勘定奉行石川左近将監忠房のブログ

タイムカプセルに乗り、忠房じーちゃんに逢ってみたい!
忠房じーちゃん、中山道へ行ってきましたよ。
それも下諏訪宿へ、

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本陣です、
 本丸御留守居役の時、今から185年前、
次のお世継ぎ家定公の御正室になるべく有君さまを御迎えに京までおいでになりましたね、
その時に宿泊されたお宿です。

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将軍正室は、徳川3代目より、京の御公家様から嫁ぐのが決まりでしたから、
忠房じーちゃんも78才の時、天保2年(1831年)8月1日に江戸を出立し、京には17日に到着、
25日に有君さまと共に江戸を目指し、9月15日に帰府されました、長い責任ある旅でしたね。
その時僅か7才になった有君さまと共に、宿泊された下諏訪宿本陣です、
今の日まで一部が保存されていますよ。

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下諏訪宿は、甲州街道と中山道の分岐点という事もあり、
参勤交代の各大名のお宿でもあったのですね。

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400年前からの見事な庭園が手入れ良く保存されてい、
きっと、有君さまと忠房じーちゃんも眺めたであろう
大きな欅の木が涼風に揺れてていました。

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きっと貴方と有君さまが通ったであろう廊下をそっと踏みしめてきましたよ。

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その頃の本陣の絵図面です、
忠房じーちゃんの寝間はどこだったのでしょう、そして有君さまの御寝所は?
幼い有君さまを自分のお宿に引き取り、夜な夜な警護されたとか、

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そしてそして、忠房じーちゃんが描かせた32メートルもある、有君之御方御下向御行列の図絵巻が、

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佐倉市の国歴に大切に保存されていたのはもう、報告済みでしたよね。

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諏訪湖に差し掛かったあなたの御馬さん、石川家の家紋である笹竜胆がくっきりと見て取れますよ。

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富士山の見える諏訪湖畔を、貴方の御駕籠が通る様子が描かれていますね。
御籠を担ぐ人の半纏にも貴方の ‟忠”の文字もはっきりと見ますよ。

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もっと近づいてみますね、

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今それと同じ位置に今、私はいます、きっと有君さまと通った位置だと確信しています、
ただこの日は富士山が見えなかったのが残念でした。

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が、晴れていればきっとこのような場面が!

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富士山と夕暮れの諏訪湖です。
ちょうど季節も月日も同じ頃だったと思います。

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無事大役を果たし、ホッとしたことでしょうね。
78才と言う年齢で、責任ある仕事はストレスの極みだったと思います。
もしこの大役が無ければもっともっと長生きが出来たかなと思いますが、貴方の母上藤子さまは92才の大往生でしたから。
何はともあれ、忠房じーちゃんの人生で、想いが深い役目だったと。

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五街道分間延絵図

『五街道分間延絵 図』は、正式には『五海道其外分間延絵図並見取絵図』といい
寛政、文政年間(一八〇〇年ごろ)に江戸幕府の道中奉行所が3部作成し
1部は江戸城内に、残り2部は道中奉行所に置かれたそうです。
忠房じーちゃんが、勘定奉行兼帯道中奉行のおりの仕事でした。

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この絵図は、名称どおり東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中の五街道と脇街道が描かれたもので、実測の1/1800の縮尺で描き表されているそうです。

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この作成 にあたっては、寛政十二年に五街道をはじめとする脇街道の 宿村で調査が開始され,
六 月二十三日、支配勘定上野権内は、老中戸田氏教から「五海道筋分間絵図 仕立」を命じられて、
あわせて支度金二〇両を支給され、
翌七月、道中 奉行兼帯の勘定奉行石川忠房と大目付井上利恭が勘定所に関係者を招集、
 勘定組頭関川庄右衛門は代官たちに絵図調査への協力を要請し,
早速 二十三日には日光御成道沿道の村々へ廻状が出されて調査が開始、

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 道中奉行所が宿駅や諸街道の取締り、通信交通の管理などを行う上で
必要な情報である街道沿いの家並みや一里塚、橋、寺社、旧跡などの様子が詳細に描き込まれ

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足掛け七年の 歳月をかけて、文化三年(一八〇六)に完成,
文化三年(一八〇六)に家斉将軍に献上し、江 戸城内の紅葉山文庫に収蔵されたそうです。
献上本が全八〇巻であるのに対して、実務本は 全九十二巻(正しくは、九十一帖と一舗 )という膨大な絵図になりました。

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献上本は余白部分まで薄く茶系の絵の具がひかれ、しかも霞がたなびくような濃淡を左右方向に伸ばし、
木立や遠望する寺院や山々も丁寧に 描かれてい、

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街道や溜井、河川等色を差す面積が比較的大きな箇所では、きっちりと塗り、
溜井などの奥行きのある場所は手前側が淡く、
奥は徐々に濃く塗り分けるなどの美的な要素が見出せるこの『五街道分間延絵図』を絵画的に眺めてみると、
献上本は鑑賞に耐 えうる絵図だったようで、
それにひきかえ、実務本はまさに実用に供するために描いたといえる収蔵品だそうです。

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忠房じーちゃん、
貴方が関わった仕事にもう一つ出逢えましたよ、まだまだ私達が知らない仕事が眠っているのですね。
これからもそんな忠房じーちゃんの足跡が見つかるといいなーーーー!

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忠房じーちゃん
またまた、あなたの ‟血” 受け継いだ命が誕生しましたよ。

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可愛いでしょう? 平成の時代を担うお宝の命です。
この子たちが笑顔いっぱいで過ごせる日本でいられますように見守っていてくださいね。

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奈良井宿にて

忠房じーちゃん、
奈良井宿に行ってきました、そうです、中山道六十九次のあの中山道ですよ。

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幾度となく行き来した、忠房じーちゃんには思い出深い街道でしょう?
数百年過ぎても街並みは保存されていますよ。

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まだ幼い有君さまを
将軍家定の御正室に迎えるため、京都までおいででしたよね。

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御駕籠で、時には御馬で、
数百年経った今では ‟自動車” というものがあり、数時間で中山道を往来できます、
すごいでしょう?

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忠房じーちゃん、タイムカプセルに乗り、今の世の中へ遊びにいらっしゃいませんか?
驚きますよ、きっと腹のたつ事ばかりですよ!

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ドラえもんではないですが、そんなことが出来て忠房じーちゃんの話が聞きたいものです!

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江戸時代の奈良井宿だそうですよ、忠房じーちゃんと同じ道を歩き、同じ空気を吸っています。

忠房じーちゃん、将軍家光公が京より宇治茶を運ぶ『お茶壺街道』の宿泊所のお寺‟長泉寺”が
あるそうですが、ご存知でしたか?

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忠房の180回命日

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『忠房年譜』より

天保七年(一八三六年) 一月十八日
御先手岡村丹後守判元為見届自宅江被参候処病気 段々差重養生不相叶九時過病死二付
跡式之儀嫡孫承祖御徒頭 石川太郎左衛門江被下置候様存生之内 一類共江申置候段
新御番高井 井対馬守組小普講組松平伊勢守甥 木村威右衛門支配 甥大木喜兵衛
 右両人ゟ丹後守江申立候尤為立合相詰候御医師医師等左之通
 西丸奥御医師 奥詰御医師 丹羽左京太夫 吉田長禎   多記安叔  医師松田南軒
右跡目願書即刻丹後守持参介御用番松平和泉守殿江公用人鈴 木百度兵衛を以致進達候処無滞被成御請取候段丹後守申聞

今から180年前の1月18日9時、忠房は病のために82才の生涯を終えました。
西丸奥の御医師たち数人に看取られ、天晴な往生でした、最後まで誇り多い生涯が伺えます。
亡くなる2か月前までお城に出勤し、仕事をこなしていました。

3人の妻、実父母と養子先の養父母の4人の両親がお迎えに来たことかと。
実母藤子さまは94才まで忠房宅にて、寝起きを共にし忠房を見守っていました。
藤子さまが亡くなってから5年後のことでした。
実子や妻を次々と失っていく忠房を見守りながらの実母との毎日を過ごした忠房は幸せだったと思います。
江戸時代後期、武士魂を貫き、精一杯生きた忠房を子孫として尊敬の念で一杯です。

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忠房じーちゃん、あなたの曽曾孫である実家の父は、もうじき100才になりますよ。
長寿の家系を受け継いだようです。
忠房じーちゃんが亡くなってから、80年後に父が誕生しましたが、そう考えると、江戸時代はそんなに遠くない時間だと思えてしまいます。

桐生は今日雪が降っています、忠房じーちゃんの亡くなった朝はどんな朝でしたか?
暖かく成ったら、またお墓参りに行きますね。


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