|
30分後、バスでビルケナウの収容所に到着しました。
この収容所の見取り図です。 300棟あったそうで、一度に10万人程度収容できたそうです。 向かって左側をみると至るところに有刺鉄線が張り巡らされています。 反対側には粗末な木造のバラックが。。。 大勢のteenagersがあるいています。 みなイスラエルの国旗をマント代わりに身にまとっています。 イスラエルの修学旅行だそうです。 木造の粗末なバラックにつきました。 もちろん修復されたものです。 アウシュビッツに比べると粗製乱造ですね。 これがトイレ。 外の風がそのまま入ってくる粗末なバラックにどれだけの人が詰め込まれていたのでしょうか? 生き地獄ですね。 線路沿いに戻りました。一番奥に向かいます。 ぼくが、この収容所で本当に戦慄を覚えたのは、 この風景を見た時です。 先程の粗末なバラックが、ここには無数に建てられていたのですね。 どれだけの人がここで殺されたのでしょうか? 夏の空は青く澄んで陽射しが暑いですが、冬になるとおそらく氷点下。 多くの人が凍死したり、感染症に倒れていったことでしょう。 戦慄の光景です。 ホロコーストには、隠すことの出来ない残虐な証拠が多数残っています。 生つばを飲み込むだけで、何もできませんでした。 線路の終点です。 そしてその後ろ側には、犠牲になった各国の言語でモニュメントが造られています。 そして、これがガス室の後。 ナチスは最後に証拠隠滅を図ってか、破壊していきました。 ぼくは、いままでアウシュビッツ=ビルケナウ収容所にある種の懐疑的な気持ちを持っておりました。しかし、それは間違いであるとわかりました。 人間はいとも簡単に死んでいくのです。 しかし、その人間一人一人に人生がある。 人間が人間の命を奪うということがどういうことか、 殺人工場であるこの施設を見学して、余計にわからなくなりました。 ドイツSS達は、喜々としてユダヤ人を殺していったのでしょうか? カンボジアのポル=ポト達もどういう気分で人を殺したのでしょうか? 狂気と言う事で片づけるのは簡単なことです。 我々はポーランドの第二の都市であるクラカフに戻ってきました。 でもなんとなく違和感を感じました。 人間というものの業の深さに、ただただ感じ入る見学でした。 おわり。 最後まで見ていただいた方に感謝いたします。 クラカフから毎日ツアーが出ています。 自分で行くことも出来ますが、ツアー利用の方が便利です。 日本語のツアーはもちろんありません。 英語のツアーに参加しましたがはじめに書いている通り、ポーランド人の英語はわかりやすく、参加してよかったと思います。 ポーランドに行く方だけではなく、 チェコに行く方も一度足を伸ばされてはどうでしょうか? |
苦い人類の歴史
[ リスト | 詳細 ]
|
これがガス室の後ろ側です。 前からみると ガス室と死体焼却炉がいっしょにあるというのも恐ろしいですね。 もちろん当時のものではなく現在ポーランド政府により修復されたものです。 この図は、焼却室の見取り図ですね。 24時間ぶっ続けで。。。 300×365としても11万人。 それが数年間ですから20〜30万人が焼かれている計算になります。 そしてこれが死体焼却炉です。こういうのが6つあったそうですが、今は4つです。 使った人は何からの肥料かわかっていたのでしょうか? これで終わったと思っていたんですが、 これだけではありませんでした。 ガイドさんは1時間後にビルケナウの収容所であいましょうと。。。 我々のグループの後ろ姿ですが全員一様にうつむいて歩いています。 ぼくは、ここで結局400枚以上の写真を撮りました。 紹介している以外にも出したいのもありましたが、 ボクの視点でなんというか狂気をよく表したものを中心に紹介しました。 それは想像を絶するものでした。 (続く) |
|
この建物がコルベ神父をはじめ多くの収容者が虐待死させられた地下牢がある建物です。
中はやはり左側通行で見ていきます。 この建物は、殺すということを主目的に立てられたのではないかと思われるぐらい『死』が容赦なく見学者を戦慄させます。 この部屋は、シャワールームのように見えますが、女性の囚人を殺す前に自分ですべて衣服を脱がせるための部屋でこの後殺されたようです。 どの部屋にコルベ神父が入れられていたのでしょうか? 当然ですが。。。 この部屋でしょうか? その時のSS隊員の心理は正常でいられたのでしょうか? ボクの番になりのぞき込むと、 ロウソクが置かれていました。 コルベ神父はカトリック教会によって、1982年に列聖しています。 これは、何のスペースでしょうか? ボクが聞いた時には、立牢だときいたのですが正しいかどうかわかりません。 こんなところに入れられて懲罰を加えられるというのは、まさに生き地獄であったでしょう。 最後にこの建物を出ようとすると、こんな記載をみる事になりました。 『この建物11の1階には最後の日に殺された収容者の大勢の死体が遺されていた』とキャンプを解放したソビエト兵の供述がある。 余りにも重い気分になり、外へ出ました。 夏のポーランドは陽射しがきつく、ホッとしたのを覚えています。 この収容所の全景を表示した案内板です。 この収容所で一体どのぐらいの人が虐殺されたのでしょうか? 収容所の規模は2、3万ですが、収容期間は長くても数カ月である事を考えると やはり数十万人が殺されたと見るべきでしょう。 もちろんその中には、強制労働に夜過労死などを含んでのことですが。。。 我々は通路をあるいて行きます。 こんなところに出くわしました。 建物の説明を拡大します。 重い気分になって、これからガス室を見に行くことになりました。 ガス室は、端にある11の建物から収容所を横切って反対側まで歩いていくことになります。 ガイドさんの英語の説明をつたなく聞いた話なので正確かどうかわかりませんが これが収容所の所長の事務所だったそうです。 ヘスもここに暮らしていたのでしょうか? そして、歩いていくとヘスが絞首刑に処された場所に到達します。 ここから少し歩くと、ガス室です。 (続く) |
|
それでは、居住区として展示されているところに入ります。
中に入ると向かって右側に居住室、左側にトイレなどがありました。 左側から回っていきます。 囚人頭の部屋などがあり、その後、トイレです。 この設備が出来るまでは囚人は屋外にあるたった2つの井戸でしか洗うことは出来なかった。 とありますね。 そしてこれが、囚人の居住室です。 この建物の場合は、粗末な寝具が床に直に置かれています。寝具のわたは、干し藁を使っています。 これは別の棟の居住室ですが、彼らの囚人管理の基本は囚人に差をつけることでした。 仕事の能力で食事、寝所に差をつけていたような事を言っていました。 建物の廊下には収容者の写真が所狭しとはられています。 ナチスドイツは3方向から写真を撮り、刺青を入れるということはきっちりやっていたのでしょう。見ていただきたいのは、収容期間の短さです。この若い収容者も1942年4月17日から6月20日と3ヶ月も満たない期間しかこの収容所にいないのです。 と言うことは、激しい労働の末に体を壊して殺されたか、 何かの見せしめになったのか、 このような写真が山のようにはられています。 靖国神社の遊就館に行った時、このような顔写真の掲示がありました。 それをみるとき、胸が熱くなり、感謝の念が込み上げてきます。 しかし、この顔写真を見る時、 なんともいえない複雑な気分になります。 そういう気分を胸にいだいて外へ出ました。 見せしめのために収容者に懲罰を加えた場所がありました。 この区画の奥に、死者を弔うモニュメントがありました。 この壁は死の壁と言われていてここで銃殺刑を行なっていたそうです。 手を合わせました。 重い気持ち、重い足取りのまま、次の区画へ向かいます。 あなたはコルベ神父と言う人を知っているでしょうか? 私はカトリックの高校を卒業したのでその逸話は昔から胸に刻みつけられていました。 続く |
|
アウシュビッツの収容所では、大勢のユダヤ人が送り込まれてきました。
大人も子どもも、男も、女も、 殺されるために、、、、 こうした多くの人達は、収容所で使うために日用品をトランクに入れて携えてきました。 そうした遺品を展示していました。 これを見ると、今でも戦慄が走ります。 一部を紹介します。 これはブラシの類いですね。 赤ちゃんを入れてきたと思われるカゴですね。 トランクには各所有者の名前などを記載してあります。 これは義足。ありとあらゆるユダヤ人を連行してきたことがわかります。 これはメガネですね。 最後に、この薬品が、チクロンBだそうです。 このチクロンBが入っていた缶が山積みされており、どれほどの量を使用したのかホと場に出せないほど恐ろしい。 チクロンBは、青酸と同じシアン化合物だそうですが、、、、 先へ進むのにこれほど足取りの重くなるところははじめてです。 続く |


