさんだ街道
一帯が 板橋宿と定められました。昭和7年、木製からコンクリート製に改修。現在の橋は石神井川
の改修に伴って昭和47年に完成したもの。板橋のシンボルですね。
縁切り榎
「いたばし観光センター」に展示されている枯れた初代 縁切り榎。
現在板橋宿入口にあるのは3代目の縁切り榎。江戸時代この榎の下を通ると不幸になると言い伝えが
あり、 和宮さんの降下の時は榎の下を通らないように道を造り変えた上、榎に菰を被せたと。
この初代さんが菰を被さられたのかな。
板橋本陣跡(板橋区仲町47)
現在スーパーマーケット「ライフ」のある所が本陣跡で、ライフ横に石碑があります。
代々飯田家が務めて、参勤交代の大名や幕府の公用の武士、そして 和宮さんも宿泊したとこです。
護送されて来た近藤さんはここで取り調べを受けました。
板橋平尾脇本陣跡(板橋区板橋3−15−10)
徳川家康の関東入封で三河より移って来た豊田家が板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めました。
4月4日当日、本陣より近藤さんが馬に乗り移されて来ました。そして処刑される前々日( 23日)まで
ここで監禁されていました。
監禁と言っても豊田家の方々と交流もあって娘トミを自分の娘タマと重ねたのか、毎日ひざに乗せて
子守唄を歌ってあげたとのエピソードも残っています。
ゲンコを口に入れて和ませる大河ドラマ「新選組!」シーンが思い出されました。
監禁中、近藤さんの処置を巡って土佐と薩摩の意見が対立したと云われています。
坂本龍馬暗殺が新選組の仕業と思っていた土佐は断固厳罰に処すべき!だと。
切腹ではなく斬首を告げられた近藤さんの心境は…(ノ_<。)
石山亀吉邸跡(北区滝野川6−62)
近藤さんは処刑の前日( 24日)に滝野川村三軒家の石山亀吉邸に移されました。
亀吉は当時寿徳寺の寺総代を務めていて、処刑後この地を寿徳寺に寄進。そして現在は
近藤さんの墓所のある寿徳寺境外墓地になっています。
豊田家から駕籠で来た近藤さんは真新しい白衣を着ていました。明日首を刎ねられるのに
もの静かで落ち着いていて「さすが一軍の将、立派だった」と記録に残っています。
夜風呂に入った後にヒゲを剃り、何か読むものはありませんか?と亀吉に尋ね「絵草紙」を
借りたそうです。翌朝白衣に着替えてから駕籠で刑場に送られました…
平尾一里塚処刑場跡
新選組局長・近藤勇、 慶応4年4月25日平尾一里塚で斬首…
見守る群集の中には後に天然理心流と近藤家を継ぐ 宮川勇五郎の姿が。
処刑を見終わると、故郷である上石原村に一部終始を報告するためにへ駆け出しました。
近藤さんの介錯を務めたのは美濃揖斐の旗本・岡田家の武術指南役・横倉喜三郎。
板橋駅のすぐ北の埼京線踏み切りが一里塚があったと場所と云われていますが、今は跡形も
案内板等もありません。一夜さらされ首は京都へと送られました。
埼京線板橋駅から縁切り榎まで仲宿商店街を経由した散策でしたが、シャッター商店街が多い今、
ここはパワフル。かつての板橋宿の賑わいを偲ばせてくれますよ。お肉屋さん店頭で買って食べる
コロッケって美味しいですよね(;^ω^A 商店街にある「いたばし観光センター」には資料展示も
されているのでお越しの際には寄って下さいね。
近藤さんは処刑までの22日間をこの板橋で過ごした(監禁されていた)わけで、最期に見た町と
思うと感慨深いものがあります。時代が新政府に向かっていたとは言え、江戸っ子の心はきっと
近藤さんに拍手を贈っていたでしょうね。監禁されていた豊田家では近藤さんの死後すぐ位牌を作り
菩提を弔っていますし。嫁に行った後も娘のトミは4月25日近藤さんの命日、墓碑に花と香を手向
けたと伝わります。
士道を貫くための切腹も許されず斬首された近藤さん、大きな怨みをかった分、果たした仕事も
大きかったのでしょうね。
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