フットボールの神々

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フットボール界に舞い降りた神々。
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美しく勝利せよ!

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オランダ代表やアヤックス、バルセロナで活躍し、1974年ワールドカップではチームの中心としてオランダの準優勝に貢献。

指導者としてもバルセロナを率いて、UEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を制覇し、「トータル・フットボール」を志向したドリーム・チームを作り上げ、現代フットボールに多大な影響を与えた。

昨年、肺癌を患っていることを明かし、闘病生活を送っていたが、公式サイトで「家族に囲まれて息を引き取った」と発表。


ヨハン・クライフよ永遠に・・・。

ブラック・スパイダー

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積極的にペナルティエリア外にも飛び出すプレースタイルは、同時では斬新なプレースタイルであり、真偽は定かではないが150本以上のPKを止めたといわれている“レフ・イヴァノヴィッチ・ヤシン”。

非常に長い手足と、黒ずくめの風貌から「ブラック・スパイダー」と呼ばれた。

1949年にディナモ・モスクワに入団。
当初は控えGKであり、姉妹チームのHCディナモ・モスクワでアイスホッケーのGKとしてもプレーしていた。
1953年に正GKのケガを契機としてポジションを獲得し、引退まで20年以上をディナモ・モスクワ一筋で過ごし、326試合出場し、国内リーグ優勝5回、カップ戦優勝3回等クラブレベルで数々のタイトルを手に入れた。

代表では1954年9月8日スウェーデン戦でのデビュー以来78試合に出場。
自身初の国際大舞台となった1956年メルボルンオリンピックではソ連の金メダル獲得に大きく貢献すると、1960年ヨーロッパ・ネイションズカップ(現EURO)でもソ連の優勝に貢献。
ワールドカップでは、1958年スウェーデン大会以降3大会連続して不動の守護神として君臨し、1970年メキシコ大会でも40才にありながらサブとしてメンバーに選出されている。
自身2度目のワールドカップとなった1962年チリ大会では、10分間に3点差を追い付かれ4−4で引き分けたコロンビア戦や、2度も平凡なロングシュートを失点して1−2で敗れたチリ戦などの不安定な守備を見せたことで、国内では敗退の責任を一身に背負わされる格好となり、その非難の激しさから一時期は真剣に引退を考えたほどだった。
しかし、その悪評を自身の力で見事覆し、ヤシンは国内リーグで27試合に出場して、わずか6失点しか許さず、ディナモを優勝に導いた。
10月にイングランドで行なわれた、FA創設100周年記念試合の世界選抜メンバーに招待されたヤシンは、イングランド代表の度重なる猛攻を無失点に抑え、前半45分のみの出場ながらも見た者に強い印象を残した。
同年にはGKとして初めてバロンドールに選ばれた。

1970年に現役を引退。
翌年5月に行なわれた引退試合のディナモ・モスクワ対世界選抜には、会場のルジニキ・スタジアムに10万人のファンが集め、世界選抜にはエウゼビオ、ボビー・チャールトン、ゲルト・ミュラーといったスター選手たちが参加した。
その後、血液のかたまりによって引き起こされる血栓性静脈炎という病気により足を切断するという悲劇に見舞われるも、1988年のソウルオリンピックにはソ連のチーム団長として参加し、自身2つ目の金メダルを獲得した。
そして1990年3月20日、60歳という若さでその生涯に幕を閉じた。

しばしば、史上最高のゴールキーパーと評され、現在までにGKで唯一のバロンドール受賞者であり、1998年にはFIFAの20世紀ワールドチームのGKにも選出。

ワールドカップの大会最優秀GKに与えられる賞には、1994年大会以降「ヤシン賞」と名付けられている。



疾走する少佐

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1950年代、第2次大戦後の混乱期にあるヨーロッパを席捲した「マジック・マジャール」のキャプテンとして活躍した“プスカシュ・フェレンツ”。

テクニカルかつパワフルな左足シュートで、ハンガリー代表として通算84試合に出場し、83ゴールの記録を持つ。
代表通算83ゴールはハンガリー歴代最多得点記録であると共に、21世紀に至るまでイラン代表のアリ・ダエイに抜かれるまで長い間世界記録であった。

ハンガリーのブダペストに生まれ、少年時代を郊外のキシュペストで暮らし、仲間達と牧場でボール遊びに興じる毎日を過す。

1936年、地元のキシュペストクラブに目を付けられ、少年チームにスカウトされる。
元プロ選手だった父親がコーチを務めていたこともあり、そのアドバイスを受け着実に成長を遂げ、1943年に16歳でトップチーム入りを果たすと、1945年8月のオーストリア戦でハンガリー代表デビューを飾る。
1949年、政治の実権を握った社会主義政府はスポーツ政策の一環として軍隊のチーム『ホンヴェード』を設立し、ここへ代表選手を集めるためキシュペストクラブを合併した。
49−50シーズンから7年間で5度の優勝を誇り、このチームのメンバーが中心となったハンガリー代表が、後のヨーロッパを制圧することとなる。
1952年には、ヘルシンキオリンピックに出場し、金メダルを獲得。
1953年11月25日、当時最強を自負するイングランドのホーム、ウェンブリーへ乗り込んだマジック・マジャールは、6−3でイングランドを下すとともに次元の違いを見せつけ、母国イングランドのサポーターを沈黙させた。



5ヶ月後にイングランドはリベンジを誓いブダペストへ乗り込んだが、1−7で返り討ちに遭い、母国としての威信もプライドも木端微塵に砕かれた。
1954年にスイスで開催されたワールドカップでは、グループリーグの西ドイツ戦において故意のファウルにより負傷し、決勝トーナメント2試合を欠場することとなった。
大黒柱を失ったハンガリーは、ブラジルやウルグアイといった強豪を相手に勝ち進んだが、疲労が蓄積し決勝で再び西ドイツと対戦する頃には満身創痍の状態であった。
自身も怪我をおし出場し、6分にプスカシュが先制ゴールを挙げた時には、彼の復活とハンガリーの優勝は間違いないと思われた。
更に2分後にゾルターン・チボールが追加点を奪い、いよいよ戴冠に近づいたかと思われたが、雨によるぬかるんだピッチは、疲労が蓄積したマジャールの動きを奪い、西ドイツに逆転を許した。
絶望的な形勢の中、プスカシュが同点ゴールを決めたかに見えたが、無情にもオフサイドの判定。
イングランド人主審の不可解な判定もあり2−3で敗北し、マジック・マジャールの不敗神話は最も重要な舞台で終焉を迎えた。

ワールドカップ決勝戦で不敗記録にピリオドを打たれたハンガリーであったが、その後の2年間でも20勝5分3敗の好成績を残し、依然世界のトップクラスであることを証明し続けていた。
1956年ハンガリー動乱が発生し、ホンヴェードの一員としてチャンピオンズカップ出場の為、スペインへ遠征中だったプスカシュはそのまま帰国せず、混乱が続くハンガリー国内ではリーグが中止となったこともあり、プレーの機会を求めてスペインに亡命する。
しかし、ハンガリー政府の圧力がかかり、18ヶ月の公式戦出場停止処分を受けてしまう。



処分が明けた1958年、31歳でスペインの名門レアル・マドリードに加入。
試合から遠ざかっていたこともあり、やや肥り気味の体型に不安視する声もあったが、リーグ戦で24試合に出場し、21ゴールを挙げる活躍で不安を払拭してみせた。
チャンピオンズリーグの舞台でも活躍を見せたが、決勝戦はケガのため出場できなかった。
チームは、スタッド・ドゥ・ランスを下し4連覇を果たす。
翌シーズンの決勝では、アイントラハト・フランクフルトを相手にプスカシュは後半に4ゴールを挙げ、7−3で圧勝しチャンピオンズカップ5連覇の偉業に花を添えた。
61−62シーズンの決勝でもハットトリックの活躍をみせたものの、チームはベンフィカに敗れた。
ディ・ステファノらと共にレアル・マドリードの第1次黄金時代を築いた。
レアル・マドリードでは、リーガ・エスパニョーラ優勝6回、チャンピオンズカップ優勝3回という記録を残し、自身も得点王に4度輝いた。

1961年にはスペイン国籍を取得し、スペイン代表にも選出され、国際試合の舞台に復帰し、翌年のチリで行われたワールドカップに出場した。

1966年に39歳で現役引退し、その後はスペイン、アメリカ、カナダで監督を歴任し、1971年にはギリシャの名門パナシナイコスを率い、チャンピオンズカップの決勝まで導くも、ヨハン・クライフ率いるアヤックスに0−2で敗れた。

冷戦終結後、プスカシュは故郷ハンガリーを訪れ、国を捨てた者として石のつぶてを覚悟していた彼を待っていたのは、国民的英雄の帰還を祝う熱狂的な歓迎を受け、2001年には、ハンガリー国立スタジアムが「プスカシュ・フェレンツ・スタジアム」(Stadion Puskás Ferenc)と改称された。

晩年は、アルツハイマー病のため6年もの間寝たきりの状態に陥り、2006年11月17日、肺炎のためブダペストで死去。

2009年に、FIFAが彼の功績をたたえ、年間で最も美しいゴールに与える「FIFAプスカシュ賞」を創設。

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17歳でプロデビューし、50歳で引退するまでの33年間の現役時代、一度も警告を受けた事が無いというまさに『究極のフェアプレイヤー』であり、イングランド史上に残る天才ウイングプレイヤーで、右アウトサイドで繰り出すフェイントテクニックや華麗なドリブルテクニックは『マシューズ・トリック』と呼ばれ、相手右サイドバックを恐怖に陥れた“サー・スタンリー・マシューズ”。

菜食を心がけるなど徹底的な体調管理で、長きに渡って活躍し、あのペレからも『全フットボール選手の模範となる名選手』と評されている。


1915年2月1日、プロボクサーの息子としてマシューズは生まれる。

彼の父親、ジャック・マシューズはフェザー級のボクサーをしながら床屋も経営していたことから「戦う床屋」と呼ばれており、幼いマシューズは土曜の朝に父親の床屋の床掃きを手伝うとわずかなお金を貰い、そのお金で後にマシューズが所属するストーク・シティのライバル、ポート・ヴェイルの試合に足を運ぶのを日課としていた。

14歳の時、週給1ポンドでストーク・シティのグラウンドスタッフとして働き始めたのをきっかけに、15歳で選手としてストーク・シティへ加入。

1932年、17歳の誕生日にプロ契約を結ぶと同年3月19日にはプロデビューを飾り、得意のドリブルの才能をいかんなく発揮し、ストーク・シティでレギュラーを確保すると、1934年9月29日にはウェールズ戦でイングランド代表デビューを果たす。

1939年、第2次世界大戦の影響によりイングランドリーグは中止となり、これによりマシューズはキャリアの全盛期といえる24歳から31歳までの間、キャリアは一時中断されてしまった。

7年ぶりにリーグ戦が再開された翌年、ストーク・シティのファンの間に激震が走った。

クラブが既にストーク・シティのシンボルとなっていたマシューズをブラックプールに破格の値段で譲ってしまった。

マシューズを得たブラックプールは、その後6シーズンでそれまで一度も成し遂げられなかったFAカップの決勝進出を3度も果たすことになる。

1948年はマンチェスター・ユナイテッド、1951年にはニューカッスルに敗れてしまったが、3度目の挑戦は歴史に残る名勝負となり、クラブ初となるタイトルを獲得することとなった。

1953年5月3日FAカップ決勝戦、ボルトンとの試合ではロスタイムでの大逆転劇勝利の立役者となり、自らも『生涯最高のゲーム』と語る。

この試合、ブラックプールは3ー1とリードされていたが、ロスタイム直前の89分に同点に追いつくと、迎えたロスタイムの92分、右サイドを駆け上がったマシューズからのクロスをペリーが決め、ブラックプールは4ー3で劇的な逆転勝利を飾った。

この試合は『マシューズ・ファイナル 』と語り継がれ、FAカップ史上最も劇的な試合とされている。

このときマシューズは38歳、ブラックプールでは1948年に英国年間最優秀選手賞の初代受賞者になると、1956年にはバロンドール初代受賞者に、そして翌年1957年にはOBE(大英帝国勲章)を受賞した。

14シーズンをブラックプールで過ごした後、1961年当時2部のストーク・シティに戻り、そのシーズンは最終的に8位で終えるが、翌62−63シーズンにはリーグ優勝を決め1部昇格を決めた。

この年、マシューズは48歳にもかかわらず42試合中35試合に出場と驚くべき記録を残し、2度目となる英国年間最優秀選手賞を受賞。

そして、1965年1月には英国女王エリザベス2世により、フットボーラーとして、そして現役選手として初のナイトの称号を授かった。、

マシューズのキャリアの最終戦となったのは、50回目の誕生日を迎えた5日後の1965年2月6日のフルハム戦。

この試合で、マシューズは50歳と5日というトップリーグ最年長選手の出場記録を樹立し現役から退いた。

引退後は、ポート・ヴェイル、ハイバーニアンの監督を歴任すると共にアフリカ、マルタ、カナダ等世界中で指導に従事し、1989年にはストーク・シティの会長に就任している。

最後の最後までフットボールと共に生きたマシューズは2000年2月23日、85歳でこの世を去った。

選手としての経歴は、決して栄光に溢れていたわけではない・・・。

しかし、マシューズほど多くの人々に愛され、フットボールに生涯を捧げた選手もいないであろう。



彼はキャリアの晩年こう語った、

『自らを厳しく律し、フットボールへの情熱を失わなければ、40代になっても20代の頃を上回るプレーができるのだ』



21世紀に入り、フットボール界は大きく変貌を遂げた。



現状を見て、天国のマシューズが何を思うのか・・・。

エル・ブランコの礎

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抜群のスピードを活かした鋭いドリブル、左右両足どちらも精度の高いシュートで多くのゴールを決め、ヘディング、スタミナ、嗅覚、戦術眼、テクニックなど必要な能力をすべて高いレベルで併せ持ちあわせた“アルフレッド・ディ・ステファノ”。
エースストライカーとしての他にも、中盤に下がってのゲームメイクや守備能力にも長けた万能なプレイヤーで、3ヶ国(アルゼンチン、コロンビア、スペイン)の代表経験があり、バロンドールも2度受賞した。

1926年7月4日、イタリア系移民の子供としてブエノスアイレスで生まれ、15歳でリバープレートのユースチームに入り、1943年に『ラ・マキナ』と呼ばれ、当時世界トップクラスの強さを誇っていたトップチームとプロ契約。
1946年ウラカンにレンタル移籍するが翌年には復帰し、そのシーズン27ゴール挙げ得点王となる。

1947年に開催されたコパ・アメリカ、ボリビア戦でアルゼンチン代表デビューを果たし、同大会で6ゴールを挙げ優勝に貢献する。

ゼネラル・ストライキによる給料問題から、1949年コロンビアリーグのミジョナリオスへ移籍、4シーズンで292試合に出場し、267ゴールを記録し、1951年、1952年には2年連続で得点王になる。
この活躍により、コロンビア連盟からコロンビア代表への強い要請を受け(当時は複数の国の代表でプレーが可能だった)、 コロンビア国籍を取得しコロンビア代表としても出場した。

ミジョナリオスが親善試合のため、スペイン遠征をした時、レアル・マドリードの関係者の目に留まる。
しかし、バルセロナも同選手のプレーを見て獲得に興味を示したため、2つのクラブの激しい争奪戦の末、1953年にレアル・マドリードへと移籍。
バルセロナもディ・ステファノの保有権の1部を所有しており、これは大きな問題となった。
結局、当時のスペインの最高権力者であるフランコ将軍が「1年ずつ交代でチームを代わってはどうか」と発言したことにより、1年目はレアル・マドリードでプレーすることになった。
レアル・マドリードで初めて迎えた新シーズン、奇しくも開幕戦の相手はバルセロナ。
ここでディ・ステファノは4ゴールを挙げ、5−0でレアルが勝利すると、当時のレアル・マドリード会長サンチャゴ・ベルナベウは、天文学的といわれた程の莫大な移籍金をバルセロナに支払い、ディ・ステファノのパスを独占した。

エル・ブランコの伝説が始まった瞬間だった。

レアル・マドリードでの11シーズンでリーグ通算301ゴール、チャンピオンズカップ通算49ゴール、リーガ優勝8回、コパ・デル・レイ優勝1回、5度のリーガ得点王、1957年、1959年と2度のバロンドール受賞などの輝かしい成績を残した。
特筆すべきは、ディ・ステファノを擁したレアル・マドリードは、55−56シーズンから59−60シーズンまで新しく創設されたチャンピオンズカップ5連覇という偉業を打ち立てた。
特に59−60シーズン決勝のフランクフルト戦は、名勝負として有名である。
フランクフルトに先制を許すが、ステファノの連続ゴールで逆転すると、プスカシュの4ゴール、とどめはステファノのハットトリックとなるゴールでゴールラッシュを締めくくった。



そして、この年から始まったインターコンチネンタルカップにおいても、コパ・リベルタドーレス優勝者のペニャロールを下し初代王者となった。

1956年にはスペイン国籍を取得し、1957年1月のオランダ戦で、スペイン代表として3ヶ国目となる代表デビューも果たしている。

1964年エスパニョールに移籍し、1966年現役を引退。

現役引退後、アルゼンチンやスペイン等のクラブで監督を務め、2000年にレアル・マドリードの名誉会長に就任。

1989年には、フランスフットボール誌から歴代最優秀選手としてスーパー・バロンドールに選出された。

また、レアル・マドリードBのスタジアムは、エスタディオ・アルフレッド・ディ・ステファノと命名されている。

2005年12月に心筋梗塞でバレンシアの病院に緊急入院したが、その後バイパス手術を受け、無事に退院した。


これほどの選手でありながら、ワールドカップに出場していないことは不思議であるが、ディエゴ・マラドーナペレヨハン・クライフらと同列で語られる選手である。


同じアルゼンチン人のディエゴ・マラドーナは「私がペレより良い選手であったかどうかはわからない、しかしディ・ステファノがペレより良かったことは疑いようがない。」と語った。

しかし、マラドーナと同じく偉大なる選手、そして辛口であることが知られているバルセロナにも所属していたヨハン・クライフは、「私は新しいディ・ステファノになれるかもしれないが、新しいペレにはなれなかった。彼は唯一理論を超えている。」と語っている。

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