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「後ろ暗い、か……」 紅い路にひとり残された俺はぽつりと呟いた。 いっそのこと、そんな話だったらどんなに良かっただろうか。 沙耶の事を優子に紹介して、優子がやきもちを妬いて。 やきもちを妬きつつも、優子は沙耶を新しい家族として迎えてくれて。 そんな当たり前の幸せな家族の光景を、俺はずっと夢見ていた。 それはもう、今の俺には叶わないものだ。 小脇に抱えたセカンドバックがずしりと重く感じる。 俺が今抱えているのは、"後ろ暗い"の一言で済むような話ではない。 仮に俺が誰か第三者からこの話を聞いたとしても、そんな荒唐無稽な話、と笑い飛ばしてまず信じやしなかっただろう。 だけど、残念なことに、俺は紛れもない当事者だ。 この瞼に焼き付いて離れない現実がある。 助けを求め、高く掲げられる手。 そして、何者にも届くことなく、力尽きていくその手。 どくん。ひとつ強く心臓の鼓動が跳ねる。 駄目だ。今この時だけは、新富製薬での出来事は忘れていたい。 (……け……れ……) どこからか、声が聞こえる。 どくん。どくん。動悸が、抑えられない。 思い出してはいけない。俺は、優子のもとへ行かなければ。 落葉で朱色に染まる路を踏み出そうとするが、俺の足は立ち尽くしたまま動かない。 まるで何かに絡め取られたように、ぴくりとも動かないのだ。 (……けてくれ……) また、声が聞こえる。 ふと見ると、紅く染まった地面から一本の手が伸びている。 立ち尽くす俺の足めがけて、一本、また一本と血のように赤い地面から生気を無くしたいくつもの手が伸ばされていた。 (……助けてくれ……) 一面の血の海に立ちつくす俺の脚を、無数の手が絡めとる。 ぐらりと空が回る。記憶が滝のように流れる。 胃液が逆流しそうな感覚に襲われ、俺はしゃがみ込んだ。 誰か、誰か助けてくれ。 助けを求めるその声は、あの時聞いた声なのか、それとも今の俺の叫びなのだろうか。 ◆ ◆ 「動物実験結果のチェック?」 「ああ。そろそろ聡にも、エキドナの威力をその目で確認してもらいたい」 速水のその申し出は、暦も10月を迎えすっかり涼しくなった頃の事だった。 『電気に弱い』というエキドナの性質はこの時点でまだ克服できていなかったものの、理論の上では既に克服の目処はたっていた。 実験と培養を繰り返していけば、この10月中にはほぼ完成形に近い形までもっていける。開発はそこまで進んでいた。 あの全滅事故以来、俺は、専門的で正確だが若干抽象的な速水の指示を、いかに噛み砕いて的確にスタッフに指示するかという事に砕身した。 速水の思考と理論は完璧だ。ただ、他人に正確に伝わりにくいだけだ。 そう考えた末の判断だったが、それがすべて良いほうに働いたのだ。 開発のスピードは、目ざましく加速した。 そんな中、俺は臨床系の仕事だけはすべて速水に任せていた。 臨床系の仕事。俺たちは臨床と呼んではいるが、その意味合いは全く逆で、要は実験動物を意図的にエキドナに感染させて症状や感染のスピードを確認する実験だ。 当然、実験動物は死んでしまう。 情けない話、俺は曲がりなりにも細菌学者でありながら、学生の頃から動物を使った実験はどうも苦手だった。 その点、速水は嬉々として動物実験を行うタイプだったので、双方の利害関係が一致した俺たちは唯一エキドナの動物実験だけは完全分業としていた。 臨床系の仕事を避けていた事自体このような自分勝手且つ子供じみた理由からだったので、速水のこの申し出を断れるわけがない。 「ああ、わかったよ。どこに行けばいい?」 「ここでいい。 君が動物実験が苦手なのは知っている。大丈夫だ、そう思って今回は動画データを用意しておいた」 速水はそう言うと、手にしたデータディスクをパソコンにセットした。 モニターに映し出されるウィンドウの中には、動画ファイルの名前がずらりと並ぶ。 その様に、俺は覚悟を決めた。 「……実を言うと、数値でしか結果を見ていない事に少し罪悪感もあったんだ」 俺は申し訳なさげに言った。その言葉に嘘はない。 たとえ速水は好き好んで実験していたとしても、普通は誰もが嫌がるである仕事を結果としてすべて速水に押し付けていたのだ。 速水は臨床実験の結果を基に、ヒトの場合はどういう結果になるのかまでを完璧にシミュレートした上で俺にデータを渡していたので、恥ずかしい話、俺は実験動物が何なのかすら知らなかった。 通常ありえない話だが、その実験とシミュレートを行っていたのが天才・速水という事もあり、俺は全くその結果を疑っていなかった。 「気にするな。そうだな、まずは空気感染の場合から見てみようか」 俺の言葉を全く気にする様子もなく、速水はひとつの動画ファイルをクリックした。 モニター上に四分割画面で清潔な留置場を思わせるような簡素な小部屋と、そこに佇む歳のころ30前後の男性が映し出される。 「……?」 俺は画面を注視した。モニター右下の時間表示はの00:00:00のまま動かない。 男性は実験を行う人かとも思ったが、Tシャツにジーンズといったいでたちはどう見ても研究者ではない。 パイプ椅子に腰掛けた男性は、まるで自宅でくつろぐかのようにリラックスした様子で雑誌を読んでいる。 「被験者は29歳男性。1時間前に昼食を済ませ、健康状態は極めて良好だ」 「被験者?」 予想外の言葉に、俺は驚いて速水の顔を見上げた。 「室内は温度26度、湿度60%。あえて通常のウイルスが活動を苦手とするような環境に設定している」 「おい、ちょっと……」 「今回のケースは空気感染という事で、空調にエキドナをセットした。このタイミングで散布開始だ」 速水は俺の言葉を全く無視し解説を続けた。 モニター上の時間表示が目まぐるしく動き出す。早送りだ。 速水にしては珍しく悪ふざけが過ぎる。そう思った俺は、苦笑いを浮かべながら軽く速水に抗議した。 「さすがに趣味が悪い冗談だぞ、速水」 「私がこんな冗談を言うような人間に見えるのか?」 速水は涼しい顔をして言葉を返した。俺の苦笑いが固まる。 どくん。ひとつ強く心臓の鼓動が跳ねる。 彼の言うとおりだ。速水祐司という人間は、間違ってもこんなつまらない冗談を言うような人間じゃない。 という事は、だ。 「ほら、6時間経過だ。呼吸器に少しずつ異常をきたしているのが判るかい?」 モニター上の男性は、軽く咳き込みを始めた。ベッドに横になっても、相変わらず咳を続けている。 「軽い咳、微熱、倦怠感。この時点では風邪の初期症状と殆ど変わらない」 6時間…12時間…目まぐるしく時間表示は回り続ける。 モニターに映る男性に現れている症状は、速水が完璧にシミュレートして俺に報告していたエキドナの症状に他ならない。 「嘘……だろ……?」 張り付いた笑顔のまま、俺は呟いていた。本当に動揺した時、人は笑うしかない。 18時間……24時間……時間表示は止まらない。 「ここからがエキドナの本領発揮だ。早ければ12時間、遅くとも24時間前後には首筋を中心とした赤い斑点が現れる。 これをきっかけに、エキドナの症状は重篤化する」 横になった男性は、朝になっても起き上がらなかった。 ベッドをモニターした画面は、布団に包まり震える男性の首筋の赤い斑点をとらえている。 「呼吸困難に陥る程の咳嗽。全身を襲う悪寒に身体中の震えが止まらないはずだ。 48時間経過した頃には自力歩行すら困難な状態となる。 早い人は、ここでまず呼吸器官がやられて終わるだろうね」 「速水!!」 俺は叫ぶように声を上げて立ち上がった。勢いで椅子が倒れ、その音が研究室内に響き渡る。 暫くの静寂の後、俺は震える声を搾り出すように言った。 「これは……人体実験じゃないのか……!?」 「そうだが何か?」 速水は悪びれもせず、事も無げにそう答えた。 「新時代の科学と医学の礎となるんだ。素晴らしいことじゃないか」 速水のその言葉に、俺は絶望的な気持ちでモニターに視線を戻す。モニター上の時間表示は48時間となっていた。 ベッドに仰向けで横たわる男性の様子が明らかにおかしい。 苦しそうな表情で胸を押さえ、もがくように、何かを求めるように右手を高く前に突き出している。 口の動きではっきりわかる。助けを求めているのだ。 「やめろ!もうやめてくれ!!助けてやってくれ!!」 俺はモニターに食いかかるように半狂乱で叫び続けていたが、速水から発された一言で我に返った。 「録画に向かって何を言っているんだい」 「……録画……」 俺はモニターを呆然と見つめたまま、力無くその場に膝をついた。 それじゃあ。この人は、もう。 モニターの中で高く掲げられたその手は一度大きく開かれた後にぱたりと身体に倒れ、時間表示は64時間を示したまま止まった。 約束−2010/11/28 (6)(別窓) へ続く
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