|
旧東海道の謎、 Q2。何故、大井川は「川渡し」にこだわるの?「船」じゃいけないの? 東海道というのは、海沿いを歩きます。 平地で歩きやすいのですが(実際、箱根峠越え以外、ほとんど山歩きはなし) 最大の障害は「川」です。 昔は、大きい川には橋がありませんでした。 理由1、防衛のため。橋がなければ、敵は簡単に攻めてこれない? 理由2、そもそも、大きな川に橋を架ける技術が未発達だった。 お陰で、大きな川を越えるのが大変でした。 その中で有名な悪制度が「川越え」 人足が肩車したり、蓮台に乗せて渡す制度。 その中で一番有名なのが「大井川」ですね。 旅人は、難儀しました。 山ばかりの中山道の方が、 大きい川がなかったので、かえって歩きやすかったのかもしれません。 ここまでは、日本史の教科書に書いてあること。 でも、実際に歩いてみうと すごい不可解なことがあるのです。 「渡船」 橋は架けられなくても、船はあるのです。 たとえば、静岡県内には、 富士川、大井川、天竜川という超有名な大河があります。 もちろん、江戸時代だって、大河です。 このうち「川越え」という面倒くさいことをしていたのは、 大井川だけなのです。 私には、これが不思議でならないのです。 だって、防衛上の理由で橋を架けないのであれば、 「渡船」にしておけばいいハズです。 実際、富士川と天竜川は「渡船」です。 川渡し、というのはどう考えたって不経済です。非合理的です。 船だったら、一度に多くの人を運べます。 なんで、大井川だけ、こんなバカな制度にしたのでしょう? 料金も相当高かったみたいです。 船だったら、もっと安く済んだのに。 こっそりと自分で渡って、流されておぼれ死ぬ旅人も相当多かったらしいです。 ちなみに、自力で川を渡ることは厳禁、 但し、力士は自分で渡っても良かったらしいです。 重くて、担げないから?(笑) 今の交通手段に置き換えれば、 便利な公共鉄道を廃止して、 一人乗りの自家用車専用道路に作りかえるみたいなものですね 逆に言えば、こんなバカな事にも隠れた意味があるとしたら、 何故、他の川も「川越え」にしなかったのでしょう? エライ歴史の先生は、こういうことを疑問に思わないのかなぁ・・・?? 気になって仕方なかったのですが、 とある本に、面白い記事がありました。 本当は富士川、天竜川も大井川と同様に「川越え」にしたかったのだが、 この2つの川は、当時から木材を上流から流していたため(イカダ流しですね)、 川を人足が越える、というのはこれにぶつかる危険性が大きい。 危ないから、やむを得ず「渡船」とした。 にゃるほど。 イカダがどんどん流れてくる川を、肩車で横断するなんて、 スリルがありすぎて想像できないですね。 でも。 疑問はまだ未解決。 なぜ「川越え」にこだわって「渡船」にしないのか、ということ。 大井川も他の川と同様に「渡船」にしたって、 「橋を架けないことによる防衛」 という目的は達成できているハズなのに。 まさか、旅人に故意に迷惑をかけるため? 前回のお散歩の旅にて。 近江の国で、実際に川を渡ってしまいました♪ だって、昔と同様に「橋」がなかったのです。 だから、昔と同様に、川を裸足で歩いてみましたぁ(笑) やっぱり、川を渡るのは、危ないよ(アタリマエ?) 大井川の川渡しは、もっと水量が多い時に、肩車して歩いたんでしょ? 怖いなぁ どうして、船という便利なものがあるのに、わざわざ人間が担いで渡るなんていう バカなこと を考えついたのでしょうねぇ(笑) ひょっとしたら、実は船が渡れないほど、川が浅かったのかな(笑) それとも、地元に人足という「雇用」を確保するための、 何か裏取引があったのかな? 大井川には、船では渡れない、なにか特別な謎があるのでしょうか? 結局、未だにワカリマセン。 誰か教えて。 おまけ: 実は、酒匂川や興津川も川越えでした。人足がいたのですね。 そんなに大きな川じゃないのにねぇ。不思議。 一方で、多摩川や相模川は、渡船なのです。 あぁ〜。ますます謎が深まってしまうぅ・・・ おまけ2: ちなみに、川に橋を架けないという、防衛手段。 江戸時代の終わりまで、きっちり守られたみたいですが、 結局、何の役にも立ちませんでした(泣) 歴史の話ですが、 幕末(明治維新)、 江戸幕府を倒すため、薩長からなる官軍の大軍が、京都から江戸を目指して進撃を開始します。 いよいよ「川」が役に立つ時が来ました! 本来なら、川を渡るたびに幕府軍側の抵抗にあって、官軍は多大な損害を出すはずでしたが・・・ 誰もまともに抵抗をしなかったので、 あっさり、全ての川は越えられてしまいます。 あの大井川でさえ、簡単に渡られてしまいました(泣) 徳川3百年。 何のために、川に橋を架けずにいたのでしょう。 川でおぼれた旅人は、草葉の陰で泣いているよ!
|
2006旧東海道お散歩の旅
[ リスト | 詳細 ]
|
ただいま、夫婦で旧東海道をお散歩しながら西へ旅しています。 結構楽しくて、 もうすぐ、着いちゃいそうな勢いです(笑) なるべく、江戸時代の旅人のつもりになりきって?お散歩です♪ でも、歩きながら様々な疑問がわいてきました。 もともと歴史好き・地理好きなので、 いくつも本を読んで、お勉強(もちろん、図書館で借ります) その成果の、一部の発表です。 読んでも試験には出ませんので悪しからず。 旧東海道の3大疑問! Q1:どうして、旧東海道は鈴鹿峠経由なの?(どうして米原経由じゃないの?) 江戸時代の東海道 江戸→静岡→名古屋(熱田)〜海路〜桑名→鈴鹿峠→京都 旧東海道というのは、江戸幕府が、勝手に決めたものです。 当時、京都は重要な場所。 江戸から京都まで、移動のための一番合理的なルートを設定する必要がありました。 そしてそれを自由に決めることが出来ました。 (現代と違って、土地はいくらでも強制収用できますからね) だから、単純に考えれば、 江戸→静岡→名古屋(熱田)→関が原→京都 でいいはずなのに。 わざわざ、南回りで、鈴鹿峠を越えるルートにしたのは、何故でしょう? しかも、海路(船旅)までついています。 現代の東海道本線や新幹線だって、関が原(米原)経由なのにね? (関が原付近は雪が積もるから?でも、鈴鹿峠も冬は厳しいよ!) 調べても、理由なんかどこにも書いてアリマセン。 だいたい、歴史学者というのは、素朴な疑問は無視する存在ですから(泣) でも、 昔のエライ人は、すぐにルート選択の間違いに気づいたみたいです。 三代将軍徳川家光は、初めて京都に上洛するとき、 この東海道を通りました。 でも、名古屋〜桑名の船旅(七里の渡し)で、船酔いしちゃったそうです。情けない。 怒った家光さんは、次の上洛に備え、 その区間は陸路を整備させました。 自分のためにですよ(えらいなぁ) これ以降、船旅がイヤな一般の旅人も、 この陸路(通称:佐屋街道)を歩くようになりました。 ところが 肝心の家光さん。 次回の上洛のときは、この道さえ通りませんでした。 美濃街道 というものを整備させて、こちら経由を通ってしまったのです。 これは名古屋から垂井(関が原付近)に至る道。 そこで中山道につながります。 江戸→名古屋→関が原→京都 あれ。 今の東海道本線ルートと同じですね。 つまり、昔も今も、これが一番合理的なルートなんじゃないの? 旧東海道は、単純にルート選択のミスなんだ? でも、 何故、わざわざ鈴鹿峠越えのルートを東海道としたのか、 という質問の答えにはなっていません。 一応、私が得た結論としては、 江戸時代より、遥か昔。西暦800年頃。 当時の天皇政府によって、律令制度、というのが出来ました。 その時、日本の「地方行政エリア」と「街道」の名前が初めて公式に決められました。 五畿七道 京都・奈良・大阪が日本の中心(五畿)。 その他は、7つのエリア(海道)に分けられました。 ○○の国、という名称もこの時に決められています。 当時は「道」のことを、「街道」ではなく、「海道」と呼んでいました。 京都周辺から東国に、太平洋側を通るエリアは、東海道と名付けられます。 つまり、東海道という名称は、もともと 「東海」道、ではなくて 「東」海道、なわけですね。 知りませんでした〜(汗) 私はてっきり、東海地方を通るから、東海道と呼ばれるのだと思っていました。 この律令制度で、本州の東半分は3つに長細く分けられます。 東海道:三重県から始まって、愛知県、静岡県、と太平洋沿いに茨城県に至ります。 東山道:滋賀県→岐阜県→長野県と海のないエリアを通り、福島県まで 北陸道:福井県から新潟県まで ここで重要なのは、 東海道という名前が、鈴鹿峠(三重県)から始まるということ。 つまり、昔から東海道という名称は、 鈴鹿峠(三重県)経由と相場が決まっていたのですね。 理屈じゃないんです(笑) 江戸時代の役人さんも、 江戸→京都のルート選択をするとき、 昔からそう決まっている という理由だけで、 それを踏襲しただけなのかな? 昔からの慣習を変えるのって、大変なんですねぇ 参考までに、 江戸〜京都の第2のルート、 中山道とは、 七道のひとつ「東山道」が名前を変えたものらしいです。 江戸時代の話にもどります。 美濃海道が普及したおかげで、 江戸→京都は、 わざわざ選択ミスルート(海路を使い鈴鹿峠を越える)を利用する旅人は減ったみたいです。 ところが、今度は伊勢神宮にお参りするのがブームになりました。 東海道はいつの間にか、 江戸から名古屋を経て伊勢神宮に至る道の一部になってしまったみたいです。 こうなると、桑名・四日市経由の旧東海道は便利です。 あの有名な弥次さん喜多さんの旅も、本当は江戸から伊勢神宮にお参りする旅なのです。 なんか、結論が出たのかどうか、はっきりしないけど。 旧東海道が鈴鹿峠を通る謎はこれにて解明? 要するに、これを決めた役人が、既存概念から脱しきれなかったから? その点、 鉄道の東海道はえらいです ちゃんと合理的に、はじめから関が原経由が選定されています(笑) ちなみに、昔の人が決めた七道の残りは 南海道:和歌山県〜四国 山陽道:山陽地方(そのマンマ) 山陰道:山陰地方(これもそのマンマ) 西海道:九州 なるほど、 大阪と和歌山県内を走る南海電鉄の名前は「南海道」から来ているのですね 歴史と地理を勉強すると、鉄道の知識も増えてしまいます(笑) これにて、3大疑問のひとつは解決(したかな?) 話が長いので、残りは次の記事にします(泣) 京都に着くまでに、謎を解明しないといけません?(笑) 素人さんの調査だから、 他の有望な説があったら、是非教えてください(ペコリ) 追記: 五畿七道という、日本のエリア名称の元祖?は、 そのあとも意外と残りました。 たぶん、 明治維新後につけられた、 北海道 という名前は、この名残ですね。 違ったらゴメンネ(笑) 追記2: こんな風に、鈴鹿峠経由の悪口を書いたあとで、何ですが・・・ ふと、 鉄道路線距離で比べてみると 名古屋〜米原〜草津 125.4km 名古屋〜亀山〜草津 116.6km アレ?、亀山経由の方が、短いではないですか!? 知らなかったぁ(笑?泣?) もちろん、旧街道と鉄道路線はイコールではありません。 でも、参考にはなります。 おまけに、鈴鹿峠越えは、一直線にショートカットしているし・・・ ひょっとしたら、 旧東海道が鈴鹿峠を経由していたのは、 単純に距離が短いから という超合理的で分かりやすい理由からだったりして? だとしたら、鈴鹿峠さんゴメンナサイ(泣?笑?)
|
|
日本橋から三条大橋まで、夫婦でお散歩しながら歩きます。 現代の旅だから、鉄道を使って。コツコツ小刻みです。 だから、旧宿場ではなくて、旧街道を「駅」から「駅」へと歩きます。 最後まで、新幹線は使わないぞ!(笑) (武蔵の国) 1日目 2月11日 日本橋〜品川駅 2日目 2月25日 品川駅〜蒲田駅 3日目 3月12日 蒲田駅〜神奈川新町駅 4日目 3月13日 神奈川新町駅〜横浜駅 5日目 3月18日 反町駅〜東戸塚駅 (駿河の国) 11日目 6月4日 片浜駅〜富士川駅 12日目 6月10日 柚木駅〜興津駅 13日目 6月24日 興津駅〜静岡駅 14日目 7月22日 静岡駅〜藤枝駅 15日目 9月3日 藤枝駅〜金谷駅 なんか、残りあとわずか?
|
|
12月24日(日) 昨日から、土山という鉄道から見捨てられた旧宿場町にいます。 江戸時代の木賃宿並み(以下?)の民宿で目が覚めました。 早起きするはずだったのに・・・ 旅立ちは8:00となってしまいました 寝ることしか他にない民宿で、寝すぎました(泣) それだけ昨日はキツイ行程だったのですね ひどい宿でしたが、旧道歩きには便利です。 朝の土山宿をお散歩です。 気持ちいいですよ〜 国道に出ます。 旧道はこれを横切って、さらに進んで野洲川の上流を渡ります。 いかにも旧街道らしい雰囲気です。 昔は、川をそのまま歩いて渡ったそうです。 増水時のみ、船渡しだったとか。 ふと、 二人のどちらからともなく、悪魔の囁きが・・・ 渡っちゃおう! まじ〜!? 12月下旬ですよ〜 暖かい日とはいえ、川の水は冷たいです。 でも、 どうしても好奇心には勝てず、 ついに靴を脱いで、川に入ってしまいました!!(笑) 予想以上に川の底は滑ります。 川の流れも結構あります。 水の冷たさなんて、感じている余裕なし。 ゆっくり、ゆっくり、 あ〜、本当に川を歩いて渡っちゃたぁ! まさに江戸時代の旅の再現です。 きっと、他の誰も思いつかない、快挙でしょう!(笑) 冷えた足を拭いて、さぁ、出発です。 ここまでは、自分達の快挙に少しの疑いもなく、酔いしれておりました・・・ 対岸から見えた、石垣の向こうに続く道に早く出ましょう。 ところが、 どうやら、ここは川の中州部分なのです。 どこにも行けません(泣) 結局 渡ってきた川を、再度歩いてもどることになりました・・・(大泣き) まぁ。 無事にもどれてよかったです。 もしも川の中で滑って転んでしまたら、どうしたんでしょう? 濡れた服を乾かすために、 河原で焚き火かな? そしたら、もう完璧に時代劇の世界ですね(笑) 国道にもどります。 国道に並行して明治の東海道と呼ばれる歩行者専用橋があり、これで先ほどの川を渡ります。 渡ると、旧東海道らしき道と合流。 これは先ほどの渡川失敗地点からの道です。 これこそ、本物の旧東海道です。 なんか雰囲気良さそうなので、この道にそって、川までもどってみましょう。 向こう岸から、水戸黄門や子連れ狼(古い?)が歩いてきそうです(笑) あの川を、渡ったんだよ(中洲までだけど) 江戸時代の旅人のように! 旧東海道お散歩の旅に、また新たな伝説を残しました(笑) 朝寝坊したうえで、伝説作りでさらに1時間も浪費してしまいました(泣) 先に進みましょう。 旧道は、国道1号線に併合されることなく、まっすぐに並行して続きます。 おかげで、なかなかイイ雰囲気がずっと残っています。 既に昔の土山宿のエリアからは出ていますが、 街道沿いに残された旧家には、土山宿を良くする会?により、昔の屋号表札が飾られています。 昔から人家の多いところなのですね。 しつこく「あいの土山雨が降る〜♪」の馬子唄のコピーが書かれたモニュメントが点在します。 もう、よく分かりました(失笑) 異様に郷土愛の強い土地なのですね。 水口宿に入りました。11:20 水口の町。 旧家がたくさん残ります。 町中で道が3つに分かれ、併走するのがちょっと有名? 旧道は真ん中の道。アーケード街になっています。 そばに水口石橋駅があります。 やっと、鉄道の駅に出ましたね。 当初の予定では、この二日間でここまでこれれば上出来、と思っていましたが、 昨日、予想以上に進めたので、 今日は、もっと進みましょう。 JR草津線三雲駅を目指します。 次回もJR18切符利用ですから、絶対にJRの駅まで歩いておきたいです(笑) (近江鉄道は、18切符じゃ乗れないの・・・) ところが、 今日の帰りの電車を考えると、 次の駅を目指すには、時間がかなりキツイです。 朝の伝説作りが、影響してきました(泣) 奥さん、少し走ろうとウルサイです。 だめだよ。お散歩なんだから! 時間がないので、近江鉄道の電車が走るところを見られませんでした(泣) 踏切を越えて、水口の城下町を歩きます。 またもカギ状の道。 街道から少し離れた場所に、水口城があります。 時間がなくても、これは見に行かなくちゃ。 さぁ、先を急ぎましょう。 田園の中を、旧道はまっすぐにのびています。 いい天気で、山もよく見えます。 ノンビリ歩きたいのに、 奥さん、走らなきゃ間に合わない!とウルサイのです。 まだ、時間大丈夫なのに。 走るのは、最後の最後だよぉ 途中でケンカしながら、 早歩きで進みます。 横田の渡し、に出ました。12:40 さすがに、ここを歩いて渡ろうなんて、思いません(笑) 迂回路は旧道ではありませんから、 遠慮なく走り抜けましょう! あれ、なんか迂回路は異様に短いぞ。 どうやら、旧街道パンフ(昨日もらった)のキロ表示が間違っているみたい 大きな国道の橋を渡ると、もう三雲駅に着いてしまいました。 走る必要なんかなかった? ところが なまじ急いで来たものですから、 目の前で乗車予定の1本前の電車(30分間隔)が出て行きました・・・ なんかスゴク残念(泣) 時間ができたので、駅前の旧道を こちら岸の渡し場跡までもどってみます。 すぐに渡し場跡。ここにも常夜灯が残ります(踏切のそば) おまけ そこから丘に登ってみました 江戸時代、お代官の無法をお上に訴えようとして、獄中で殺された農民代表達を讃える記念碑です。 街道沿いに目障りに乱立する「明治○皇立ち寄り記念碑」なんかより、はるかに歴史的価値があります。 この丘からの眺めはすばらしいです。 予定?の電車がやってまいりました。13:25 今回の帰りは、なんと米原経由です。 10時間の東海道本線電車の旅の始まり〜 今日はイブです。東海道で楽しくクリスマス? 途中、静岡駅で、念願のホーム居酒屋に立ち寄り ケーキの代わりに「おでん」を堪能しました♪ 次回、
いよいよ佳境です。 三条大橋にたどりつくのでしょうか!? |





