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元々は原住民が住み着いており、中国からの移民は明時代の中期以降です。
この時の移民のほとんどは中国福建地方から海を渡ってきており、台湾南西部の海岸地方に定住し、山野を開拓するとともに、この地方を根拠として海賊を働きました。
1624年台湾を占領したオランダは、安平、台南に城をきずき、島内の開拓をすすめました。
1661年福建地方の海賊の首領で明朝の遺臣と称する鄭成功が、部下をひきいて台湾に渡り、城に攻め込み島内の中国移民もこれに応じたので、オランダはついに屈服して台湾を放棄しました。
しかし、鄭成功の一族内の内争が続き、1683年清の康熙帝に降伏しました。
清は台湾府をおき、福建省の管轄下に入れ、200年余りの支配をつづけました。
その後、日清戦争の下関条約(1895)によって台湾の日本への割譲が決定すると、台湾の官民は台湾民主国の樹立を宣言し、日本の支配に抵抗しました。これに対し日本軍は2個師団を派遣して討伐をはかりましたが、島民の抵抗は激しくその鎮圧に半年を要しました。
台湾は日本の独占的な植民地となったのです。
日露戦争(1904〜05)の後、植民地としての台湾経営はようやく本格化し、とくに製糖会社がつぎつぎと設立されました。
こうした台湾経営は島民からの農地、山林の収奪、労働力の搾取などの上におこなわれたため、島民の反抗は激烈でした。1920年代になると、反日独立運動がおこされ、また1930年には霧社の高砂族の大規模な武装反乱がおこりました。(霧社事件)
第二次世界大戦中は、台湾国民の、民族の文化や特質さえ奪い去ろうとしました。また南方侵略のための基地として、大戦末期には全島が要塞化し、50万の日本軍が駐留して島民の生活を圧迫しました。
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1945年10月17日、降伏した日本軍に代わって、台湾を接収するために、中華民国軍約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から上陸した。
台湾の民衆は爆竹を鳴らし、晴天白日満地紅の小旗を振り、日本軍を打ち破ったはずの「祖国」の軍隊を迎えた。しかし、しだいに民衆の歓声は消え、爆竹は鳴りやんだ。
兵士達は銃のかわりに鍋釜をさげ、薄汚れた綿入れを着込み、ほとんどが草履履きで素足のものもいる。カラ傘を背負った者もいれば、鶏の籠を天秤棒でかついだ者もいる。しかも隊列はだらしなく曲がり、話しながらだらだら歩いている。
台湾人にとっての軍隊とは、威風堂々と行進する日本軍の雄姿だった。台湾人の期待はまったくはずれたのである。そればかりではなかった。「祖国軍」の上陸とともに、婦女暴行や強盗事件が頻発した。
商店からは横暴な支配者然として代金を払わず品物を持ち去る(『台湾の歴史』p147)。
賢犬が去り、豚が来た
2016/11/3(木) 午前 6:33 [ 国益平和マネジメント ]