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Fraternity of the Hidden Light
Fraternitas L.V.X. Occulta, Japan Lodge

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魔術修行に興味を持った場合、まず誰もが本を探すでしょう。魔術について知りたい、そう思って、「本はないのかな?」と探し始めます。今の時代では「検索」のほうが適切な言葉かもしれませんが、私の時代は本屋に行って本を探したものです。80年代、日本には一種の魔術ブームが到来しており、今の40代、50代の世代は、魔術について書かれた雑誌記事やテレビ番組をよく目にしたものです。

単なる好奇心以上に魔術を探求したいと願い始めた志願者は、次に魔術の実践を夢見るようになります。本に書かれた儀式に思いをはせ、自分でもいくつかの儀式を実践してみることでしょう。そしてその気持ちがそれ以上になれば、本当に魔術修行をしてみたい、団に入ってイニシエーションを受け、学びたい、と思うようになるかもしれません。

現代ではインターネットの普及もあり、魔術結社を見つけやすくはなりましたが、昔はそうもいきません。私の時代はようやくインターネットが普及しはじめたばかりでしたが、アメリカ在住の頃はいわゆるオカルト書店などにいって、メンバー募集の張り紙を探したものです。どうしても魔術修行をしたかった私にとって、「イニシエーション」「神殿儀式」などはまさに夢のようなものだったのです。

多くの学徒は同じような気持ちで魔術結社に入団するのではないでしょうか? 「魔術結社」が憧れである頃、つまりは入団が許可される前、志願者は他の予定を断ってでも団の集会に出席しようとするかもしれません。友人との遊びの約束、行きたいイベント、家族旅行、断れる状況の仕事… 探し続けた魔術の公開イベントを最初に見つけたときは、なによりもその魔術イベントを優先するかもしれません。あれほど夢に見た魔術師の集まりを見つけたのですから!

しかし実際に入団を許可されイニシエーションを受けると、学徒には多くの「誘惑」が襲いかかってきます。これらはいわゆる「テスト」である場合が多いのです。あれほど憧れた魔術団の修行が現実となったとき、学徒の目の前につきつけられるのは退屈な毎日の「瞑想」、ヘブライ語などの「暗記」、もはや慣れてときめきを感じなくなった「儀式への参加」などです。それらは必ず、学徒に「負担」となって覆いかぶさってきます。学徒に課せられた課題は、多くの場合、学徒を「自分だけ損をしている」という気持ちにさせます。これは必ず訪れる誘惑です。

しかし「回帰の径」を歩むイニシエートになるというのは「働く」ということです。儀式のなかでは「労働のために身なりを整えよ」という言葉が出てくるように、イニシエートが儀式をするのは、遊びではありませんし、エネルギーによる意識変容を求めるからでもなく、刺激を求めるからでもなく、「労働」であることを忘れてはなりません。学徒はサードオーダーから流れてくる諸力の媒体となり働くのであり、それは「奉仕」の一環です。誰しもこの奉仕を約束して入団を許可されるのです。

しかし「誘惑」は試練となって襲いかかり、止むことはありません。人生にはもっと楽しいことがたくさんあります。なぜ他の予定を断って、めんどくさい儀式に参加するのでしょうか? なぜ遠くから電車を何度も乗り換えて行かなくてはならないのでしょうか? いろいろと理由をつけて、他の楽しいことをしたほうが、いいにきまってる、自分だけ損をしたくない。儀式なんて疲れるから、同僚と飲みに行ったほうがいい。「回帰の径」が犠牲の径である以上、必ずこのような気持ちになるのです。

F.L.O.のプロベーショナーコースでは次のような記載があります。「学徒は最初に探求者となり団を探す。団を見つけてイニシエーションを受けると奉仕者になる。そして最後は〈大いなる作業〉を人生の優先課題にする献身者になる」と。これは誰かに強制されてなるものではありません。自分でそう決めるのです。

献身者になる者は、犠牲の祭壇に行き、あらゆるものをそこに置くことになります。これも自らの意志で行います。もちろん、犠牲といっても、きちんと生活基盤を維持し、社会の一員として機能するのが前提ですから、貯金が枯渇するまで仕事をしないで修行するとか、人を傷つけるような行為をするとかはいけません。魔術は人を破壊するものであってはいけませんし、物質界である「マルクト」から出発する旅路において、基盤はしっかりと築いておかなくてはなりません。しかしいったんコミットをしたなら、最善の努力をすべきです。なぜなら神殿で「学ぶにあたり最善をつくす」と誓うからです。その誓いは自分の高次の自己に対して行うものですから、守れないのならそのような誓いはすべきではありません。

私は自分がファーストオーダーのメンバーだったとき、セカンドオーダーのメンバーたちの揺るぎない献身の意志を目の当たりにし、「なんでそこまで人のためにやれるの?」と思いました。私は必至でしたから、少なくとも途中まではわりとパッパと進級しました。しかしそれはすべて自分のためでした。人のために魔術修行をする、というのは理解できなかったのです。

しかしいかなるイニシエートもやがては「Path of Probation」プロベーショナーの径であるポータル位階で、容赦ない試練を通過します。ティファレトへの径をふさぐ大いなるべールを開ける術式は「自己犠牲」しかありません。

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「損をしている気持ち」以外にも襲ってくる誘惑があります。怠惰、言い訳、慢心、否定、傲慢… これらはすべて「魔術修行なんてやめとけ。酒でも飲んでテレビでも見ようよ」というパーソナリティからのささやきです。

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魔術修行をはじめて「もうやりたくない」「もうやめたい」「つらいからもう嫌だ」と思ったら、それは誘惑であることを覚えておくべきです。アレイスター・クロウリーの魔法名Perduraboが「われは最後まで耐えぬく」であり、ポール・フォスター・ケースの魔法名がPerseverantia「忍耐」だったその意味を考えてみてください。

もし神と呼ばれる「一者」も天使も悪魔もサードオーダーと呼ばれる肉体を持たないマスターたちもすべてがウソであり、想像の産物であるなら、必死に魔術修行を行う学徒はいかに愚かでしょうか。人間が単に生まれて死んでいく「魂」を持たない肉体の存在なら、魔術などやめて、この人生を満喫できるよう、もっと楽しいことをしたほうが賢明です。暗い部屋での瞑想などやめて、友達と遊びに出かけたほうがいいです。楽しいなら別ですが、負担になったヘブライ語や各種の照応群の暗記をしている時間があるなら、仕事をして稼いだほうがましです。辞書を引きながら魔術の洋書を読むのが苦痛なら、そんなことはやめて自分が楽しいと感じる活動に時間を費やしたほうが人生は無駄になりません。

しかしもし、あなたに非物質の存在たちが、ありありと見えたら、その声が聞こえたらどうでしょうか? 「回帰の径」を歩むことほど、人生でエキサイティングなことはあるでしょうか? それでもまだ魔術は退屈な修行なのでしょうか?

これは学徒がそれぞれ、誘惑の多い径において、考えるべきことです。そして今はまだマルクトにおいて楽しいことをしたい、というのであれば、それは尊重されるべき決断です。魔術師は普通に仕事をしながら修行をするので、まわりからは気づかれにくいですが、みんながみんな修道院に入り、祈りに人生を捧げることができないように、魔術もまた、万人向けではありません。

「回帰の径」を歩むとは、そういうことなのです。

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