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Fraternity of the Hidden Light
Fraternitas L.V.X. Occulta, Japan Lodge

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魔術修行に興味を持った場合、まず誰もが本を探すでしょう。魔術について知りたい、そう思って、「本はないのかな?」と探し始めます。今の時代では「検索」のほうが適切な言葉かもしれませんが、私の時代は本屋に行って本を探したものです。80年代、日本には一種の魔術ブームが到来しており、今の40代、50代の世代は、魔術について書かれた雑誌記事やテレビ番組をよく目にしたものです。

単なる好奇心以上に魔術を探求したいと願い始めた志願者は、次に魔術の実践を夢見るようになります。本に書かれた儀式に思いをはせ、自分でもいくつかの儀式を実践してみることでしょう。そしてその気持ちがそれ以上になれば、本当に魔術修行をしてみたい、団に入ってイニシエーションを受け、学びたい、と思うようになるかもしれません。

現代ではインターネットの普及もあり、魔術結社を見つけやすくはなりましたが、昔はそうもいきません。私の時代はようやくインターネットが普及しはじめたばかりでしたが、アメリカ在住の頃はいわゆるオカルト書店などにいって、メンバー募集の張り紙を探したものです。どうしても魔術修行をしたかった私にとって、「イニシエーション」「神殿儀式」などはまさに夢のようなものだったのです。

多くの学徒は同じような気持ちで魔術結社に入団するのではないでしょうか? 「魔術結社」が憧れである頃、つまりは入団が許可される前、志願者は他の予定を断ってでも団の集会に出席しようとするかもしれません。友人との遊びの約束、行きたいイベント、家族旅行、断れる状況の仕事… 探し続けた魔術の公開イベントを最初に見つけたときは、なによりもその魔術イベントを優先するかもしれません。あれほど夢に見た魔術師の集まりを見つけたのですから!

しかし実際に入団を許可されイニシエーションを受けると、学徒には多くの「誘惑」が襲いかかってきます。これらはいわゆる「テスト」である場合が多いのです。あれほど憧れた魔術団の修行が現実となったとき、学徒の目の前につきつけられるのは退屈な毎日の「瞑想」、ヘブライ語などの「暗記」、もはや慣れてときめきを感じなくなった「儀式への参加」などです。それらは必ず、学徒に「負担」となって覆いかぶさってきます。学徒に課せられた課題は、多くの場合、学徒を「自分だけ損をしている」という気持ちにさせます。これは必ず訪れる誘惑です。

しかし「回帰の径」を歩むイニシエートになるというのは「働く」ということです。儀式のなかでは「労働のために身なりを整えよ」という言葉が出てくるように、イニシエートが儀式をするのは、遊びではありませんし、エネルギーによる意識変容を求めるからでもなく、刺激を求めるからでもなく、「労働」であることを忘れてはなりません。学徒はサードオーダーから流れてくる諸力の媒体となり働くのであり、それは「奉仕」の一環です。誰しもこの奉仕を約束して入団を許可されるのです。

しかし「誘惑」は試練となって襲いかかり、止むことはありません。人生にはもっと楽しいことがたくさんあります。なぜ他の予定を断って、めんどくさい儀式に参加するのでしょうか? なぜ遠くから電車を何度も乗り換えて行かなくてはならないのでしょうか? いろいろと理由をつけて、他の楽しいことをしたほうが、いいにきまってる、自分だけ損をしたくない。儀式なんて疲れるから、同僚と飲みに行ったほうがいい。「回帰の径」が犠牲の径である以上、必ずこのような気持ちになるのです。

F.L.O.のプロベーショナーコースでは次のような記載があります。「学徒は最初に探求者となり団を探す。団を見つけてイニシエーションを受けると奉仕者になる。そして最後は〈大いなる作業〉を人生の優先課題にする献身者になる」と。これは誰かに強制されてなるものではありません。自分でそう決めるのです。

献身者になる者は、犠牲の祭壇に行き、あらゆるものをそこに置くことになります。これも自らの意志で行います。もちろん、犠牲といっても、きちんと生活基盤を維持し、社会の一員として機能するのが前提ですから、貯金が枯渇するまで仕事をしないで修行するとか、人を傷つけるような行為をするとかはいけません。魔術は人を破壊するものであってはいけませんし、物質界である「マルクト」から出発する旅路において、基盤はしっかりと築いておかなくてはなりません。しかしいったんコミットをしたなら、最善の努力をすべきです。なぜなら神殿で「学ぶにあたり最善をつくす」と誓うからです。その誓いは自分の高次の自己に対して行うものですから、守れないのならそのような誓いはすべきではありません。

私は自分がファーストオーダーのメンバーだったとき、セカンドオーダーのメンバーたちの揺るぎない献身の意志を目の当たりにし、「なんでそこまで人のためにやれるの?」と思いました。私は必至でしたから、少なくとも途中まではわりとパッパと進級しました。しかしそれはすべて自分のためでした。人のために魔術修行をする、というのは理解できなかったのです。

しかしいかなるイニシエートもやがては「Path of Probation」プロベーショナーの径であるポータル位階で、容赦ない試練を通過します。ティファレトへの径をふさぐ大いなるべールを開ける術式は「自己犠牲」しかありません。

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「損をしている気持ち」以外にも襲ってくる誘惑があります。怠惰、言い訳、慢心、否定、傲慢… これらはすべて「魔術修行なんてやめとけ。酒でも飲んでテレビでも見ようよ」というパーソナリティからのささやきです。

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魔術修行をはじめて「もうやりたくない」「もうやめたい」「つらいからもう嫌だ」と思ったら、それは誘惑であることを覚えておくべきです。アレイスター・クロウリーの魔法名Perduraboが「われは最後まで耐えぬく」であり、ポール・フォスター・ケースの魔法名がPerseverantia「忍耐」だったその意味を考えてみてください。

もし神と呼ばれる「一者」も天使も悪魔もサードオーダーと呼ばれる肉体を持たないマスターたちもすべてがウソであり、想像の産物であるなら、必死に魔術修行を行う学徒はいかに愚かでしょうか。人間が単に生まれて死んでいく「魂」を持たない肉体の存在なら、魔術などやめて、この人生を満喫できるよう、もっと楽しいことをしたほうが賢明です。暗い部屋での瞑想などやめて、友達と遊びに出かけたほうがいいです。楽しいなら別ですが、負担になったヘブライ語や各種の照応群の暗記をしている時間があるなら、仕事をして稼いだほうがましです。辞書を引きながら魔術の洋書を読むのが苦痛なら、そんなことはやめて自分が楽しいと感じる活動に時間を費やしたほうが人生は無駄になりません。

しかしもし、あなたに非物質の存在たちが、ありありと見えたら、その声が聞こえたらどうでしょうか? 「回帰の径」を歩むことほど、人生でエキサイティングなことはあるでしょうか? それでもまだ魔術は退屈な修行なのでしょうか?

これは学徒がそれぞれ、誘惑の多い径において、考えるべきことです。そして今はまだマルクトにおいて楽しいことをしたい、というのであれば、それは尊重されるべき決断です。魔術師は普通に仕事をしながら修行をするので、まわりからは気づかれにくいですが、みんながみんな修道院に入り、祈りに人生を捧げることができないように、魔術もまた、万人向けではありません。

「回帰の径」を歩むとは、そういうことなのです。

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もう15年以上も前のことです。20年近く経つかもしれません。私は魔術の学徒として、すでに複数の魔術団で修行を開始していました。私の場合、訓練をうけた教育機関としての魔術団はドロレス・アシュクロフト=ノーウィッキ氏の指導下にあった英国のServants of the Light(SOL)や米国でBOTAの伝統を引き継ぐポール・クラーク氏指導下のFraternity of the Hidden Light(FLO)など、ある意味「まじめ」な団体ばかりだったのですが、まだ若く刺激を求めていた私は、例えばサタン教会創始者のアントン・ラヴェイの本などを読んで喜んでいました。


生命の樹にもとづく瞑想、タロットカードの塗り絵、SOL修行時代には、自分になじみのない英国の文化色が強い象徴群などを、一生懸命に学んでいました。カバラの「カ」もろくに知らない状態からはじめ、SOLで学ぶなら必須のアーサー王伝説さえ、初耳だったのです。まだアマゾンでオンラインショッピングができるような時代でもなく、ネット検索もまだそれほど普及していませんでしたから、ビデオ屋にいって映画の「アーサー王伝説」を探して買ったのを覚えています。


そして永遠と続く日々の修行。毎日瞑想ばかりです。そしてよくわからない文書を読み、レポート作成をしたり、はたしてなんの役にたつかわからないヘブライ語を暗記したり…。行うべき真面目な修行にうんざりして、時々ラヴェイ氏をはじめとする一部の本や、キリスト教原理主義者が作成したプロパガンダ的ビデオ(セクシーな薄着の女性魔術師等が登場して意味不明の儀式をする系)を見てうさばらしをしていた感はあります。


そのような体験は、特に若くして「回帰の径」に入った学徒にはよくあることではないでしょうか? そんななか、ある日、一部の魔術師仲間の間で「イボケーションをやってみよう!」という話で盛り上がりました。イボケーション(evocation)とは日本語ではよく「喚起」と訳されていますが、悪魔をはじめとする霊を三角形のなかに目に見える形で顕現させることです。有名なところでは1896年にGDのフローレンス・ファーらが行った水星の霊タフターサラスのイボケーションなどが伝わっています。最近ではロン・ミロ・デユッケット氏などが自身の体験を著書で記していたり、またポール・クラーク氏のよき友人でもあるポーク・リニヨン氏などはイボケーションを中心とした実践をよく行っている人物として知られています。

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さて、若き日の私とその仲間たちが話題にしたイボケーションは結局行われることはありませんでした。今思えばやらなくて大正解だったと思います。


このイボケーションはそれとよく比較されるインボケーション(invocation=召喚)と違い、なにかと誤解が多い分野ではあります。15年くらい前にニューエイジ系のプラクティショナーであるアメリカ人の知人が以前、ポーク・リニヨン氏のビデオを見て、眉をしかめていたのを覚えています。「一体あんな非友好的なものを呼び出して、なにになるんだ?」と。「ああ、ああやって霊を呼び出すことで彼らの進化を促すんだよ」といったような回答を当時、彼にしたのを記憶していますが、どうにも理解されるはずもなく、なんとも気まずい雰囲気になりました。(そもそも魔術には無縁の彼がなぜそのビデオを見たのかが不可解ですが…)


たしかにこの儀式ばかりは、いくら人類への奉仕を語っても、理解されにくいように思います。ではGD系列の団においては、イボケーションはどういう位置づけなのでしょうか?


まずイボケーションによって喚起される霊は、いったいどこからくるのでしょうか? 近代魔術の思想では、ヘルメス学的原則「上のごとく下もまたしかり」に従い、人間は宇宙を映す鏡である、つまり小宇宙である、と言われています。つまり自分のなかに天使も悪魔も宇宙におけるすべての諸力が存在しているという考えです。


悪魔喚起の場合、三角形のなかに顕現させる霊は、魔術師の一部であり、そしてまた集合意識の一部でもあるわけです。


さてイボケーションを行う際、魔術師は円のなかにとどまりますが、この円は「神聖なる高次の意志」を象徴し、魔術師はそれと自分を同一視します。そこから顕現させた霊に命じることで、そうした存在らを「高次の意志」の下に置くことになります。そのため、イボケーションにおいてもやはり自分の利益のためではなく、ここでもまた「奉仕」という概念のもと実践されるべきです。


私の友人であり魔術師仲間でもあるPeregrin Wildoak氏は自身の著書By Names and Imagesのなかでイボケーションは6=5位階で行うべきと述べ、以下のように話しています。


The magician, therefore has little concern about personal development as such as and begins to focus more and more on transpersonal service.  This comes to fruition during the following grade of Adeptus Exemptus. (従って魔術師は個人的な発展にはほとんど関心を持たず、ますます個を超えた奉仕に焦点を当てるようになっていく。これは次の位階アデプタス・イグゼンプタスにおいて完遂する。)


ゆえにイボケーションは神の「意志」を実践し、剣を持って「悪」と戦うアデプタス・メイジャー(6=5)以上に到達した達人によってのみ実践されるべきです。どんな悪や霊と対峙してもブリアーレベルの意識レベルを維持し、微動だにせず彼らに命令できるレベルに到達したもののみが安全に行えるものです。

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もう少し具体的にイボケーションの危険について考えてみます。霊に姿を与えるのは主に円の中にたつ魔術師のエーテル体です。お香やハーブの煙で十分ということはありません。術の目的が「悪魔と対峙し、それに命令し、そして再統合を果たす」ことであれば、魔術師自身のエーテルエネルギーを使う必要があります。ようは霊に形を与えるのは魔術師自身のエーテル体だということです。


エーテル体は肉体や物質のまわりにある「オーラ」のようなものですが、これが傷つけば肉体にも損傷が及びます。いかなる病も肉体に発現する前には、エーテル体(その前にはアストラル体)に現れるといわれていますから、イボケーションのリスクはこの点からも明らかです。未熟な状態で試みれば、憑依されたり、病気になる可能性も高いでしょう。エーテルリンクを確立すれば、その下位にある肉体のみならず、より微細なアストラル体(感情)やメンタル体(思考)にも影響が及びますから、発狂する可能性もあるでしょう。


儀式をやっていて、間違えることはよくあります。そのようなときはやり直しをしたり、あるいはそのまま過ぎ去ってしまうこともあると思います。しかしイボケーションにおいては一つのミスが取返しのつかない事態になることさえあるのです。イスラエル・リガルディーは「全書」のなかで次のように書いています。


Dependingon the nature of spirit, and the degree of manifestation, it is likely that thespiritual progress of the magician is at an end – at least as far as hiscurrent incarnation is concerned. (霊の性質および顕現化の度合いにもよるが、魔術師の霊的成長が終わってしまうことさえある。少なくとも今生においては。)


魔術のことを知れば知るほど、私は儀式をするにもより慎重にならざるを得ません。事実、儀式中のミスにより、大変な事態になったケースをいくつか知っているからです。宇宙の諸力を扱うのですから、つねに畏怖の念を忘れるべきではないと、私は考えます。25年くらい前、まだどの団にも所属していなかった頃、激しい感情に突き動かされ、本の知識だけを頼りに行ったやるべきではない儀式でひどい痛手を負い、その後何年にも苦しんだ私が自らの体験をもとに言うのです。魔術を実践するのなら、霊的成長と奉仕というしかるべき態度を持って近づくべきです。


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本記事のタイトルにあげた3つの言葉「死」「犠牲」「変容」は魔術修行の径ではよく使われるものです。

魔術は「自己変容」の径なのですが、それはどういう意味なのでしょうか? それは一般に考えられているように「自分をよくする」径だと言えます。ただし魔術の学徒の場合、状況はよくなるどころが、悪化することがあります。そのため「いったいどこが自己改善の径なのか?」と、特に実践者以外からは批判が上がりやすいのです。魔術なんてわけのわからないことはやめたほうがいい、とまわりから言われるゆえんです。

この「よくなる前に悪化する」のが魔術修行の特徴の一つなのですが、これはある意味、自然なことです。変容には痛みが伴うのです。

魔術はメンタル的な作業です。学徒はKey 1(魔術師)にあるように、覚醒時の意識を使い、潜在意識に印象を送り込みます。潜在意識は、自意識からやってきた印象に忠実に、肉体および環境を作り上げていきます。そもそも人類は「分離」というウソに陥っているために、我々の体もそのイメージに従って成り立っています。そうした誤りを是正し、正しい印象を潜在意識に送り込むのが魔術における「大いなる作業」の一環です。宇宙の真実に沿った正しい印象を与えれば、古い細胞が死に、新たな細胞の誕生に伴い、新しい体が形成されていきます。これが肉体レベルにおける錬金術の変容です。潜在意識の領域の印象が物質界に顕現するのです。

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さて、元素位階(1=10から4=7まで)は錬金術でいう分離の作業です。元素位階で試練を経験するのはそのためです。パーソナリティにおける各元素の部分を切り離し、真実から乖離するものは破壊され死滅します。変容を遂げるには避けられない死と破壊の作業です。また虚偽は破壊される前に顕現化しますので、台頭する人格内の魔物にまっこうから対峙しなくてはなりません。これもまた魔術師の径を歩む者には避けて通れないものです。つまり魔術における「死」とは人格内の誤りの「死」です。虚偽はKey 16 (塔)によって破壊され、死に(Key 13)、4元素の分離が終わったのちに「統合」(Key 14=節制)されます。これらタロットキーの配置を生命の樹上で確認してみるとよいでしょう。これがSolve et Coagula(分離し、そして統合せよ)という有名な錬金術の概念です。

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さて、さきほど、「潜在意識は自己意識からきた印象に忠実に肉体および環境を作り出す」と書きました。これはつまり、魔術の学徒は自分の思考に責任を持たなくてはならないということです。なにを考え、何を言葉にするのか…。どんな心像を抱くのか…。それらがどのようなものであれ、潜在意識は忠実にそれを物質レベルに顕現させようと諸力を方向づけます。破壊的な想念を抱けば、破壊が具現化するのです。

しかし今日、今のこの瞬間から、思考、想念、心像に注意を向け始めれば、変化が起こり始めます。このことに魔術実践者は位階に関係なく、生涯の教訓として常に注意深くあるべきです。

「犠牲」という言葉を魔術修行ではよく使いますが、犠牲になるのは人格の誤りです。不均衡なもの、真実から逸脱したものを犠牲に捧げなければ、先には進めません。我々人間はどうしても誤りにしがみつきたくなります。「分離」というウソから生じるあらゆる現象、嫉妬やねたみ、復讐、嫌悪… あげればきりがありません。それらを手放すのは容易ではありません。そういうものを抱いているほうが、どこか安心するし、手放すと自分が損をするような気がします。これら概念は人類の歴史において、ずっと我々の細胞のなかに根付いてきたのですから。しかし「解放」を実現するのには、手放すしかありません。自分を束縛しているのはこういったウソなのです。この戦いも位階に関係なく、人間である以上、すべての魔術師が格闘し奮闘する魔物です。

魔術師に錬金術の変容をもたらすのは水銀の力です。水銀とはなにか? それはKey 1(魔術師)で象徴される自意識です。心は移ろいやすく、注意しなければ、しょうもないことばかり考えています。瞑想や儀式をしようと思うと、どうでもいいことばかり心に浮かんできます。さっきまでは考えていなかったことが瞑想を始めたとたん、気になり始めたりします。おとなしくさせようとしても、心はおしゃべりをやめません。しかし心を沈めなければ、その集中力を使って正しい印象を潜在意識に送ることもできませんし、Key 5(ハイロファント)で象徴される高次の自己の言葉も聞こえてきません。魔術においては「沈黙」することの重要性は強調しきれません。「沈黙が語り始める」まで、我々は「沈黙」できるよう心を鍛えなければならないのです。そして「揮発性のものは固定される」(Fixing the Volatile)のです。これもまた錬金術のプロセスです。

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元素位階への突入、そして腐敗と統合の最終段階であるポータル位階への参入に関して、考え方は学徒それぞれです。恐れを抱かずなんの迷いもなしに歩みを進める人、未知の試練に躊躇し辞退する人…。歩みの速度も人それぞれです。ゆるぎない決意でどんどん上がっていく人もいれば、ゆるぎない決意を持っていても、エゴの魔物に行く手を遮られ奮闘する人、未知の試練を恐れていたはずなのに、いったん歩みを始めると、着実に進んでいく人…。

いずれの場合も、われわれをひっぱっていくのは、真の自己からの不動の光です。それを求めて歩んでいくしかないでしょう。リガルディが出版したGD文書にも「光の魔術」の術式が載っています。それはニオファイト儀式で行われる基本的パターンです。暗闇で生きている者を内なる光へと導くフォーミュラです。Z文書に記載されたそのマスターパターンがGD系列の団では、タリスマンの聖別等、ほかの儀式にも応用されています。

その内なる光を求めて、魔術の学徒は試練にも耐えて歩みを進めるのです。

なかには「試練というが自分は大丈夫だろう」と考える人もいます。

私もそうでした。ファーストオーダーにおける私の生活はかなり荒れていましたが、それでもなんとかやっていました。当時の私は英語で書かれた団の公式文書は一生懸命に読んだももののほとんど理解しないまま、課題だけパッパとこなして上に上がっていきました。アメリカの大学に行ったので、英語で読んだりレポートを書いたりすることに慣れていたため、その辺はなんていうことなく、楽にこなせたのです。私の入団時の動機は純粋かつ誠実なものであったものの、途中で西洋魔術の落とし穴であるエゴの拡大に陥り、途中から自分のエゴを満たせるパワーを求めるようになっていました。そしてその状態でポータル位階の腐敗の作業に突入し、そこから経験した試練は、言葉で表現できるものではありません。

その試練のまっさなか、生きる気力さえ失いかけていたころ、ガレス・ナイトのA Practical Guide to Qabalistic Symbolismをなんとなく開き、第25の小径についての説明を読み、愕然としました。そこに書いてあることが、自分の当時の経験をあまりにもよく表現していたためです。

その日、私は、自分の傲慢さゆえの愚かさに気づいたのです。そして魔術もイニシエーションもすべて本当に本物なのだ、とハッとさせられました。それでも私が第24, 25, 26の、腐敗と統合の径を抜けるまでには何年もかかったのです。

Into the darkness of the night
With heartache kindled into love,
O blessed chance!
I went out unobserved,
My house being wrapped in sleep.

夜の闇のなかに
心の痛みは愛へと燃え
おお、祝福されたる機会よ!
私は誰にも見られることなく出ていった
わが家は眠りに包まれて

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これは十字架のヨハネが書いた “The Dark Night of the Soul”(魂の闇夜)という本からの抜粋です。この一説は「腐敗と統合」のプロセスを実に美しく表現している詩です。第25の径に関して、これ以上、美しく表現している詩に私は出会っていません。

魔術師はその心の痛みを、統合に向けた求愛の賛歌に変え、勇敢に一人で暗闇へと歩みを進めるのです。

「死」「犠牲」「変容」はLVXのフォーミュラであり、INRIに表現されています。
INRIはYod, Nun, Resh, Yod。つまりYod(隠者)は死に(Nun)、よみがえり(Resh)、再び隠者(Yod)になるのです。六芒星の儀式に合わせて行わることが多い、この術式がセカンドオーダーで用いられる点にも留意すべきです。ここにも「死」と「再生」のテーマが含まれているのです。

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魔術修行とは

「魔術師」になりたい… という思いを抱き、魔術を学び始める人は多くいます。自ら独学の道を選択する人もいれば、どこかの結社に入団して学びを進める人もいるでしょう。独学の場合、情報量や指導者の不足もそうですが、参入儀礼を受けられないという点からも、困難な歩みになるケースが多いと思います。「イニシエーションとはギフトである」と”By Names and Images”の著者であるPeregrin Wildoak氏は述べています。一人の志願者がニオファイトの儀式を受けるまでに、どれだけの人数のイニシエートが時間と労力と使ったのか、イニシエーションにあたる司官らが、どれだけの年数、修行を重ねてきたのか… そうした点を考えると、神殿に案内される志願者は、ギフトとして参入儀礼を受けるのだとわかります。参入儀式を効果的に行うには、単なる動きだけではなく、セカンドオーダーの団員だけに教えられるインナーワーキング(視覚化)などが多く含まれており、一人のアデプトが育つまでの大変さを考えれば、何人のもイニシエーターが集まり、一人の志願者を参入させることの重大さがわかるでしょう。もちろん、少なくともF.L.O.においては、イニシエーションの実施により金銭的に儲けを得る人は誰一人いません。

もちろん、個人の生活の状況により、独学でしか学べないこともあるでしょう。その場合は、できる限りの努力をするしかありません。独学であっても、その志が誠実なものであれば、不可視の領域にいるガイドは、その学徒を見守っているはずです。そしていつか、それが今生でないにしても、いつかは仲間のもとに導かれる日がくると思います。

さて、では魔術師の修行生活とはどのようなものなのでしょうか? 実践する魔術体系によっても違うでしょうし、ソロなのか、どこかの団のメンバーなのかによっても違うと思います。また教育カリキュラムがきちんと組まれた団であっても、やるかやらないかは結局は個人の選択ですから、修行などほとんどしてない、という団員もいるでしょう。イニシエーションを受けても、受けっぱなしでは霊的進化はさほど進みません。個人の努力なくしては成長はないのです。ミュージシャンになりたいのなら楽器を練習する、アスリートになりたいなら筋トレをするのと同じです。

しかし通常は、魔術の径の歩みのはじめに、学徒は学ぶことの多さに圧倒されます。本を読んでも最初はまったく理解できないかもしれませんし、学ぶべき分野の多さに途方に暮れることもあります。しかも、それが一生続くのです。魔術の場合、「全部学んだ」ということは絶対にありません。学んでも学んでも、まだまだ次があるのです。圧倒されて、挫折する人もいますし、途中で何年か休む人もいます。

逆に「一体、なにをそんなにやることがあるのか?」と思う人もいるかもしれません。私が20代のころ、交際をしていた男性が、私が魔術に興味を持っているのを知り、「なんだ、魔術か。自分は1週間で魔術をマスターしてやる」と、秋端氏の「実践魔術講座」(通称:赤本)を買って、必死になっていましたが、もちろん、一週間どころか、魔術においては一生あっても足りません。

まず知識として学ぶべき分野は多岐にわたります。カバラ、錬金術、タロット、魔術理論、占星術、神話、etc… 一つの分野だけを学ぶのにも、長い時間がかかります。実践面である儀式魔術においては、「瞑想法」「視覚化」「集中力」など、長年の訓練を必要とするものばかりです。また、レポートや論文作成も、団の位階の課題として絶え間なく取り組まねばなりません。

時に学徒は「秘儀をすぐに知ることができる術式を教えてほしい」という思いに駆られますが、そんなものは存在しません。例えば現在公開されている五芒星の儀式を一つとってみても、読んだだけではわからないだけでなく、実践してみても、その意味が分かるようになるには、相当の修行が必要になります。召喚する天使のテレズマ像の構築、それらの存在らと交流できる能力、召喚したエネルギーを感じ取る能力、召喚した諸力領域の霊視、護符の作成に必要な諸力に関する理解…。ただひたすら、謙虚な気持ちで「奉仕するために知りたい」という意図のもと、たんたんと訓練を続けるしかありません。

これらを考えると、時間はいくらあっても足りないのだ、と気が付きます。もちろん、仕事を休んで一日10時間の修行を続けてみたり、寝ないで本を読んだり、家族や仕事をないがしろにしたり、というのはいけません。また焦って次の位階に進もうと、適当に試験だけパスして上に行くのもお勧めしません。そういう意味では「ゆっくりと着実に進め」ということなのですが、それはなにも「だらだらやれ」ということではありません。「やるべきことはやりつつ、勤勉であれ」ということです。

まず学徒は、魔術の修行生活の基盤となるべく、きちんと収入源となる仕事をすべきです。魔術を始めたら、魔術師なんだから、お金が入ってくるんじゃないの? などという考えは間違いです。むしろ、径に歩みだしたばかりのころは、より困難な状況に陥ることさえあります。そして、きちんと心と体のケアをすること。特に心に関しては、精神障害があるうちは、魔術はしないほうがよいでしょう。心に抱く心像はやがては肉体に影響を及ぼします。そういう意味で、魔術は本当に「危険」なのです。半端な気持ちでやるべきではありません。

そして学徒は徐々に犠牲の意味を知り、犠牲の祭壇に、一つ、そしてまた一つ、と修行の妨げになるものを捧げていきます。それは強制ではありません。自然と自分の意志で、そうしたい、そうするしかない、と思うようになるのです。

また径においても、「犠牲」への意志を試される場所があります。その一つがサメクの径ですが、その神聖な犠牲の意味も、勇敢にその径に歩みを進めたもののみが知りえる秘儀/秘義なのです。

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2018年3月末から4月上旬にかけて、アメリカのダラスロッジおよびオーストラリアのアデレードロッジからアデプトたちが東京に集結しました。

直前まで日本は季節外れの寒波に見舞われ、雪が降ったりしましたが、彼らの来日に合わせたように日本には温かい日差しが降り注ぎ、桜は満開を迎えました。

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魔術の径を歩む者は時に孤独を感じるものです。趣味でやっているうちは家族や友達にも気軽に魔術の話ができるかもしれません。しかし真剣な気持ちで魔術の学徒になる者は、「秘密」を抱えることになります。周囲の人に話せない、話してもわかってもらえないから話さない秘密を背負うことになります。それだけではなく魔術には「沈黙」という原則および美徳がありますから、そもそも周囲にべらべらと話すものではありません。

魔術の学徒は、一人の時間には、小難しい魔術書を読み、テレビをみてだらだら過ごしたい気持ちと闘い、己を鍛えるために意識を集中させ、儀式や瞑想をします。東京の場合、友人を自宅に招くことがなくても友達として付き合うことは可能でしょうが、恋人となると話は別です。自宅に魔術書がたくさんあったり、ないしは瞑想のための場所、神殿などを作れば、人を家に呼べなくなることもあるでしょう。魔術の学徒になることで、恋愛関係が破たんしたり、配偶者の理解が得られず離婚に至ることさえあるのです。

そのような孤独な径を歩む学徒にとって、仲間は大切です。グループとして活動することにより、魔術団の歴史で我々が目にしてきたように、衝突もあるでしょうが、エゴの増大は錬金術的変容の一環です。それらを乗り越えて仲間としてのきずなを形成したのなら、それは魔術という厳しい道のりにおいて、大きな支えになります。

彼らは1週間の滞在において、各種の儀式や講演会など、食事もまともに取れないようなタイトなスケジュールをこなしてくれました。時差ぼけもあったでしょうに、日によっては3時間くらいしか睡眠がとれないほど予定が詰まっていたにもかかわらず、強靭な精神力で乗り切ってくれました。もちろん仲間としてのきずなを深めるため、観光をしたり、一緒に食事をしたりして、親睦を深めました。これもまた、団の兄弟姉妹としての重要な活動です。

今回、私が彼らと一週間共に過ごすことで、気づかされたことは多いのですが、そのうちいくつかを今回、みなさんと共有したいと思います。

一つに回帰の径を歩むべくイニシエートを受け入れる魔術団とは「誰かの所有物」ではない、ということです。世界には現在、いくつもの魔術団があり、それぞれに「創始者」は「創設者」と言われる人が存在します。またそれらの団には支部があり、各支部の代表者がいます。しかし注意すべきなのは、そうした団や支部は、だれかれの団、だれかれの支部ではないということです。つまり魔術団は「だれだれさんの団」ではなく「サードオーダーの団」なのです。

“接触を受けた”魔術団というのはあくまでも非物質の領域にいるサードオーダーらの指揮下にあることを絶対に忘れてはいけません。我々人間は、サードオーダーに許されて働かせてもらっているのだということを常に覚えておく必要があります。サードオーダーはすべておみとおしです。リーダー的存在の人物が団に破壊と分断をもたらすような行動を続ければ、サードオーダーとのリンクを失います。そしてそうした人物は団から外されるか、ないしは団や支部そのものが一度解散になり、新しい形で再生したりします。アデプト位階に到達し指導的立場に立つようになった者は、セカンドオーダーのカリキュラムである儀式魔術を実践するなかで、徐々に自己の中に魔術的能力の目覚めを自覚するようになるでしょうが、それはあくまでも奉仕のために使うべき能力として与えられたのであり、「ああ、自分はこんなことができるんだ、すごいんだ」という誤解を抱けば、あっという間に傲慢という悪徳に陥ります。そのような状態になり、傲慢の極みをつくせば、サードオーダーから「解雇」されます。また、ティファレト位階で傲慢を克服できなければ、そのうえのアデプタス・メイジャーに進めないだけでなく、進んだとしても、ラメドに待ち受ける女神の正義の剣に切り刻まれ、ゲブラーの炎に焼かれてしまうでしょう。自分の欲だけで秘義を知ることは、こういう点からいっても、絶対に無理なのです。

サードオーダーとの接触がなくても団として存在しているところもあります。しかしリンクがあるかどうかは、中にはいってみればすぐにわかります。そこには真の意味での奉仕の精神が存在するはずです。しつこいようですが、回帰の径において秘義を知るにはそれしかないのです。

さて、もう一つ、私が今回、痛感したこと。「儀式は美しく行え」

儀式というのは物質レベルで高次宇宙を表現したものです。それゆえに言葉も身振りも、すべて美しく表現し、高次元からの光のなか、恍惚の意識レベルを表現するものであるべきだと思います。美しく儀式を行い、同じ美をあらゆるレベルで顕現せよ。ということです。

暴力的な言葉はふるまいは自我の現れです。宇宙の意識に自分の意識を融合させ、恍惚の光に溶けいくのなら、当然、そこで表現されるものは、美しいものであるはずです。ときどきネットの動画サイトなどで五芒星の儀式をはじめとした各種儀式を目にしますが、自我を激しく表現するようなやり方よりも、儀式で調和と美を表現できる魔術師になりたい、と私は考えます。


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