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先生・林 子平に学ぶ!

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仙台市街の東北大学病院付近の北西側に「子平町(シヘイチョウ)」という地名がある。
「林 子平(ハヤシ シヘイ)」と言う国禁を犯し幽閉され、死後48年後に幕府から罪を許された江戸時代に生きた人の菩提寺が、その子平町にあるからだ。

実は、自分が通っていた高校が近くに有り、地名からそのような人が仙台藩に居たということは、以前から知っていたが何をした人なのか?まったく興味が無かった為、知らなかった・・・というより、忘れていたのかもしれない。

最近、仙台藩の歴史書を読んでいるうちに、日本を救ったと言っても過言ではない「林 子平」に大変興味を持つようになり、どうしても墓参りをしたくなった。

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山形に通じる国道48号線を西に進むと、石標が突然現れる。「史蹟 林 子平先生之墓」とある。

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その交差点を右折し、交通量の多い細い坂道を北へ暫く進むと「曹洞宗金台山 龍雲院」の立派な門が現れる。1606年に開山した寺だ。

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門をくぐると本堂の左側に、墓が立ち並ぶ最前列に小堂が建っていて、立派な石標に「前哲 林 子平墓域」とある。 墓なのに小堂で覆われているではないか・・・

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国指定もされているのに・・?
石標が何本か建てられ、地名にもなっているのに・・?
更に小堂で覆われているのに・・・?

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なぜか・・・とても小さく侘しさを感じてしまう。。。

しかし、誰もいない墓には、現在でも生き生きとした生花が供えられていた。
この墓は、1793年56歳の生涯を閉じた後、罪を許された後の1841年に「林 子平」の甥、珍平が建立したと言う。

「林 子平」は、江戸時代の経世論(政治・経済学)家である。元文3年(1738)に生まれ、仙台藩藩医であった兄嘉善の元に身を寄せ、仙台藩邸医の工藤平助に感化し、蝦夷、長崎、江戸など各地に行って見聞を広め、特に外国に関する知識を得る。姉は六代仙台藩主・伊達宗村の側室である。

天明6年(1786)、『三国通覧図説』を出す。朝鮮、琉球、蝦夷の三国の地理を図示、解説したものである。 軍事上において、近隣国の地理を知ることの重要性を説いている。 吉田松陰が1830年生まれなので、日本を動かした幕末の思想家達が現れる約50年前に既に国防論を説いている。

さらに、師である工藤平助は、出版を止める事を助言するが、「考えを言わぬは不忠の臣。死罪かもしれないが、後世に役立つ」と言い『海国兵談』寛政3年(1791)を仙台で自費出版する。
本書では、日本が海に囲まれた国であることから、人々に警鐘を鳴らし、海防の必要性を述べたものである。 

これが、寛政の改革にともなう、出版物取締令に触れ、『三国通覧図説』『海国兵談』ともに、発売禁止となり、板木も取り上げられた。

そして、林子平は、時の無能な老中・松平定信から「奇怪な説を著した危険思想家」と兄の元で蟄居を命じられる。
伊達政宗の進取の気質を失った仙台藩は、素知らぬ顔で力になる事は無かった。

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その時の心境をこの唄碑「親も無し 妻無し 子無し 板木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎と号したといわれている。

ほどなくして、寛政5年(1793)56歳で子平はその生涯を閉じた。その4ケ月後に突然ロシア軍船が、根室沖に現れ開国を迫り、以後次々にロシア軍船は南下する。

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更に、幕末に英米両国が小笠原諸島の領有権を主張してきた。しかし子平が命がけで出版した『三国通覧図説』の絵図が有力な証拠となり、両国は引き下がったと言う。

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「寛政の三奇人」と呼ばれた、先見性を持ち、自分の命を投げ出し国防論を唱えた偉大な人物が、この仙台の地に生きていた・・・自分もかくありたい。

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    頑固と言えば変わり者に聞こえるけど、正しいと思ったら貫き通さねば気がすまない人だったんだろね

    臨機応変と言えば聞こえが良いけど、ちょっとヤバイと感じたらすぐに方向を変えてしまう俺でした

    [ - ]

    2008/4/21(月) 午後 6:47

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    ありがとうございました。
    子平町の名にこんな深い由来があったんですね。

    林子平の名前位は知っていましたが・・・。

    kan*a_*4*

    2008/4/21(月) 午後 7:05

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    林 子平という名前は初めて聞きました。仙台藩には先見性のある人がいたんですね。

    [ 形名 ]

    2008/4/21(月) 午後 8:20

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    べんさんへ
    私も右に同じで弱い人間です。家族などのことを考えたら、余計に思ってしまいます。
    でも・・志は、林子平のように貫きたいと思っています。このような先人が居た事を誇りに思い、子供達にも伝えて行きたいと思います。

    M.ROSSO

    2008/4/22(火) 午前 8:33

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    kannaさんへ
    今でも、生花が供えられているところを見ると、郷土の誇りと思っている方々が多くいらっしゃるのでしょう・・・地名もそのまま残されていますし。
    私も、確か勾当台公園に銅像があったかな?ぐらいの記憶しか有りませんでした。 これからも自転車に乗って、自分の足でいろいろ調べたいと思います。

    M.ROSSO

    2008/4/22(火) 午前 8:40

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    上毛野形名さんへ
    仙台藩は、その当時になると政宗の志を継ぐ者もなく、事なかれ主義の政治運営しか出来なくなっていたのでしょう。
    幕末も会津とともに奥州同盟を結び、官軍に白河で破れ、直ぐに降伏してしまいます。このような逸材を使い切れなかった事が悔まれます。

    M.ROSSO

    2008/4/22(火) 午前 8:47

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    ご無沙汰してました。
    明日も頑張ろうかな、という気分。良い話をありがとうございました。

    rinko_helios

    2008/4/29(火) 午前 4:02

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    rinko heliosさんへ
    コメントありがとうございます(_ _)
    ブログが更新されていなかったので、心配してしまいました。以前heliosさんのブログでも幕末に国の為に亡くなっていった方々の記事が有りましたよねぇ〜
    自分で書いて、herliosさんを思い出してしまいました。

    M.ROSSO

    2008/4/30(水) 午前 10:49

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  • 林子平さんは、仙台一高の前身、養賢堂の校長とか、聞いたような気がします。それから大槻文彦に・・、これだけの頭脳を有しながら
    なんで、宮城県は、総理大臣ゼロ県なのじゃ・・。

    タロ子別荘

    2009/2/13(金) 午後 0:30

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    夢うさぎ別館さんへ
    ほっほうー養賢堂の校長だったのですか・・・幽閉状態で亡くなったと思っていました。
    このように一般に知られなくても世に語り継がれる男になりたいと思っていますが・・・(+.+)
    本当です。隣の県は沢山でているのになぁ〜

    M.ROSSO

    2009/2/14(土) 午前 6:10

    返信する

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